スーツのジャケットには、たいてい二つか三つのボタンが並んでいます。ところが「いちばん下のボタンは留めないのが正しい」と聞いて、驚いたことはないでしょうか。せっかく付いているのに留めないなんて、と不思議に思うのも当然です。
じつはこの作法、「アンボタンマナー」と呼ばれ、はるか昔のある王様の窮屈な事情から生まれたといわれています。この記事では、留め方のルール・意外な由来・ベストや座るときの作法まで、順にほどいていきましょう。
まず、留め方の早見表

細かい話に入る前に、ボタンの数ごとの「留め方」をまとめておきます。共通しているのは、シングルのスーツでは一番下を留めない、という点です。
| スーツの種類 | 留めるボタン |
|---|---|
| シングル・2つボタン | 上の一つだけ |
| シングル・3つボタン | 上の二つ(一番下は留めない) |
| 段返り3つボタン | 真ん中の一つだけ |
| ダブル | 基本はすべて留める |
「アンボタン」の基本ルール

まずは、なぜ留めないのかは置いておき、実際のルールから見ていきます。ポイントは、一番下のボタンの「立場」です。
一番下は「飾り」のボタン
留めるとシルエットが崩れる
シングルのジャケットで一番下まで留めると、おなかまわりの布が引っぱられ、横ジワが寄ってしまいます。せっかくのすっきりしたシルエットが、そこで台無しになるのです。留めないほうがきれいに見える、という理由が、まず一つあります。
そもそも留める前提ではない
いまのスーツでは、一番下のボタンは「飾りボタン」と位置づけられています。つまり、デザイン上そこにあるだけで、留めることを想定して付いているわけではありません。だから外していても、だらしないどころか、むしろ作法にかなった着こなしになります。
ボタンの数で留め方が変わる
2つボタンは上だけ
もっとも一般的な2つボタンのスーツでは、上の一つだけを留めます。下は開けておくのが正解です。立っているときは上を留め、座るときにはそれも外す、と覚えておくとよいでしょう。
段返り3つは真ん中だけ
少しややこしいのが、3つボタンのなかでも「段返り」と呼ばれるタイプです。この場合、一番下だけでなく、襟に隠れた一番上のボタンも留めません。結果として、真ん中の一つだけを留めるのが正解になります。
※ 段返り(だんがえり)3つボタンとは、一番上のボタンが襟の折り返し(ラペル)の裏に隠れる仕立てのスーツのことです。見た目は2つボタンに近く、真ん中を留めて着ます。
本題——なぜ一番下を留めないのか

では、いよいよ本題です。なぜ、わざわざ一番下を留めない習慣が生まれたのか。もっとも有名なのは、ある王様にまつわる、少し笑ってしまう逸話です。
有力なのは「太った王様」説
英国王エドワード7世の逸話
時は19世紀から20世紀初め、イギリスの国王エドワード7世(1841〜1910年)が主役です。彼は当時、洒落者として社交界で知られた、ファッションの手本のような存在でした。人々は、彼の着こなしをこぞってお手本にしていたのです。
太って留められず、周りが真似た
そのエドワード7世が、年を重ねてすっかり恰幅がよくなり、ジャケットの一番下のボタンを留められなくなってしまいます。ところが、お手本である王が外しているのを見た貴族たちは、それがマナーだと思い込んで真似をした。こうして「一番下は留めない」という作法が広まった、と伝えられています。
ほかの説もある
洒落者ブランメル説
由来には、別の説もあります。19世紀初めの伝説的なお洒落男ボー・ブランメルが洗練された着こなしとして考案し、それを王が取り入れて広めた、という説です。どちらが本当かは決めきれませんが、いずれも「上流の洒落者が広めた」という点は共通しています。
乗馬や動きやすさのため説
実用的な理由をあげる説もあります。馬に乗るとき、ジャケットの裾が突っぱらないよう下を開けた、という話です。もともと男性の上着は乗馬とも縁が深く、動きやすさへの工夫が作法として残った、と考えると筋が通ります。
ベストも、一番下は留めない

じつは、この「一番下は外す」という作法は、ジャケットだけの話ではありません。中に着るベストにも、同じルールが受け継がれています。
ジャケットと同じ作法
ウエストコートの最下部は外す
ベスト(ウエストコート)も、一番下のボタンは留めないのが正式とされています。三つぞろいのスーツを着るとき、うっかり全部留めてしまいがちですが、下は開けておくのが粋なのです。ジャケットと同じ考え方が、ここにも生きているのです。
これもエドワード7世が始めた
面白いことに、ベストの一番下を外す習慣も、始めたのは同じエドワード7世だと伝えられています。太った王様は、ジャケットとベストの両方で、後世に作法を残したことになります。窮屈から生まれた着こなしが、百年以上も受け継がれているわけです。
ダブルやタキシードは別
基本はすべて留める
ここまでは、あくまでシングル(前身頃が一列のボタン)の話です。ボタンが二列に並ぶダブルのスーツや、フォーマルなタキシードは、事情が違います。これらは、基本的にすべてのボタンを留めて着るのが原則です。
フォーマルほど、きっちりと
ダブルは前を深く重ねる作りなので、下まで留めてこそシルエットが決まります。格式の高い装いほど、ボタンはきっちり留めるのが基本、と覚えておくとよいでしょう。「一番下は外す」が万能のルールではない、というわけです。
立ったら留め、座ったら外す

もう一つ、覚えておくと動作が美しく見える作法があります。それが、立っているときと座っているときで、ボタンを留めたり外したりするという習慣です。
座るときは外すのがスマート
留めたまま座るとシワが寄る
椅子に腰かけるときは、留めていたボタンを外すのがスマートとされています。留めたまま座ると、前身頃が引っぱられて、横に大きなシワが寄ってしまうからです。外しておけば、布が自然に落ちて、すわり姿もすっきり見えます。
生地を傷めない知恵でもある
これは見た目だけの話ではありません。留めたまま座り続けると、ボタンやその周りの生地に負担がかかり、傷みやすくなります。座るときに外すのは、スーツを長持ちさせるための、理にかなった知恵でもあるのです。
立ち上がったら、また留める
所作の一部として自然に
立ち上がるときには、外したボタンをさっと留め直します。この一連の動きが自然にできると、ぐっと洗練された印象になります。慣れると意識せずに手が動くようになり、立ち居振る舞いの品につながるものです。
一番下は、座っても留めない
ここで最初のルールを思い出してください。立っているときに留めるのは、あくまで上のボタンだけ。一番下は、立っていても座っていても、ずっと外したままです。留めたり外したりするのは、上のボタンの役目というわけです。
女性のスーツは、少し事情が違う

ここまでは主に男性のスーツの話でした。では女性のスーツはどうかというと、少し勝手が違います。
基本は留めておく
シワが寄りにくい仕立て
女性用のスーツは、体の線に沿うように立体的に仕立てられており、留めたままでもシワが寄りにくくつくられています。そのため、男性のように「座ったら外す」を厳密に守らなくても、美しいシルエットを保ちやすいのです。
面接などでは留めるのが基本
就職の面接やあらたまった場では、女性はボタンを留めておくのが基本とされます。きちんと留めることで、誠実で整った印象を与えられるからです。男性の「外す作法」とは逆になる点は、覚えておいて損はありません。
マナーの正体は「美しさ」と「配慮」
見た目を整える実用の知恵
こうして見ていくと、ボタンの作法はどれも「美しく見せる」「服を傷めない」という、実用に根ざしていることがわかります。難しい決まりごとのようでいて、その根っこは案外シンプルなのです。
型を丸暗記しなくていい
だから、細かいルールをすべて丸暗記する必要はありません。「一番下は飾り」「座ったら外す」という勘どころさえ押さえておけば、たいていの場面で困りません。作法の裏にある理由を知っておくほうが、応用がきくというものです。
スーツのいちばん下のボタンは、太った王様の窮屈から生まれた、いわば歴史のいたずらが残した飾りです。窮屈しのぎの一手が、めぐりめぐって世界中の作法になった。そう思うと、堅苦しく見えるスーツのマナーも、どこか人間くさくて愛おしいものに感じられます。


