「カーキ」はヒンディー語で「土埃色の」、「セピア」はギリシャ語で「コウイカ」を指す言葉です。「えんじ(臙脂)」は、中国で紅花の産地だった燕支山(えんしざん)の名にちなむとされています。どれも色の名前より先に、土・イカ・山というモノや場所の名前がありました。3つの色名の成り立ちと、同じように国境を越えてきたほかの色名をたどります。
カーキはヒンディー語の「土埃色」

さかのぼるとペルシャ語の「土」
英語の khaki は、ヒンディー語の khākī(土埃色の)を借りた言葉です。同じ語はウルドゥー語にもあり、その元はペルシャ語の khāk で、意味は「土」や「土埃」。乾いた地面から舞い上がる砂ぼこりの、あのくすんだ黄土色をそのまま指していました。
つまりカーキは、もともと色の名前ですらなかったわけです。インドの言葉で「土っぽい」と言っていたものが、英語に入って色名になりました。
白い夏服を土で染めた英印軍
英語に入ったきっかけは、19世紀半ばのインドに駐留していた英印軍です。白い夏服は汚れが目立つため、兵士たちは現地の土を使って服を染めました。その色を現地の言葉で「カーキ」と呼んだのが始まりとされています。
最初の部隊は1846年のガイド隊
カーキの制服を最初に着たのは、1846年12月にラホールで編成された「ガイド隊(Corps of Guides)」でした。1848年には、それまでの現地風の服に代えてカーキの制服が導入されています。白い木綿の布を、その土地の泥で染めたものでした。
副隊長のウィリアム・ホドソンは、この服で部隊を「土埃の国で見えなくする」と語ったと伝わります。派手な色で威容を見せるのが当たり前だった軍服に、「隠れる」という発想を持ち込んだのが新しさでした。
軍服がカーキになったのはいつ?

1868年のアビシニア遠征で公式に
イギリス軍がカーキの軍服を公式に使ったのは、1868年のアビシニア(今のエチオピア)遠征が最初とされます。ただしこの時点では、本国の軍服の主役はまだ鮮やかな赤でした。カーキは暑い植民地で着る「現地用」の色という扱いで、海外にいるイギリス軍全体の正式な軍服になったのは1897年でした。
ボーア戦争で赤い軍服が退場
流れを変えたのは、南アフリカで戦った第二次ボーア戦争(1899〜1902年)です。草原で赤い軍服は遠くからでも狙われやすく、カーキの目立ちにくさが実戦で証明されました。1902年、イギリス陸軍は通常の軍服にもカーキを採用します。
このとき選ばれた色は、インドの初期のカーキよりはっきり暗く、緑がかっていました。同じ「カーキ」でも、時代と場所で色味が動いていたことになります。
日本陸軍は1906年に採用
日本でも、1906年(明治39年)に陸軍が濃紺に代えて茶褐色の軍服を採用しました。中国大陸の黄土に合わせた赤みのある黄土色で、これが「カーキ色」として紹介されます。日露戦争の翌年のことでした。
カーキは茶色と緑色のどっち?

日本のカーキは赤みのある黄土色
カーキと聞いて茶色を思い浮かべる人と、緑を思い浮かべる人がいます。どちらも間違いではありません。明治の日本で「カーキ色」と呼ばれたのは、赤みの強い黄土色でした。年配の人が茶色寄りに受け取るのは、この流れを引いています。
1920年からの「国防色」は別の色
1920年(大正9年)以降、陸軍の軍服には青みを帯びた茶褐色が使われるようになります。こちらは「国防色」と呼ばれ、明治のカーキ色とは区別されました。戦時中に国民服などの色として広く知られたのも、この国防色です。
米軍のオリーブドラブもカーキに
欧米では、のちにアメリカ軍が採用したくすんだ濃い緑(オリーブドラブ)までカーキと呼ばれるようになりました。こうして茶系と緑系が同じ名前の下に混ざっていきます。いまの服の売り場で緑寄りのカーキが多いのは、こちらの系統です。
セピアはギリシャ語の「コウイカ」

イカ墨は古代のインクだった
セピア(sepia)は、古代ギリシャ語でコウイカを意味する sēpía をラテン語風に書いた形です。地中海沿岸では古くからイカの墨がインクとして使われ、ギリシャやローマでは文字を書くのにも用いられました。生き物の名前が、そのまま墨の名前になったわけです。
レオナルド・ダ・ヴィンチも使った茶色
イカ墨のインクは、画家の素描の道具として19世紀まで使われ続けます。レオナルド・ダ・ヴィンチも、文字を書いたり絵に淡い色をのせたりするのにセピアを使いました。黒ではなく、少し赤みのある深い茶色になるのが特徴です。
ドレスデンで絵の具の顔料に
18世紀の終わりには、ドレスデンの画家ヤーコプ・ザイデルマン(1750〜1829年)がイカ墨を濃縮する方法を考え出し、水彩にも油絵にも使える顔料にしました。顔料にするときは、墨をアルカリで溶かしてから塩酸で沈め、乾かして茶色の粉にします。
ザイデルマンは消えにくいセピアの素描で名を上げ、その描き方は「ザイデルマン式セピア画法」と呼ばれました。ロシア皇帝アレクサンドル1世の注文で、イタリア絵画の名作をセピアで写し取ってもいます。
※ 顔料(がんりょう)とは、水などに溶けない色の粉のことです。溶ける「染料」と違い、絵の具やインクのもとになります。
古い写真がセピア色と呼ばれるのはなぜ?

19世紀末に印刷のインクで流行
19世紀の終わりになると、セピアのインクが新聞や雑誌の印刷にも使われ、人気の色になりました。写真でも、白黒の像を茶色に変えて仕上げる「セピア調」が現像されるようになります。茶色の写真は、当時としては新しく見栄えのする仕上げでした。
黄ばんだ古写真の色と重なった
もう一つの理由は、初期の写真が年月とともに傷んでいったことです。鶏卵紙(けいらんし)と呼ばれる印画紙は黄ばみやすく、画像そのものも薄れていきました。その色味がセピア色に近かったため、「セピア色」は古い写真や懐かしさを表す言葉として定着します。
※ 鶏卵紙とは、卵白を塗った紙に銀の薬品をしみ込ませた写真用の紙です。19世紀後半の写真の多くに使われました。
えんじは中国の山の名前から

燕支・焉支・胭脂と書き分けた
えんじは漢字で「臙脂」と書き、黒みを帯びた濃い紅色を指します。同じ音で燕支・燕脂・胭支・焉支などとも書かれてきました。表記がこれだけ揺れるのは、もとが中国の外から入った音を漢字に当てた言葉だからだと考えられています。
紅花の産地「燕支山」にちなむ
名前の由来とされるのが、中国で紅花の産地だった燕支山(焉支山)です。さらにその語源や紅花が育つ環境から、起源は中央アジアにあるのではという指摘もあります。一つの色名を追うと、シルクロードの奥まで話が広がっていきます。
匈奴が嘆いたという故事
紀元前2世紀、漢の武帝が北方の遊牧民・匈奴(きょうど)から祁連山(きれんざん)と焉支山を奪いました。このとき匈奴は「我が婦女から顔色を失わせた」と嘆いたという故事があります。紅をとる山を失い、女性たちが化粧できなくなったという意味です。
ただし百科事典は、この話が漢の時代に本当にあったかは定かでないと留保しています。それでも、えんじが山と化粧の紅に結びついて語られてきたことはよく分かる逸話です。
えんじ色の赤は何から採った?

西域から来た紅花
えんじの赤の一つめの原料は紅花(べにばな)です。紀元前2世紀ごろに西域から中国へ伝わり、日本にも5世紀ごろに渡ってきたとされます。古い和名は「呉藍(くれのあい)」で、中国から来た染料という意味でした。花から採れる赤い色素が、口紅や染め物に使われます。
虫から採る赤もえんじと呼んだ
もう一つの原料は、意外にも虫です。ラックカイガラムシが分泌する暗い紫色の物質からも赤がとられ、正倉院にもその染料が残っています。のちにはアメリカ大陸原産のコチニールカイガラムシも使われ、ヨーロッパで広まりました。植物と虫、まったく違う出どころの赤が同じ名前で呼ばれてきたのです。
日本では学校の色として広まった
日本では、えんじは20世紀初めからスクールカラーとして広まりました。立命館大学は1932年の日本学生陸上に出るとき、えんじ色のユニフォームを作ったとされます。昭和の後半には、学校のジャージやブレザーのネクタイにもよく使われるようになりました。
地名が残る色はほかにもある

マゼンタは1859年の戦場の町
プリンターのインクでおなじみのマゼンタも、地名から来た色です。1858〜1859年、フランスの化学者ヴェルガンが赤紫の合成染料を作り、最初は花の名から「フクシン」と呼びました。1859年6月4日、北イタリアのマジェンタの町の近くで、フランス・サルデーニャ軍がオーストリア軍に勝ちます。
この勝利を祝って、染料は1860年に「マゼンタ」と改名されました。同じころイギリスでできた似た染料も、この名を名乗っています。色名がその年の大ニュースを今に伝えているわけです。
ターコイズはトルコで採れない
青緑色のターコイズは、古いフランス語で「トルコの」という意味です。ところがこの石の産地はペルシャ(今のイラン)のホラーサーン地方で、トルコでは採れません。オスマン帝国を通ってヨーロッパに届いたため、通り道の名前がついてしまいました。英語で色の名前として使われた最初の記録は1573年です。
インディゴは「インドの染料」
ジーンズの色のインディゴは、ギリシャ語の「インドの染料」がラテン語・ポルトガル語を経て英語になった言葉です。インドがヨーロッパへの主な輸出元だったことから、この名がつきました。英語の記録は1289年までさかのぼりますが、当初は色ではなく染料そのものを指していました。
海を越えた青と、果物のオレンジ

ウルトラマリンは「海の向こう」
深い青のウルトラマリンは、中世ラテン語の ultramarinus(海の向こうの)から来ています。原料はアフガニスタンの鉱山で採れるラピスラズリという青い石でした。14〜15世紀にはイタリアの商人が運び、ヴェネツィアがその取引の拠点になっています。
ルネサンス期のヨーロッパでは金と同じくらい高く評価され、画家は主に聖母マリアの衣を塗るのに使いました。1826年にフランスで人工の作り方が見つかり、ようやく身近な絵の具になります。
オレンジは果物の名前が先
オレンジの名は、サンスクリット語で果物を指す「ナーランガ」が元です。ペルシャ語・アラビア語・イタリア語・古いフランス語と渡り歩いて英語に入りました。英語で色の名前として使われた最初の記録は1502年で、マーガレット・テューダーのために買った服の記述です。
それまで英語では、この色を「黄赤」にあたる言葉などで呼んでいました。果物が先にあって、色はあとから名前をもらったのです。
日本古来の色の名前はどう違う?

古い基本の色は赤・黒・白・青の4つ
カタカナの色名がモノや土地の名前から来ているのに対し、日本語に古くからある色の名前は成り立ちが違います。古い時代の基本の色は、白・黒・赤・青の4つでした。このうち「あか」は、「明るい」と同じ根から来た言葉とされています。
「あお」は白と黒の間の色
「あお」は、いまの青だけでなく緑・紫・灰色まで含む広い範囲の色をまとめて指していました。白と黒の中間を意味する「間(あい)」から来たという説もあります。モノの名前ではなく、明るさや見え方の感覚から生まれた言葉だったわけです。
土埃のカーキ、イカのセピア、山の名のえんじ。カタカナや漢字の色名は、それが人の手に届くまでの道のりを短い言葉にしまい込んでいます。色の名前を一つ口にするたび、遠い土地の地面や海や山の記憶が、少しだけ一緒に運ばれてくるのです。
参考
- コトバンク「臙脂」(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
- Wikipedia「カーキ色」
- National Geographic「Your khaki pants have a history that may surprise you」
- Deutsche Biographie「Seydelmann, Jakob」
関連記事






