地図でお寺が卍(まんじ)で描かれるのは、卍が仏教で「めでたさ」を表すしるしだからです。古代インドの吉祥(きっしょう)の文様が仏教とともに伝わり、明治の地図づくりでお寺の記号に選ばれました。ナチスの鉤十字(かぎじゅうじ)は、向きが逆の形を斜めに傾けた別の図案。似ていても、たどってきた道はまるで違います。
地図の卍はお寺を表す記号

神社は鳥居、お寺は卍
国土地理院の地形図では、お寺は卍の形をした記号で示されます。神社のほうは鳥居をかたどった記号です。どちらも日本の町にはたくさんあり、地図の上でひと目で見分けられるように形を分けています。宗教の違う二つの施設を、それぞれの象徴で描き分けたわけです。
有名なお寺は名前も添える
小さなお寺は卍だけで示されますが、大きなお寺や名の知れた寺院には名前の注記も付きます。国土地理院は子ども向けの解説でも、この扱いを紹介しています。卍が並ぶ地域を見ると、昔からの門前町や寺町がどこにあったのかが浮かび上がるのも、地図を読む楽しみの一つでしょう。
明治の地図から140年以上使われている
明治11年(1878年)の『測絵図譜(そくかいずふ)』では、寺院は「仏閣」と呼ばれ、四角い飾り模様のような別の記号でした。ところが明治16年(1883年)ごろから作られた迅速測図(じんそくそくず)では、もう卍が使われています。地図記号の移り変わりを並べた一覧を見ると、その後の明治・大正・昭和・平成の図式でも、寺院の記号は卍のまま変わっていません。
記号の取り決めがまとめられた明治13年(1880年)に卍が採り入れられた、と説明されることも多くあります。郵便局や温泉の記号が何度も形を変えてきたのと比べると、卍の息の長さは目を引くものです。
なぜ仏教のしるしが卍なのか?

語源は「幸運」を表すスヴァスティカ
卍のもとは、古代インドで幸運や安らぎを表した「スヴァスティカ」という文様です。ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教では、いまも神聖なしるしとして大切にされています。仏教が中国を経て日本へ伝わるとき、このしるしも経典や仏像とともに海を渡っています。お寺の記号になったのは、仏教そのものを指す形だったからです。
※ スヴァスティカ(svastika)とは、サンスクリット(古代インドのことば)で「幸運」「よい状態」を意味する語、およびその文様のことです。英語のswastikaもこの語から来ています。
仏の胸や足の裏に現れる瑞相
仏教では、卍は仏の胸や手足に現れるめでたい特徴(瑞相/ずいそう)の一つとされます。仏の心や、多くの徳が集まっていることを示す印です。辞典によっては、仏の頭髪に現れる印とする説明もあります。単なる飾りの模様ではなく、仏の姿そのものに備わった特徴として受け止められてきました。
起源にはいくつもの説がある
形がどこから生まれたかには、はっきりした答えがありません。ヒンドゥー教の神ヴィシュヌの胸にある旋毛(つむじ)から来たという説が知られています。ほかにも、太陽の光を図にしたという説や、アショーカ王の碑文の文字を図案化したという説があります。ヴィシュヌ説より古く、もともと偉い人物の特徴を示すしるしだったと見る辞典もあるほどです。
「万」と読ませたのは唐の武則天
日本語の「まんじ」は、漢字の「万(萬)」の音から来ています。中国では、唐の女帝・武則天(ぶそくてん)がこの印を「万」と読むよう定めたと伝えられます。込められたのは「吉祥万徳(きっしょうまんとく)の集まるところ」という意味でした。いまの日本で「卍」を「万字」とも書くのは、この読み方の名残です。
ナチスの鉤十字とはどこが違う?

腕の向きが逆の「右まんじ」
卍には、腕の曲がる向きが違う二つの形があります。日本で寺院や家紋に使うのは、ほとんどが「左まんじ(卍)」です。鏡に映したような逆向きの形は「右まんじ(卐)」と呼ばれます。中国や日本では本来この二つを厳しく区別しませんでしたが、ナチスのハーケンクロイツは右まんじの側にあたります。
斜めに傾けて白い円の中へ
ナチ党がハーケンクロイツ(ドイツ語で「鉤のついた十字」)を党のしるしに定めたのは1920年です。ヒトラーは赤地に白い円を置き、その中に黒い鉤十字を描く旗を自分で考えたと書き残しています。鉤十字は斜めに傾けて菱形のように立てられました。まっすぐ立つお寺の卍とは、向きも置き方も違います。
1935年にはドイツの国旗になった
1935年9月15日の国旗法で、鉤十字の旗はドイツの正式な国旗になりました。そこから第二次世界大戦の終わりまで、この旗はナチス・ドイツの支配とホロコーストを象徴するものになります。いまもドイツなど多くの国で、ナチスのしるしとしての使用は法律で禁じられています。欧米の人が卍に身構えるのは、この記憶があるからです。
卍はいつからある形なのか?

7000年前のユーラシアにもあった形
アメリカのホロコースト記念博物館によると、卍に似た形はユーラシアで7000年ほど前にはもう現れていたかもしれません。空をめぐる太陽の動きを表したとも考えられています。インドだけのしるしではなく、ヨーロッパを含む各地で描かれてきた形です。ナチスが登場するずっと前から、世界には卍があふれていました。
ナチスが借りたのは「アーリア人」の物語
19世紀のヨーロッパでは古代インドへの関心が高まり、卍をヨーロッパとアジアにまたがる「アーリア人」の文化のしるしと見る学者が現れました。ドイツ人もその子孫だという思い込みが、ナチ党が卍の形を自分たちの印に選んだ大きな理由の一つとされます。古いしるしの由緒を、民族の優秀さを語る道具として借りたのです。お寺の卍とのつながりは形だけで、意味の上では何も受け継いでいません。
外国人向けの地図では卍をやめるはずだった?

2016年、三重塔に変える案が出た
訪日客が増えるなか、国土地理院の検討会は外国人に分かりやすい地図記号を話し合いました。2016年1月に公表された報告書では、寺院を卍ではなく三重塔をかたどった記号で示す案が出されています。理由は「ナチス・ドイツを連想させるため」です。この案は国内で反発を呼び、海外の報道でも取り上げられることになります。
多言語の地図でも寺院は卍のまま
意見の募集を経て、国土地理院は2016年3月に外国人向けの地図記号15種類を決めました。いま国土地理院が多言語表記の地図で使う記号の一覧を見ると、寺院の欄には卍がそのまま載っています。郵便局や病院は外国人向けのデザインに改められた一方で、お寺の印は変わりませんでした。
日本人向けの地形図はもともと変えない
この検討は、ふだんの地形図の記号を変えるためのものではありませんでした。国土地理院は最初から、従来の地図記号の変更を求めるものではないと説明しています。つまり三重塔案が通っていたとしても、日本人が学校で習う地形図の卍は残る予定だったわけです。議論の的になったのは、外国人に向けた地図での見せ方でした。
弘前市の市章も卍

もとは津軽氏の旗印
卍はお寺の外でも使われています。青森県弘前(ひろさき)市の市章は卍そのものです。弘前市によると、この卍は藩政時代に津軽氏の旗印として用いられたものです。功徳や円満を意味し、吉祥万徳の相を表すといわれます。戦場や行列で一族を見分けるための印が、いまは町の印になっているのです。
明治33年から町のしるしに
旧弘前市がこの卍を市章にしたのは明治33年(1900年)6月です。周りの町村と合併して新しい弘前市になった後も、平成18年(2006年)11月に改めて市章として定められました。100年以上、町のしるしであり続けているわけです。弘前の町なかで見かける卍が、お寺の場所を示しているとは限りません。
「卍」は言葉の中にも生きている

「卍巴」は入り乱れるさま
「卍巴(まんじともえ)」という言葉があります。卍と巴(ともえ)の文様がどちらも回転する形をしていることから、ものが入り乱れるさまを表すようになりました。雪が卍巴に降りしきる、といった使い方です。めでたいしるしが、時代劇の乱戦や吹雪の描写にも顔を出しているのは少し意外です。
若者言葉の「卍」
近年は、SNSで気分の高まりを表す掛け声のように「卍」と書く使い方が若い世代に広がりました。はっきりした意味はなく、どこから始まったかにも諸説あります。仏の胸に現れる徳の印が、千年以上たって絵文字のような使われ方をしている。しるしの寿命の長さを感じさせる話です。
地図の小さな卍には、古代インドの祈りと仏教の伝来から明治の地図づくりまでが重なっています。20世紀の暗い歴史をめぐる議論も、その上に加わりました。鉤十字と見分けるいちばんの手がかりは、向きと傾きよりも、その形がどこで何を指しているかでした。お寺の前に立つ卍は、数千年変わらず「ここに幸いを」と言い続けているしるしです。
参考
- 「卍」(コトバンク:日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
- 別表 多言語表記の地図で使用する地図記号(国土地理院)
- History of the Swastika(米国ホロコースト記念博物館 Holocaust Encyclopedia)
- 市章・市の花・市の木(弘前市)
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