四十九日(しじゅうくにち)の「49」は、7日を7回くり返した数です。仏教では、人は亡くなってすぐ次の生を受けるのではなく、そのあいだに「中陰(ちゅういん)」という途中の期間を過ごすと考えました。7日ごとに生まれ変わる機会があり、遅くとも7回目の49日目には必ず次の行き先が決まる。この旅の日程が、法要の区切りになりました。
四十九日は「7日×7回」でできている

初七日から七七日まで7つの節目
亡くなった日から数えて7日目が初七日(しょなのか)、14日目が二七日(ふたなのか)です。そのあとも21日目の三七日、28日目の四七日と7日刻みで節目が続きます。7回目にあたる49日目が「七七日(しちしちにち)」で、これが四十九日の正式な呼び名のひとつです。50や100のような切りのよい数にならないのは、7の倍数を7回重ねた結果だからです。
49日目は中陰が満ちる「満中陰」
七七日は「満中陰(まんちゅういん)」とも呼ばれます。死と次の生のあいだの期間が、この日でちょうど満ちるという意味です。遺族は7日ごとに供養を重ね、最後の49日目にいちばん丁重な法事を営みます。日本で今もこの日を忌明け(きあけ)とし、香典のお返しをするのはその名残です。
平安時代の記録にも「中陰法事」
この習わしは日本でもかなり古いものです。『日本国語大辞典』は、「中陰法事」という言葉の早い用例として、応和4年(964年)の記事を収めた『日本紀略』を挙げています。「四十九日」という語も10世紀半ばの文献や『源氏物語』に登場します。千年以上前の貴族たちも、7日ごとの区切りで故人を送っていたわけです。
死と次の生のあいだ「中陰」とは?

原語はサンスクリットの「アンタラー・バヴァ」
中陰は「中有(ちゅうう)」とも訳される言葉です。もとになったのはサンスクリット語の「アンタラー・バヴァ(antarā-bhava)」で、「中間の生存」を意味します。輪廻(りんね)、つまり生まれ変わりをくり返すという前提に立ったとき、死んだ瞬間から次の生を受けるまでには途中の状態がある。その途中を指す言葉です。
※ 中有(ちゅうう)とは、「antarā(中間の)+bhava(生存)」を漢訳した仏教語で、死と次の生のあいだの存在や期間を指します。「中陰」も同じ意味で使われます。
命のめぐりを4つに分ける「四有」
仏教には、生き物の存在を4つの段階に分ける「四有(しう)」という見方があります。生まれる瞬間が生有(しょうう)、生きている間が本有(ほんぬ)、死ぬ瞬間が死有(しう)です。そして死有と次の生有をつなぐのが中有にあたります。四十九日は、この4つの輪のうち、目に見えない最後のひとつに名前を付けた期間といえます。
すぐ生まれ変わる人もいるとされた
全員が49日をかけるわけではありません。『日本国語大辞典』の解説によれば、きわめて善い人ときわめて悪い人は、死後ただちに次の生を受けるとされました。中陰の旅をするのは、その中間にいる普通の人たちです。善悪の決め手を持たない多くの人のために、行き先が決まるまでの猶予が用意されていた、という組み立てになっています。
なぜ七日ごとに七回なのか?

7日ごとに次の生へ移る機会が来る
中有は、7日を1期とする7つの段階に分かれると説明されます。それぞれの7日の終わりに、次の生へ移る機会がめぐってくるという考え方です。生まれ変わる先との縁(えん)が整えばそこで旅は終わり、整わなければ次の7日を待ちます。法要が7日おきに置かれているのは、この「機会の日」に合わせて供養を届けるためでした。
遅くとも7回目には必ず生まれる
待つ回数には上限がありました。第7期の終わり、つまり七七日には、どんな人も必ずどこかに生まれるとされます。7日の区切りが最大7回で49日。四十九日という数字は「一番長くかかった人でもここまで」という締め切りの日なのです。最後の区切りで行き先が確定するため、遺族の供養もこの日に最も力が入ることになりました。
中有の長さには諸説があった
もっとも、49日という長さは最初から一つに決まっていたわけではありません。インドの仏教の論書には、中有の期間について「7日」「49日」「定まらない」といった説が並んで伝えられています。中有そのものを認めない学派もありました。そのなかで中国や日本に根づいたのが49日説で、7日ごとの法要もこれをよりどころにしています。
遺体の変化と重ねる見方も
「なぜ7なのか」については、はっきりした一つの答えがあるわけではありません。『日本大百科全書』は、49日という期間が遺体の腐敗が終わるまでの期間と関係しているとみられる、と記しています。体が土に還っていく時間と、魂が次の行き先を見つける時間。昔の人は、この二つを重ねて受けとめていたのかもしれません。
7日ごとの裁きは中国で生まれた

あの世の裁判を描いた『十王経』
インドの中有は、もともと「途中の状態」という抽象的な考えでした。これに裁判の物語を重ねたのが中国の十王(じゅうおう)信仰です。唐の時代に四川の僧・蔵川(ぞうせん)が作ったとされる『十王経』に、死者が7日ごとに王の前で裁かれる筋書きが説かれています。仏教と道教がまじり合って生まれた経典で、五代(10世紀前半)ごろには成立していたと考えられています。
※ 十王経とは、インドで説かれた経典の翻訳ではなく、中国で作られた経典です。仏教学ではこうしたものを「偽経(ぎきょう)」と呼びます。
49日までを担当する7人の王
十王のうち、中陰の49日間を受けもつのは7人です。それぞれの節目と担当の王を並べると、次のようになります。
| 節目 | 命日から | 裁きの王 |
|---|---|---|
| 初七日 | 7日目 | 秦広王(しんこうおう) |
| 二七日 | 14日目 | 初江王(しょこうおう) |
| 三七日 | 21日目 | 宋帝王(そうていおう) |
| 四七日 | 28日目 | 五官王(ごかんおう) |
| 五七日 | 35日目 | 閻魔王(えんまおう) |
| 六七日 | 42日目 | 変成王(へんじょうおう) |
| 七七日 | 49日目 | 泰山王(たいざんおう) |
死者はこの順に王の庁を通り、生前の行いを問われていきます。最後の泰山王のもとで、生まれ変わる先が定まるとされました。
閻魔王は35日目の担当
王のなかで一番の有名人は、五七日を受けもつ閻魔王です。日本では閻魔王を裁判長とし、ほかの9人を陪席の判事のように見る理解も広まりました。うそをつくと舌を抜かれるという言い伝えでもおなじみの存在。地獄の裁判官の代名詞が、全7回の審理のちょうど5回目に座っているわけです。
十王の裁きは三回忌まで続く
王が10人いるのに49日間の担当は7人なのは、裁きが四十九日で終わらないからです。百箇日(ひゃっかにち)は平等王、一周忌は都市王、三回忌は五道転輪王(ごどうてんりんおう)が受けもちます。四十九日のあとも百箇日・一周忌・三回忌と法要が続く流れは、この十王の日程と重なっています。
日本で作られた『地蔵十王経』
十王の物語は日本に入ってさらに形を変えました。鎌倉時代の初めには『地蔵十王経』という経典が作られます。死出の山や三途の川(さんずのかわ)といった日本になじみ深い場面が描かれているため、日本で作られたものとみられています。裁きの合間に地蔵菩薩が死者を救う筋立ても加わり、日本の四十九日のイメージを形づくっていきました。
四十九日で忌が明けるとはどういうこと?

命日を1日目として数える
四十九日の数え方は、亡くなった日そのものを1日目とするのが一般的です。そのため四十九日目は、亡くなった日から48日後にあたります。初七日も同じ数え方で、命日の6日後です。翌日から数え始めると1日ずれてしまうので、日取りを決めるときに迷いやすい点でもあります。
日をずらすなら前倒しにする
実際の法要は、参列する人の都合に合わせて49日目より前の休日に営むことが多くなっています。ずらすときは後ろでなく前に寄せるのが習わしです。行き先が決まる日より先に供養を届けておく、という考え方に沿った決め方といえます。地域や菩提寺(ぼだいじ)によって慣習が違うこともあるので、迷ったら相談するのが確実です。
仮の位牌から本位牌へ
葬儀から四十九日までは、白木(しらき)の仮の位牌が祭壇にまつられます。忌明けの法要にあわせて、漆塗りなどの本位牌に替えるのが一般的な流れです。本位牌は注文してから届くまで1〜2週間ほどかかることがあるため、早めに準備しておくよう勧められています。仮のしつらえが本式に改まるのも、旅の終わりを形にしたものでしょう。
香典返しも忌明けのあとに
四十九日は遺族が日常へ戻る区切りでもあります。喪に服す期間がここで明けるため、忌明けの法事をすませてから香典のお返しを送る習わしが広まりました。お墓がある家では、四十九日までに納骨をすませることも多いとされます。故人の行き先が決まる日が、残された人の暮らしの区切りにもなっているのです。
浄土真宗は「裁きの旅」を説かない

亡くなるとすぐ浄土に生まれる
ここまでの「7日ごとに裁かれる旅」は、すべての宗派に共通するわけではありません。浄土真宗(じょうどしんしゅう)では、亡くなった人は阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いのはたらきによって浄土に生まれ、仏になると説きます。行き先が決まらずにさまよう期間を考えないので、裁きの日程も教えのなかには出てきません。
中陰法要は遺された人のための時間
それでも浄土真宗でも、7日ごとの中陰法要は営まれ、七七日は満中陰として丁重に勤められます。浄土真宗本願寺派は、これを亡き人への追善のためではないと説明しています。遺族が教えに触れながら悲しみから立ち直っていくきっかけの法要、という位置づけです。同じ四十九日でも、誰のための日かという意味づけは宗派によって大きく違います。
「三月またぎ」は語呂合わせの迷信
四十九日が3か月にわたると縁起が悪いとして、五七日(35日目)で忌明けにする家もあります。「始終苦(しじゅうく)が身につく」という語呂合わせから来た言い伝えです。本願寺派はこれを世間の迷信とし、語呂合わせを気にして中陰を切り上げることに否定的な立場を示しています。
四十九日をめぐる豆知識

十王に3つの仏を足した「十三仏」
日本では室町時代ごろ、十王に3つの仏を加えた「十三仏(じゅうさんぶつ)」の信仰が広まりました。七回忌・十三回忌・三十三回忌まで受けもつ仏が増え、初七日から三十三回忌までの法要それぞれに本尊が決まります。十王の一人ひとりにも本地(ほんじ)となる仏があてられました。裁く王の正体が実は救う仏だった、という表と裏の組み合わせになっています。
魂は家の棟にいるという言い伝え
民間の習俗にも、中陰をめぐる言い伝えが残っています。『世界大百科事典』によると、中陰の49日間は死者の魂が家の棟(むね)にとどまっているという信仰がありました。7日ごとに墓参りをして塔婆(とうば)を立てる風習も各地に見られます。仏教の理屈とは別に、亡き人がまだ近くにいるという感覚が49日間を支えてきたことがうかがえます。
初七日は葬儀の日に営むことが多い
本来は命日の6日後に営む初七日も、いまは葬儀の当日にあわせて行うことが一般的です。遠方から集まる親族の負担を考えて、送り出しと最初の法要を一度にすませる形が広まりました。最初の裁きの日が葬儀と重なるのは、現代の暮らしに合わせた工夫といえます。
7日ごとに機会がめぐり、最も長くかかる人でも49日目には行き先が決まる。四十九日という半端に見える数字は、亡き人の旅に締め切りを設けた昔の人の知恵でした。その締め切りの日は、残された人が少しずつ日常へ戻っていくための目印にもなっています。
参考
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