「前へならえ」で伸ばす腕は、前の人とのあいだをどれだけあけるかを測るためのものです。両腕を肩の高さに上げ、前の人に触れない位置まで下がれば、列の前後がひとりでにそろいます。号令の言葉は幕末に西洋の軍隊の訓練を日本語へ訳したのが始まりで、伊豆韮山(にらやま)の代官・江川英龍(えがわ ひでたつ)が訳させたと伝わります。校庭へ入ってきたのは明治の兵式体操からでした。
「前へならえ」の腕は何を測っている?

腕は、前の人との距離を決めるためのものさしです。触れるほど近づかず、腕の長さより離れもしない。その一点で止まるように作られた動作といえます。
手引が決めている腕の形
愛知県教育委員会の「集団行動指導の手引」によると、「ならえ」の合図で先頭以外の人は両腕を前に上げます。高さは肩、幅は肩幅で、ひじと指はまっすぐ伸ばす形です。そのうえで前の人に触れないように距離をとり、前の人の後ろにきちんと重なるよう求めています。
横浜市の小学校向け資料も、文部省(いまの文部科学省)がまとめた手引を元に同じ形を示しています。全国の校庭でほぼ同じ姿勢が見られるのは、この共通の手本があるからでしょう。
指先が触れたら近すぎる
指先が前の人の背中を押している列は、腕一本ぶんより詰まっています。手引の言葉は「触れないように」なので、届きそうで届かない位置が正解です。「前へ」という言葉につられて体は前へ出たがりますが、求められているのはむしろ一歩引いて止まる動きでした。そろったら「なおれ」の合図がかかり、腕を下ろして気をつけの姿勢に戻ります。腕を上げている時間は、測り終えるまでのほんの数秒です。
腕の長さが人ごとに違っても困らない
1年生と6年生では腕の長さがかなり違うので、同じ号令でも列の長さは学年ごとに変わります。それでも困らないのは、決めているのが数字ではなく「自分の腕一本ぶん」という基準だからです。メジャーも目印もいらず、数十人が数秒で同じ間隔に並べる。道具を持たない子どもにとって、体そのものを定規にするのはよくできた仕組みです。
先頭の人や「小さく前へならえ」はどうする?

先頭の人は腕を上げず、列の基準になります。「小さく前へならえ」は、同じものさしを短く持ち替えた形です。
先頭の人は動かない基準になる
1列で並ぶとき、手引で腕を上げるのは先頭以外の人だけです。列は誰か一人が動かない点にならないと形が決まらないので、先頭は測る側ではなく測られる側に回ります。
2列以上になると、基準の列以外の先頭の人は、基準者のいる側の手を腰に当てて横の間隔をとるとされています。「先頭は腰に手」という見慣れた姿は、ここから来ているのでしょう。
「小さく前へならえ」はひじを曲げた形
「小さく前へならえ」では腕を伸ばしきらず、ひじを曲げて手を胸の前に出します。ものさしに使うのは、ひじから先の長さです。目盛りが短くなるぶん、列全体もぎゅっと縮みます。
使われるのは体育館の壁ぎわや行事の会場など、列を短くしないと後ろが入りきらない場面です。運動場では通常の形、屋内では小さい形と使い分ける学校もあります。
「右へならえ」は手を腰に当てる
横の列をそろえる「右へならえ」では、腕を横へ伸ばすと思われがちです。ところが愛知県の手引にある形は違い、基準者の側の手を腰に当ててひじを真横に張ります。頭は右へ向け、右隣の人の胸と基準者の胸が一直線に見えるように小刻みに動くとされています。縦は腕の長さで、横は張ったひじの幅で間をとる。同じ「ならえ」でも、向きによってものさしが替わるわけです。
「ならえ」を漢字で書くと何になる?

漢字では「倣え」と書きます。「習え」は誤りとされ、辞書の見出しも「倣」の字です。
「倣う」は手本どおりにすること
「習う」は人から教わって身につけること。「倣う」は、すでにあるものを手本にして同じようにすることです。ピアノは習うもので、先生の指づかいは倣うもの、と考えると違いがはっきりするはずです。
「前へ倣え」をそのまま読めば「前にいる人を手本にせよ」になります。号令は腕を上げろとも下がれとも言っておらず、手本にする相手の居場所を指しているだけです。
「右へ倣え」は人まねの意味にもなった
デジタル大辞泉で「右へ倣え」を引くと、横隊を整える号令という説明のあとに、もう一つの意味が並びます。最初に行った人のまねをしたり追随したりすること、とくに無批判にそうすることです。
他社が値上げしたので右へ倣え、という使い方がこれにあたります。列をそろえるための実務的な合図が、周りに合わせるだけの態度を指す言葉にもなりました。一方で「前へ倣え」は、比喩としてはほとんど使われていません。
号令を日本語にしたのは誰?

よく名前が挙がるのは、幕末の韮山代官・江川英龍です。西洋式の兵を育てるために、オランダ語の号令を日本語に訳させたと伝わります。
西洋砲術を広めた韮山代官
江川英龍(1801〜1855年)は、伊豆・相模を中心に幕府の領地を治めた江川家の当主です。高島秋帆(たかしま しゅうはん)から西洋砲術を学び、江戸ではその普及の中心になりました。外国船の来航に備え、農民から兵を集める「農兵」も1849年に幕府へ提案しています。
西洋式の兵を動かすには、短く言い切れて遠くまで届く号令が要ります。そこで、ふだん武芸に縁のない人でも使いやすい言葉へ置き換えたというわけです。
訳した人の名前は二つ伝わる
地元の「江川英龍公を広める会」は、家来の矢田部卿雲(やたべ けいうん)にオランダ語から訳させ、農兵を組織したときにも使ったと紹介しています。一方で、親族の蘭学者・石井修三(いしい しゅうぞう)に訳させたとする説明も広く出回っています。
どちらか一人に決める決め手は、いまのところありません。石井は後に歩兵の訓練書を翻訳した人物でもあり、二人とも江川のもとで洋学に関わっていたことは確かなようです。
「前へならえ」まで江川の訳かは分からない
江川の訳として挙がる号令は「気をつけ」「右向け右」「回れ右」が定番です。伊豆の国市を紹介する記事には「前へ習え」を並べたものもありますが、一覧に入れない紹介も多く見られます。号令の大もとが江川の周辺にあるという話は筋が通っています。ただ、この一語までを彼の訳と言い切るのは少し踏み込みすぎでしょう。
文字に残るいちばん古い号令は?

文書で確かめられるのは、1867年(慶応3年)の訳書からです。この年、フランス式とイギリス式の訓練書が相次いで日本語になりました。
1867年に出た二つの訳書
岐阜大学の渡邊義行氏の論文によると、田邉良輔(たなべ りょうすけ)がフランスの歩兵の練法を訳した『仏蘭西令言図解』には「直レ」「休メ」「気ヲ着ケ」の号令が載っています。論文はこれを、「気をつけ」を日本語の号令として使った最初の文書と位置づけています。
同じ年、薩摩藩では赤松小三郎(あかまつ こさぶろう)がイギリス式の『暎國歩兵練法(えいこくほへいれんぽう)』を訳しました。こちらは「気ヲ付ケ」の号令に姿勢の説明まで付けています。号令の日本語は、一つの国の訓練だけから生まれたわけではありません。
フランス語で始まった伝習隊の訓練
1867年、幕府はフランスから軍事顧問団を招き、伝習隊(でんしゅうたい)と呼ばれる部隊に訓練を受けさせました。号令は当初フランス語で、attention(気をつけ)・salut(敬礼)・arrêter(止まれ)といった言葉が使われたとされます。
※ 軍事顧問団とは、他国の軍隊に教官を送り、訓練や組織づくりを指導する集団のことです。
言葉が通じないうえに集団で動く習慣もなく、訓練はたびたび混乱したようです。日本語の号令が必要になった背景には、こうした現場の苦労がありました。
「付ケ」「着ケ」「著ケ」と変わった字
「気をつけ」の「つけ」の字は、時代とともに変わっています。渡邊氏がまとめた表では、明治の教科書は「氣ヲ着ケ」が中心でした。1926年(大正15年)の文部省訓令から1943年(昭和18年)の陸軍の教練教科書までは「氣ヲ著ケ」の字が見られます。
「著ケ」が使われた時期は、日本が戦争へ進んだ時期とほぼ重なっていました。論文は、字が強くなるほど号令に込める思いも強まったように見える、と述べています。
号令はどうやって学校に入ってきた?

入口は、明治の「兵式体操(へいしきたいそう)」です。軍隊の訓練を体育の授業に取り入れた科目で、隊列の組み方も一緒に教えられました。
森有礼が師範学校に持ち込んだ
推し進めたのは、のちに初代文部大臣となる森有礼(もり ありのり)です。1885年に東京師範学校で兵式体操が取り入れられたとされ、翌1886年の師範学校令のもとでは、兵式体操を含む男子の体操に毎週6時間が当てられました。師範学校は先生を育てる学校です。ここで身につけた号令を卒業生が各地の教室へ持っていくので、広まり方はとても速かったはずです。
師範学校令が掲げた「順良・信愛・威重」
師範学校令の第1条は、生徒に「順良信愛威重」の気質を備えさせることに注意せよ、と定めています。読みは順良(じゅんりょう)・信愛(しんあい)・威重(いちょう)で、素直さ・互いへの信頼・重々しさといった意味合いです。
兵式体操は、こうした気質を育てる手段として位置づけられていました。列をそろえる訓練が、体育でありながら人格の教育としても語られたのです。
教えたのは退役した陸軍の下士
1886年からは、現役を退いた陸軍歩兵の下士(かし)が体操伝習所で養成され、教員として学校へ送られたとされます。子どもに号令をかけたのは、軍隊で実際に隊列を組んできた人たちでした。
※ 下士とは、軍隊で将校と兵のあいだに立つ階級のことで、のちの下士官にあたります。
兵式体操は1911年に「教練」と名を改めます。呼び名が変わっても、整列・方向転換・行進といった中身は引き継がれました。
戦後、号令はいったん消えた?

敗戦の翌年、軍隊調の号令は学校で使いにくくなりました。いまの形に戻ったのは、それから20年ほどあとのことです。
1946年の通知は「軍隊らしさを抜く」
1946年(昭和21年)、文部省は通牒(つうちょう)で、号令・隊列行進・徒手体操などは「非軍事的態度で」行うよう求めました。渡邊氏の論文は、このとき「気をつけ」の号令が使えないものとされ、柔道や剣道も禁じられたと記しています。
問題にされたのは整列そのものより、戦前の教練を思い出させる空気のほうでした。体育は遊びやスポーツを中心に組み直されていきます。
1965年の手びきで平仮名になって戻った
1965年(昭和40年)、文部省は「集団行動指導の手びき」を出し、号令は学校に戻ります。このとき「気ヲ着ケ」は平仮名の「気をつけ」になりました。言い方は戦前と同じでも、文字の見た目はがらりと変わった。論文は、号令の意味するところが表面的になり、記号のような言葉になったと見ています。
いまの手本は1993年の改訂版
文部省はその後も手引を作り直し、1993年(平成5年)10月に「学校体育実技指導資料 第5集 体育(保健体育)における集団行動指導の手引(改訂版)」を出しました。千葉県や横浜市の資料は、いまもこの改訂版を元にしています。前の章で見た腕の高さや「触れないように」という止め方も、この系統の手引に書かれている内容です。
学習指導要領に「前へならえ」は書いてある?

書かれていません。国が示しているのは「集合」や「整頓」といった行動の種類で、号令の言葉や腕の角度までは決めていないのです。
書かれているのは集合・整頓・列の増減
2008年告示の小学校学習指導要領の体育では、集合・整頓(せいとん)・列の増減などの行動の仕方を身につけ、能率的で安全な集団行動ができるよう指導すると定めています。指導の場は「体つくり運動」をはじめ、保健を除く各領域です。
集団行動のための特別な時間を設けるのではなく、ふだんの運動の中で教える。渡邊氏の論文によれば、1999年の改訂でも同じ趣旨が書かれていました。
号令がなくても並べるのが本来の目的
愛知県の手引は、「前へならえ」で整える流れを説明したうえで、合図がなくても整列できるようにすることが本来の目的だと書いています。先頭が手を高く上げて位置を知らせ、全員が自分で距離と間隔をとる。腕のものさしは、その力をつけるまでの補助輪にあたります。
災害時の避難や不審者への対応など、手引のまえがきは集団行動が必要な場面の例も挙げています。号令の言葉は軍隊から来ていても、いま求められている中身は安全に動くための段取りです。
外国の軍隊でも腕を前に出す?

英語圏の隊列訓練でよく知られているのは、腕を真横に出す形です。両腕を前へそろえて突き出す姿は、日本の校庭で見慣れたものほど一般的ではありません。
「dress right, dress」は左腕を真横へ
アメリカの隊列訓練で横の列を整える号令が「dress right, dress」です。基準になる人を除いて、全員が左腕を肩の高さで水平に伸ばし、指をそろえます。頭は右へ向け、右隣の人と合わせて位置を決める仕組みです。
※ dressとは、隊列の用語で「列を整える」ことです。服装の意味ではありません。
前後の並びは「cover」でそろえる
縦の並びを整えるほうは「cover」と呼ばれ、前の人の真後ろに入ることを指します。腕を伸ばす向きも、そろえる順番も、日本の「前へならえ」とはかなり違う考え方です。輸入された号令が学校で使われるうちに、子どもでも測りやすい形に落ち着いた。前へ突き出された両腕は、そうした手直しの跡なのかもしれません。
幕末の訳語から明治の兵式体操へ、戦後の空白をはさんで平仮名の手引へ。号令が担う役目は、士気を練る言葉から安全に人を動かす合図へと入れ替わりました。それでも「ならえ」の一声で数十人の腕が同じ高さにそろう光景だけは、150年前の誰かに倣ったまま残っています。
参考
- 渡邊義行「「気をつけ」号令と「気をつけ」姿勢の歴史」『教育医学』第52巻第2号(2006年)|J-STAGE
- 集団行動指導の手引|愛知県教育委員会
- 師範学校令(明治十九年四月十日勅令第十三号)|文部科学省
- 江川英龍公を広める会
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