二宮金次郎像はなぜ校庭にあるのか、学校が買った像ではなかった

歴史と変遷の話
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校庭に立つ二宮金次郎の像は、学校が予算を組んで買ったものではありません。その多くは、村の資産家や地元の団体から贈られてきたものです。像がどっと増えた時期にも、静かに数を減らしているいまの状況にも、この「贈り物である」という一点が効いています。

薪を背負って本を読む少年の姿は、江戸時代からそう伝えられてきたわけでもありません。姿が固まったのは明治の中ごろ。しかも最初に学校へ置かれた一体は、薪ではなく魚を入れる籠を担いでいました。

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贈られて増え、贈る人が途切れて減った

細かい経緯に入る前に、像の数が「増えた」のか「減った」のか、その向きだけを時代順に並べてみます。上下の矢印が反転する場所が、そのまま話の節目になります。

時期向ききっかけ
明治24年(1891)姿が決まる幸田露伴の伝記に付いた口絵で「背負って読む少年」の形ができる
明治37〜44年名前が広まる国定の修身教科書と唱歌が、全国の子どもに金次郎を教える
大正13年(1924)↑ 増えはじめる愛知県前芝村の小学校に、村の資産家がセメント像を寄贈
昭和3年〜約10年間↑↑ 急増即位の礼の記念寄贈と、石材・鋳物業者の売り込みが重なる
昭和16年ごろ〜↓ 銅像が消える金属供出で銅像が回収され、石とセメントの像が残る
昭和27〜36年↑ もう一度増える地域によっては、戦後に建立の山がくる
平成〜令和↓ 減る老朽化と校舎の建て替え。「歩きながらの読書」への異論も出る

矢印が下を向くのは二回だけです。一度目は戦争、二度目がいま。それぞれ理由がまったく違います。

あの姿を決めたのは、明治24年の一枚の絵だった

「柴を背負って歩きながら本を読む」という構図は、金次郎本人が残した記録から直接来たものではありません。もとになった文章はありますが、そこに書かれている情景は像よりもずっと素っ気ないものです。

『報徳記』が実際に書いていること

原文は「歩みながら誦す」

逸話の出どころは、弟子の富田高慶(とみた こうけい)が書いた『報徳記(ほうとくき)』です。該当箇所には「採薪の往返にも大学の書を懐にしてこれを途中歩みながら之を誦し少しも怠ず」とあります。柴刈りの行き帰りに『大学』を懐へ入れ、道々それを口にしていた、という記述です。

本を背中の荷物の上に載せて開いていた、とは書かれていません。書いてあるのは「懐にして」。つまり、ふところに入れて持ち歩いていたということです。

※ 『大学』とは、儒教の基本文献とされる四書の一つです。分量は短く、江戸時代には初学者が最初に手にする書物としてよく読まれていました。

「誦す」は、開いて読むとは限らない

「誦す」という語は、声に出して読む場合にも暗誦する場合にも使われます。研究者のあいだでは、金次郎は覚えた文をたどっていたのではないかとも指摘されてきました。本を開いたのは、記憶があやしくなったときだけだった可能性もあります。

そう考えると、あの像の「両手で本を広げたまま歩く」という危なっかしい姿は、原文よりもかなり誇張されていることになります。像の危険性が近年になって議論されるのは、いささか皮肉な話です。

姿を固定したのは、伝記に添えられた口絵

幸田露伴『二宮尊徳翁』の折込口絵

明治24年(1891)、幸田露伴(こうだ ろはん)が博文館から『二宮尊徳翁』を出しました。この本に折り込まれた口絵を描いたのは小林永興という画家で、そこに「柴を背負い、本を読みながら歩く少年」が描かれています。負薪読書(ふしんどくしょ)と呼ばれる、あの姿です。

この一枚が、のちの金次郎像の原型になったと考えられています。文章から像への距離を一気に縮めたのは、伝記そのものではなく、伝記に添えられた挿絵のほうでした。

教科書と唱歌が、その姿を全国へ配った

明治37年(1904)から使われた最初の国定修身教科書『尋常小学修身書』で、二宮尊徳は孝行・勤勉・学問・自営という四つの徳目を代表する人物として扱われました。さらに明治44年(1911)の『尋常小学唱歌 第二学年用』には、唱歌「二宮金次郎」が載ります。

一番の歌詞は「柴刈り縄ない草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲よく 孝行つくす 手本は二宮金次郎」。教科書で名前を覚え、唱歌で毎年くり返し歌う。像が建つ土台は、こうして先に出来上がっていました。

最初の一体は、村の人が贈ったものだった

学校に置かれた金次郎像として現存最古とされるのは、愛知県豊橋市の前芝小学校にある像です。国や県が置かせたものではなく、地元の一人の寄贈でした。

大正13年、愛知県の漁村から始まった

皇太子の御成婚記念という名目

大正13年(1924)1月26日、宝飯郡前芝村の前芝尋常高等小学校に像が贈られました。贈り主は村の加藤六蔵。名目は皇太子の御成婚記念です。高さは約1メートル、材質はセメントでした。

作ったのは藤原利平(ふじわら としへい)という人物で、当時は加藤家の書生をしながら彫刻を学んでいたと伝えられます。名のある彫刻家の作品ではありません。村の内側だけで完結した一体だったわけです。

背負っていたのは薪ではなく魚籠

この像の姿は、後年の定型とかなり違います。野良着に草鞋、右手に本までは同じですが、左肩に提げているのは魚籠(びく)。前芝村が漁村だったことによるものとされています。

つまり出発点の一体は、すでに土地の事情に合わせて作り変えられていました。全国共通の「柴を背負う型」に収束していくのは、このあとの話になります。

即位の礼が、寄贈の引き金を引いた

昭和3年、一人の寄贈者が全国83カ所へ

昭和3年(1928)の昭和天皇即位の礼にあわせ、神戸証券取引所理事長だった中村直吉の夫人が全国83カ所へ金次郎像を寄付したと伝えられています。記念事業として何を贈るか。その答えの一つが、校庭に置く金次郎像でした。

ここから約10年間、全国の小学校に像を置くことが一種の流行になりました。昭和3年から4年ごろにかけては、富山県高岡市の鋳造業者が銅像の製作を始めています。

岡崎の石屋と、高岡の鋳物屋

流行を支えたのは、教育行政というより産地の商売でした。大正14年(1925)には愛知県岡崎市で、金次郎の銅像を売り込むパンフレットが出されています。石材の岡崎、鋳物の高岡。どちらも既存の地場産業が新しい売り先を見つけた形です。

ただし銅像は石像より値が張り、あまり売れなかったとも指摘されています。実際に各地へ広がったのは、より安価な石像のほうでした。分布は北海道から福岡まで確認され、沖縄では商店の屋根や会社の前に置かれた例も記録されています。

銅は、戦争に持っていかれた

矢印が最初に下を向くのが、太平洋戦争の時期です。ただし消えたのは像そのものというより、特定の材質の像でした。

供出をまぬがれたのは、石とセメント

昭和16年ごろから強まった金属回収

戦時下の資源不足を補うため、政府は金属供出の運動を進めました。決定打になったのが金属類回収令です。昭和16年(1941)8月30日に公布され、9月1日から施行されました。寺の梵鐘や街の銅像だけでなく、建物の鉄柵や鍋・釜まで回収の対象になっています。

校庭の金次郎像も、台座を残したまま運び出されていきました。贈られたときは「勤勉の手本」でしたが、持っていかれるときの理由は武器の原料です。同じ像が、十数年で正反対の役割を割り当てられたことになります。

最古の一体が残っている理由

前芝小学校の像がいまも現存しているのは、それがセメント製だったからだとされています。もし村の誰かが奮発してブロンズを選んでいたら、日本最古の学校像は残らなかった可能性が高いわけです。

供出後に陶製で作り直された像や、石像に置き換えられた像もありました。金次郎像そのものへの否定ではなく、材質だけが選別された。だからこそ戦後にすぐ復活できたとも言えます。

いま残っている像は、何でできているか

ある踏査記録に載った1052体の内訳

各地の像を訪ね歩いて記録している個人サイトでは、確認した1052体の材質が次のように整理されています。公的な統計ではないものの、実地で数えた記録としては貴重なものです。

材質体数割合の目安
石像793およそ4分の3
コンクリート像1131割強
ブロンズ像761割に届かない
陶像41数パーセント
木像5ごくわずか

「銅像」という呼び名とのずれ

金次郎像はふつう「二宮金次郎の銅像」と呼ばれます。ところが実際に立っているものの多くは石。ブロンズは1割に届きません。戦争で銅が抜き取られた結果が、そのまま呼び名とのずれになって残っているわけです。

石像が主流になったもう一つの理由は値段でした。学校ごとに寄贈者を探す仕組みだった以上、手の届く価格帯かどうかは決定的です。全国に行き渡ったのは、高価なほうではなく安いほうの像でした。

戦後、像はもう一度建てられた

ここが、いちばん思い込みとずれるところです。金次郎像は「戦前の遺物が残っているだけ」と受け取られがちですが、地域によっては戦後こそが建立の最盛期でした。

占領下に一掃されたわけではない

修身は消えたが、勤労と勤勉は残った

戦後の教育改革で修身の授業はなくなりました。それでも金次郎像は、軍国主義の象徴として一律に撤去された対象にはならなかったと見られています。像が体現していたのは働くことと学ぶことで、そこは新しい教育とも衝突しにくかったためです。

実際、敗戦後の混乱期に「二宮尊徳の考え方を民主教育の指針にすべきだ」という論調で像が新設された例も伝えられています。同じ像が、戦前と戦後の両方から別々の意味づけを受け取ったことになります。

奉安殿との扱いの違い

比較しやすいのが奉安殿(ほうあんでん)です。天皇・皇后の写真である御真影と、教育勅語の謄本を納めた小さな建物で、児童は登下校のたびに最敬礼を求められました。この奉安殿は占領期に各地で撤去されています。

校庭にあった戦前の設備が、すべて同じ運命をたどったわけではありません。片方は消え、片方は残った。両者を分けたのは、それが特定の体制と直結していたかどうかでした。

青森県の踏査が示した、もう一つの山

昭和33年に急増、35〜36年がピーク

県内の学校にある金次郎像を訪ね歩いた調査では、108体が確認されています。その報告によると、設置が始まるのは昭和27年(1952)ごろから。昭和33年(1958)に急増し、昭和35年から36年ごろにピークを迎えたとされます。

昭和35年といえば1960年。戦後15年が経ち、校舎の整備が各地で進んだ時期です。開校記念や周年行事の贈り物として、金次郎像がふたたび選ばれていたことになります。

「古い像だ」と思って見ているもの

そうすると、いま校庭で見かける像の一部は、戦前ではなく高度経済成長期の生まれということになります。台座に刻まれた年号を読んでみると、思っていたより新しい数字が出てくることも珍しくありません。

もちろん青森県の傾向がそのまま全国に当てはまるとは限りません。ただ「金次郎像=戦前」という等号は、少なくとも一律には成り立たないと言えます。

減っている理由は、危険視だけではない

近年の減少は「歩きスマホを助長するから撤去された」という説明で語られがちです。その声が実在するのは確かですが、現場で像を動かしている力はもう少し地味なものです。

いちばん多いのは老朽化と建て替え

コンクリート像には寿命がある

屋外に置かれた石やコンクリートの像は、数十年で風化します。表面が剥がれ、細い手足の部分から傷んでいく。とくに戦後に量産されたコンクリート像は、内部の鉄筋がさびて膨らみ、外側を押し割ることがあります。子どもが走り回る場所に立っている以上、崩れる恐れが出れば撤去の判断は早くなります。

建立の山が昭和30年代だったなら、その像は現在すでに60年以上を屋外で過ごしてきた計算です。増えた時期の山は、そのまま寿命が来る時期の山でもあります。

校舎の建て替えと統廃合

もう一つ大きいのが、校舎の建て替えと学校の統廃合です。工事のあいだ像をどこへ置くのか、新しい配置図のどこに戻すのか。この二つの問いに答える人がいないと、像はそのまま姿を消します。

廃校になった学校では、誰も訪れない校庭に像だけが残されている例も報告されています。撤去も移設もされないまま、風化が進んでいくかたちです。

「歩きながらの読書」に向けられた視線

平成24年、大津市に寄せられた声

報道によれば、平成24年(2012)に滋賀県大津市の教育委員会へ「歩いて本を読むのは危険だ」という保護者の意見が寄せられました。ほかにも「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残ではないか」といった声が、撤去の背景として紹介されています。

スマートフォンが普及するにつれ、この視線は強まりました。歩きながら画面を見ることを注意する学校が、歩きながら本を読む像を校庭に置いている。その矛盾が気になる、という筋道です。

平成28年、座る金次郎が現れた

平成28年(2016)3月1日、栃木県日光市の南原小学校に、座った姿の金次郎像が設置されました。柴を下ろし、腰を下ろして本を読む形です。撤去でも従来型の再建でもない、第三の選択肢が出てきたことになります。

寄贈した団体は「歩きスマホの危険性などが問題視される中、学校でも生徒に『ながら行動』をしないように指導していると聞きます」と説明しています。そのうえで、歩く像より座像のほうが適切だと考えたと述べました。ここでも決めたのは学校ではなく、贈る側です。

贈り物であることの弱さ

誰の持ち物なのか、はっきりしない

寄贈された記念物は、学校の備品として計画的に更新されるものではありません。机や椅子には買い替えの周期がありますが、像にはそれがない。修繕の予算がどこから出るのかも自明ではありません。傷んだときに「直そう」と言い出す立場の人が、制度のうえでは決まっていないのです。

贈った本人が健在なうちは、その人が気にかけます。数十年が経てば、贈り主も、贈った経緯を知る人もいなくなる。像だけが台座の上に取り残されます。

増やした仕組みが、そのまま減らしている

像を全国に広げたのは、行政の指示ではなく寄贈という民間の熱でした。熱があるあいだは驚くほどの速さで広がり、熱が引けば補充されません。増加も減少も、同じ仕組みの裏表だということです。

日光市の座像のように、いまも贈る人がいる場所では像が更新されています。減っているのは像への評価というより、贈る人のほうかもしれません。

もう一歩:背負っているのは薪ではない、という話

薪と柴は、別のものを指す

像の説明ではたいてい「薪を背負って」と言われます。ところが薪と柴は別のものです。木の幹や太い枝を割ったものが薪、大きくない雑木やその枝が柴。像が背負っているのは細い枝の束で、こちらは柴に当たります。

唱歌の歌詞も「柴刈り縄ない」でした。子どもが拾い集められるのは、太い薪ではなく柴のほう。倹約を説いた人物の像としては、そのほうが筋が通っているという見方もあります。

像が多い県には、理由がある

前述の踏査記録では、静岡・岐阜・愛知・三重といった中部の県に像が濃く分布しています。静岡は尊徳の教えを受けた地域が多く、愛知の岡崎は石材の一大産地。信仰の濃さと石の産地が重なった場所に、像が集まったかたちです。

逆に言えば、金次郎像の分布図は思想の広がりだけを写した地図ではありません。何が近くで作れたか、いくらで買えたか。そうした事情も一緒に写り込んでいます。

校庭の金次郎に投げかけられる問いは、たいてい「なぜ減ったのか」です。けれど贈り主の顔ぶれと、そのつど付け替えられてきた意味を並べてみると、問いはひっくり返ります。修身の教材から民主教育の指針へ、そして歩きスマホの引き合いへ。呼び名も材質も担う荷物も揺れ続けたのに、あの像はよく百年も校庭に立ち続けたものです。

参考

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