卒業式の袴は、もともと毎日の通学着だった——晴れ着になったのは日常から消えたあと

文化と価値観の話
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卒業式で見かける袴は、もともと式のための晴れ着ではありませんでした。明治の女学生が毎日はいて学校に通っていた、ふだんの通学着です。

では、なぜ日常の服が年に一度の装いになったのでしょうか。そこには百三十年ほどのあいだに起きた三つの入れ替わりがあります。男物から女物へ。日常着から式服へ。そして一度消えたあとの復活です。

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  1. 袴が卒業式にたどり着くまで
  2. はじめの袴は男物だった
    1. 椅子とテーブルが服を変えた
      1. 着流しでは裾が乱れる
      2. 政府が例外として認めた男袴
    2. 十年ほどで消えた男袴
      1. 「婦女子が袴を着るとは」という批判
      2. 明治16年、着流しへ引き返す
  3. 海老茶色の袴は、紫の代わりだった
    1. もとをたどると宮中の緋袴
      1. 跡見女学校の「お塾袴」
      2. 皇后の助言と伝わる紫
    2. 畏れ多いから色を変えた
      1. 明治30年ごろに広まった海老茶
      2. 股の仕切りがない「行灯袴」
    3. 「海老茶式部」というあだ名
      1. 紫式部をもじった呼び名
      2. 辞書に残った女学生の異称
  4. 数年で女学生が倍になった時代
    1. 高等女学校令が学校を増やした
      1. 明治33年に1万人、35年に2万人
      2. 束髪・リボン・矢絣という型
    2. 小説と自転車が広めた像
      1. 『魔風恋風』の一文
      2. モデルになった三浦環
  5. 袴が日常から消えた日
    1. 関東大震災のあとに増えた洋装
      1. 大正2年に8万人、昭和3年に36万人
      2. 運動着だったセーラー服が制服になる
    2. 残ったのは写真のなかの姿
      1. 1900年の卒業写真、31人全員が袴
      2. 制服の記憶が、式の装いに変わる
  6. いまの袴は、一度消えてから戻ってきた
    1. 漫画と映画が火をつけた
      1. 1975年の連載、1987年の映画
      2. 3、4人から200人へ
    2. 小学校まで広がって起きていること
      1. 5万円台の費用と、夜明け前の着付け
      2. 自粛を求める学校
  7. もう一歩、袴の周辺
    1. 「葡萄茶」と書いて「えびちゃ」
    2. 宝塚の袴が緑色である理由
    3. 男子学生の記号は角帽だった
  8. 関連記事

袴が卒業式にたどり着くまで

袴そのものは、明治のころから形をほとんど変えていません。変わったのは、それが置かれる場所のほうでした。移動の跡を先に並べておきます。

時期袴が置かれていた場所できごと
明治初期女学校の教室椅子の授業に合わせ、女学生が男物の袴をはく
明治16年(1883)教室から消える世間の批判を受けて着流しへ戻る
明治18年(1885)華族女学校女性用の袴が学校の制服として整えられる
明治30年ごろ(1897)全国の女学生の毎日海老茶(えびちゃ)色の女袴が広まる
大正末〜昭和初期洋装に置きかわる震災を境にセーラー服が主流になる
昭和末〜平成卒業式の会場映画をきっかけに、式の装いとして戻る

表を眺めて気づくのは、袴が「式の装い」になったのが最後の一行だけだという点でしょう。それ以前の袴は、式のためではなく授業のための服でした。

はじめの袴は男物だった

女学生と袴の付き合いは、女性用の袴が生まれるより先に始まっています。最初にはいたのは、男性のための袴でした。

椅子とテーブルが服を変えた

着流しでは裾が乱れる

明治3年(1870)に築地の六番女学校(のちの女子学院)や横浜のフェリス女学校が開かれ、翌年には政府も東京の竹橋に官立の女学校を置きました。授業は英語の教科書を訳し読みする洋学が中心で、生徒は畳ではなく椅子に腰かけて学びます。ここで困ったのが服装でした。帯だけで留めた着流しは、腰かけたり立ったりを繰り返すうちに裾が乱れてしまうのです。

政府が例外として認めた男袴

そこで政府は、この時代としては例外的に、女学生が男物の袴をはくことを認めます。国立国会図書館の展示解説はこの経緯を、椅子の授業という実務上の理由から説明しています。明治8年(1875)刊の『怪化百物語』には、島田髷(しまだまげ)を結い縞(しま)の男袴をはいて洋書を抱えた「女学校の助教」の姿が描かれました。当時の人にとって、それは相当に目新しい格好だったはずです。

十年ほどで消えた男袴

「婦女子が袴を着るとは」という批判

目新しさは、そのまま風当たりの強さでもありました。当時の論調には「今日我邦にも婦女子にして袴を着し昂然として毫も恥る意なし」といった調子のものが見られます。袴は男性のものという前提が動かないうちに、女性がはいて堂々としているのはけしからん、というわけです。

明治16年、着流しへ引き返す

東京女子師範学校の生徒の正装写真をたどると、この揺れがはっきり見えます。明治10年(1877)ごろは男袴姿でしたが、明治16年(1883)には着流しへ戻り、明治19年(1886)にはドレス姿の洋装になりました。鹿鳴館の時代です。ところが明治22年に文部大臣の森有礼が暗殺され、翌年に教育勅語が出るころには国粋主義の空気が強まります。費用の負担も重く、洋装は下火になって和装へ引き返しました。

男袴・着流し・洋装・和装への回帰。十数年でこれだけ制服が入れ替わっても、椅子の授業という最初の課題だけは解けないまま残されました。

海老茶色の袴は、紫の代わりだった

解けなかった課題に答えを出したのが、女性のために作られた袴です。そして、いま卒業式で目にするあの色は、もともと別の色の代用でした。

もとをたどると宮中の緋袴

跡見女学校の「お塾袴」

華族女学校より早く開かれ、華族の子女が多く通った跡見女学校では、早い時期から紫色の袴が使われていました。生徒たちはこれを「お塾袴」と呼んだそうです。明治15年ごろの寄宿生の写真が残っています。

皇后の助言と伝わる紫

創立者の跡見花蹊(あとみ かけい)は、この紫について皇后から直々の助言があったと語っています。「婦人にはやはり緋の袴仕立にして、色は紫を用いたらよかろう」という言葉が、明治35年11月9日の読売新聞に残されました。緋の袴とは、平安のころから宮中の女官が身につけてきた緋袴(ひばかま)のことです。女学生の袴は、思いつきの新案ではなく、千年つづいた装束を下敷きにしていました。

畏れ多いから色を変えた

明治30年ごろに広まった海老茶

明治18年(1885)に開いた華族女学校でも、学監の下田歌子(しもだ うたこ)が宮中の袴をもとに女性用の袴を整えました。デジタル大辞泉は「葡萄茶袴」の項で、下田歌子が華族女学校の制服として考案したのが始まりだと説明しています。一方、国立国会図書館の解説はもう少し別の角度から書いています。華族女学校が採っていたのは紫の袴でした。そのままでは畏れ多いとして色を変えたものが、明治30年(1897)ごろから海老茶色として世間に広まったという筋道です。

どちらの説明にも共通するのは、色が紫から一段ずらされたという点でしょう。紫は古代の冠位十二階でも最上位に置かれた色で、位の高さと結びついてきました。あの赤みがかった茶色は、遠慮の結果として選ばれた色でもあるのです。

股の仕切りがない「行灯袴」

形にも工夫がありました。女学生の袴は、左右が分かれていない行灯袴(あんどんばかま)です。中の仕切りをなくして筒状に仕立てると、見た目は袴のままで、着心地はスカートに近くなります。乗馬のために股を分けた馬乗り袴とは、外から見て区別がつきません。

襠(まち)とは、袴の左右を仕切る布のことです。襠のあるものが馬乗り袴、無いものが行灯袴と呼ばれます。

種類仕立て使われ方
馬乗り袴襠があり、左右に分かれているもとは乗馬のため。裾はやや広い
行灯袴襠がなく、筒状のひと続き女学生の袴。いまの卒業袴もこの形

「海老茶式部」というあだ名

紫式部をもじった呼び名

明治30年代の半ばには、海老茶の袴に西洋風の束髪(そくはつ)という姿が女学生の標準になります。この格好の女性を、世間は「海老茶式部」と呼びました。紫式部のもじりです。ただし、そこには憧れだけでなく、やや皮肉な視線も混じっていたとされます。

辞書に残った女学生の異称

この呼び名は流行語で終わらず、辞書の見出しにまでなりました。精選版日本国語大辞典は「葡萄茶袴」を「えび茶色の袴。おもに女学生の用いたもの」と説明し、明治30年代における女学生の異称としても記しています。服の名前がそのまま人の呼び名になる。それだけ袴の印象が強かったということでしょう。

数年で女学生が倍になった時代

海老茶の袴が一気に見慣れた光景になった背景には、制度の変更があります。学校が増え、通う少女が増えたのです。

高等女学校令が学校を増やした

明治33年に1万人、35年に2万人

明治32年(1899)の高等女学校令で、道府県は最低1校の高等女学校を置くことになりました。生徒数の伸びは急です。明治33年(1900)に1万人を超え、明治35年(1902)には2万人を超えます。わずか2年での倍増でした。

高等女学校とは、旧制中学校にあたる女子の中等教育機関です。おもに12〜17歳の少女が通いました。卒業後さらに進学する人は少なく、大正9年度の本科卒業生では進学が23.9%にとどまっています。

束髪・リボン・矢絣という型

人数が増えると、装いは型になります。不衛生とされた島田髷などの結髪に代わって束髪が広まり、前髪を大きく張り出した廂髪(ひさしがみ)がこの時代の典型になりました。矢絣(やがすり)の着物、白いリボン、海老茶の袴。足元に編み上げのブーツを合わせる姿も、明治の終わりから大正にかけて見られるようになったといわれます。いま「大正ロマン風」の名前で売られている取り合わせは、おおむねこの時期に実際に着られていた組み合わせをなぞったものです。

小説と自転車が広めた像

『魔風恋風』の一文

明治36年(1903)2月、読売新聞に小杉天外の小説『魔風恋風』の連載が始まります。冒頭に置かれたのが、この一文でした。「デードン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣の風通」。当時の読者はここで、流行の最先端をそのまま見せられたわけです。

モデルになった三浦環

この自転車の女学生には実在のモデルがいたとされます。明治33年(1900)に東京音楽学校へ通うことになった16歳の環(たまき)は、乗り物に酔う体質もあって、芝の自宅から片道8キロあまりを自転車で通いました。珍しさから新聞に載り、見物人まで出たといいます。彼女はのちに『蝶々夫人』を当たり役として、日本人女性で初めて欧米のオペラ界で活躍した三浦環です。袴姿の女学生像は、こうして小説と現実を往復しながら広まっていきました。

袴が日常から消えた日

袴が卒業式のものになった直接のきっかけは、流行ではなく退場です。日常着でなくなったからこそ、袴は特別な日の服になれました。

関東大震災のあとに増えた洋装

大正2年に8万人、昭和3年に36万人

大正に入ると、高等女学校に通う生徒はさらに増えます。大正2年(1913)に約8万人だった生徒数は、昭和3年(1928)には36万人近くに達しました。女学生はもう珍しい存在ではなくなり、装いも実用へ傾いていきます。

高等女学校の生徒数
明治33年(1900)1万人を超える
明治35年(1902)2万人を超える
大正2年(1913)約8万人
昭和3年(1928)36万人近く

運動着だったセーラー服が制服になる

転機は大正12年(1923)の関東大震災でした。避難や日々の動きやすさが重んじられ、洋装の制服を採る学校が次々にあらわれます。セーラー服はもともと明治の末に運動着として取り入れられていたもので、それが正式な通学服へ格上げされ、昭和の初めには大半の学校で採用されました。髪型も廂髪からお下げ髪や断髪へと移ります。袴は、こうして毎日の風景から静かに退場しました。

残ったのは写真のなかの姿

1900年の卒業写真、31人全員が袴

いま私たちが「袴姿の女学生」として思い浮かべる映像は、多くが記念写真に由来します。1900年の東京女子高等師範学校の卒業写真では、31名の卒業生が全員袴をはいていました。翌1901年の浦和高等女学校の卒業写真も同様です。ただし、これは卒業式のためによそおったのではありません。毎日の服装のまま並んだ結果でした。

制服の記憶が、式の装いに変わる

ここに、ねじれが生まれます。袴は日常着だったからこそ卒業写真に写り、洋装化で日常から消えたことによって、写真のなかの一場面だけが記憶に残りました。残った一場面は卒業式です。日常着が退場する過程で、卒業式という額縁だけが手元に残ったと言い換えてもよいでしょう。

いまの袴は、一度消えてから戻ってきた

とはいえ、明治から現在まで細々と続いてきたわけではありません。卒業式の袴は、昭和の終わりごろに改めて広まった比較的新しい習慣です。

漫画と映画が火をつけた

1975年の連載、1987年の映画

大和和紀の漫画『はいからさんが通る』の連載が始まったのは1975年です。自転車に乗ったヒロインの転倒から物語が動き出す構成は、『魔風恋風』の型をそのまま受け継いでいます。この作品が1987年に映画化され、主演の南野陽子が袴姿で歌番組に立ったことが、決定的な後押しになったといわれます。

3、4人から200人へ

広まり方は急でした。袴レンタル業者の証言として伝えられている話があります。1988年にある大学の卒業式で袴姿が3〜4人だったのが、翌1989年には同じ大学で200人ほどになったというのです。大学名までは公表されていないため数字そのものは参考値ですが、1990年代後半に「卒業式といえば袴」が定着したという見方は各所で一致しています。関西の業者によれば、いまでは卒業式に出る人の9割近くが袴だそうです。

小学校まで広がって起きていること

5万円台の費用と、夜明け前の着付け

近年は小学校の卒業式でも袴が増えました。2026年3月の報道が、ある家庭の一日を紹介しています。午前2時前に家を出て、3時半から着付けと髪のセットを開始。終わったのが4時半で、学校に着くのは9時です。袴のレンタル・着付け・早朝料金などを合わせた費用は5万4000円ほどで、ブーツと髪飾りは別に購入したといいます。

自粛を求める学校

学校側からは、いくつもの懸念が挙がっています。階段でつまずく危険・トイレの負担・着崩れたときの直しにくさ・体調への影響。着用を控えるよう求める学校も出てきました。同じ報道のなかで、和装を研究する大学教授は、この流行が着物業界の仕掛けではなく自然に広がったものだと指摘しています。着付けや髪のセットまで含めて売る商売のかたちが、かえって手軽な和装を扱いにくくしている面もあるようです。

もう一歩、袴の周辺

「葡萄茶」と書いて「えびちゃ」

辞書の見出しが「海老茶」ではなく「葡萄茶」なのは、書き間違いではありません。日本には古く、山ぶどうの実の色を「えび」と呼ぶ言い方がありました。海老の殻の色にも通じるため両方の表記が並び立ち、辞書では葡萄茶、日常では海老茶と書き分けられることが多いようです。

宝塚の袴が緑色である理由

タカラジェンヌの正装といえば緑の袴ですが、これも由来があります。大正10年(1921)に瀧川末子と高砂松子が買った緑色の袴が創始者の小林一三の目にとまり、以後、緑が正装として統一されたと伝えられます。女学生の海老茶に対して、宝塚は緑を選んだわけです。

男子学生の記号は角帽だった

明治38年(1905)の『滑稽新聞』に載った女学生の風刺画には、「通れ通れ角帽お通りなされ角帽」という文句が添えられています。海老茶の袴が女学生の記号だったように、男子学生には角帽と詰襟という記号がありました。ところが、その後の道は分かれます。袴は一度日常から消えたのちに式の装いとして戻り、角帽は一部の大学に残ったものの、卒業式の定番になることはありませんでした。同じ時代の学生服でも、生き延び方は同じではなかったわけです。

卒業式の袴は、伝統として守られてきたから残ったのではありません。毎日の服だったから写真に写り、日常から消えたから晴れ着になり、忘れられかけたところで一本の映画に拾われました。あの袴が特別に見えるのは、特別な服だったからではなく、特別ではなくなる道を通ってきたからです。

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