リコーダーが学校の定番になったのは、息で吹くのに誰でもすぐ音が出る楽器だったからです。指の形どおりの高さの音が鳴り、のちの管楽器に通じる指使いも持っていました。そこへ1950年代半ば、安くて狂いにくいプラスチック製が加わります。3年生から始まる形は、1968年告示の学習指導要領でたて笛が第3学年の指定楽器になったときに固まりました。
学習指導要領は「リコーダーを使え」とは書いていない

3・4年生は「リコーダーや鍵盤楽器、和楽器など」から選ぶ
いまの小学校学習指導要領(2017年告示)は、第3・4学年で取り上げる旋律楽器を「既習の楽器を含めて,リコーダーや鍵盤楽器,和楽器などの中から」選ぶよう求めています。文の結びは「児童や学校の実態を考慮して選択すること」。リコーダーは例の先頭に置かれているだけで、使うよう命じられてはいません。
例に挙がる楽器は学年によって入れ替わり、リコーダーの名前が初めて出てくるのは第3学年の項目です。
| 学年 | 例に挙がる旋律楽器 |
|---|---|
| 第1・2学年 | オルガン、鍵盤ハーモニカなど |
| 第3・4学年 | 既習の楽器を含めて、リコーダーや鍵盤楽器、和楽器など |
| 第5・6学年 | 既習の楽器を含めて、電子楽器、和楽器、諸外国に伝わる楽器など |
選ぶのは学校、それでも答えはほぼ同じ
どの楽器を使うかを決めるのは各学校です。それでも全国の3年生の机には、ほぼ同じ形のソプラノリコーダーが並びます。制度が決めたというより、楽器の性質と値段と歴史の事情が重なって、選択肢が事実上ひとつに絞られていった。そう見るほうが実態に近いでしょう。
3年生から習うようになったのはいつ?

1947年の試案では3年生の楽器は「笛」
戦後最初の『学習指導要領 音楽編(試案)』(1947年)は、小学3年生の指定楽器のひとつに「笛」を挙げていました。この「笛」は竹の横笛なども含めた総称です。作成に関わった人物の証言から、ドイツやイギリスで盛んだったたて笛も念頭にあったと考えられています。
1951年の改訂で「たて笛」は4年生に
1951年の改訂版では、第4学年に「3学年のものにたて笛を加える」、第6学年に「旋律楽器に横笛を加える」と書き分けられます。ここで初めて「笛」がたて笛と横笛に分かれました。どちらの版も表題に「試案」と付いた手引きで、守らなければならない基準ではありません。
1958年に告示へ、指定はまだ4年生から
1958年、学習指導要領は文部省の告示という形式に改まり、法的な拘束力を持つ基準になりました。器楽の指導は「やってもよいこと」から「やるべきこと」へ変わります。ただしこの版でも、たてぶえ(リコーダー)が指定楽器になるのは第4学年からでした。
※ 告示とは、国の機関が決めたことを正式に公に示す形式のことです。学習指導要領は1958年版からこの形で出されています。
1968年の改訂で第3学年に下りてきた
第3学年からの指定楽器になったのは、次の1968年告示の学習指導要領からです。音楽教育史の研究者、山中和佳子(やまなか わかこ)の論文がこの移り変わりを整理しています。1976年の教育雑誌には、ドイツ式のリコーダーなら「三年生の導入段階では」問題なく使える、と書いた小学校教師の文章も残っています。いまの「3年生でリコーダー」は、この時期に形ができたわけです。
リコーダーはどこから来た楽器?

18世紀半ばに演奏の場から消えた
リコーダーは、ずっと途切れずに吹かれてきた楽器ではありません。ヨーロッパでは1700年代の半ばまで、貴族にも庶民にも親しまれました。ところが広いホールで演奏する時代になると、大きな音量と広い音域を持つ楽器が求められます。息を強くすると音の高さまで上がってしまうリコーダーは、その流れに合わず姿を消していきました。
駅のホームに置き忘れた1本
復活のきっかけは19世紀末のロンドンにありました。古楽器を研究していたバイオリン教師アーノルド・ドルメッチの一家で、息子のカールが汽車に乗る際、リコーダーを駅のホームに置き忘れてしまいます。ヤマハの解説によれば、アーノルドは手を尽くしても見つけられませんでした。幸い古い資料から詳しい設計図を起こしていたため、彼はそれをもとに自分の手で笛を作り始めます。
ドイツで「教える笛」に作り替えられた
1920年代半ば、イギリスの古楽の音楽祭でリコーダーを聴いたドイツの楽器職人ペーター・ハルランが、自国で製作を始めます。ハルランの笛はハ長調の音階を指を順に上げるだけで吹け、低い音も鳴りやすく、しかも安価でした。
大量に作られたこの「ジャーマン式」は、1930年代のドイツで学校教育に広く取り入れられます。ナチス政権が音楽と教育を統制した時代のことでした。リコーダーは復活してまもなく、すでに「学校で教えるための楽器」になっていたのです。
日本へ持ち込まれたのは1939年

ベルリンで見た子どもたちの合奏
日本にリコーダーを持ち帰ったのは、1930年代にドイツへ留学していた作曲家の坂本良隆(さかもと よしたか)です。ヤマハの解説は、1936年のベルリン・オリンピックの催しで大勢の子どもが吹くリコーダーを聴き、教育に使えると考えたと伝えています。坂本自身も、ドイツの国民学校では和音の練習や合奏に「木笛」が盛んに使われていると書き残しています。
3本の笛と2冊の教則本
坂本は1939年の帰国時に、ドイツのヘルヴィガ社製のソプラノ・アルト・テナーの3本を持ち帰りました。それを日本管楽器製造(現在のヤマハ)に持ち込み、同社は1943年に試作品を作りました。坂本は同じ年に『児童の為の木笛の手引』と『木笛教則本』を出版しています。最初から子どもに教える楽器として見ていたことが、この2冊からうかがえます。
試作されたのはアルト、戦争で製作は止まった
おもしろいことに、教則本はソプラノ用だったのに、実際に試作されたのはアルトでした。上下2つに分かれる構造で、つなぎ目の無い当時の国産の笛とは別物です。けれども戦争が激しくなると木材まで統制され、1943年を最後に製作をあきらめざるをえませんでした。日本の教室にリコーダーが届くのは、戦後さらに10年以上たってからになります。
戦後の教室にあった「たて笛」はどんな笛?

下駄屋が木琴を作った時代
終戦直後は、楽器を作る材料も技術者も足りませんでした。当時の音楽雑誌には、楽器づくりと無縁の「下駄屋から木琴作りに転じたような」店までが、おもちゃのような品を教育用楽器と称して売り出していたという記述があります。音の高さもあやふやな笛が、学校の教材として出回っていたわけです。
1948年、国が楽器の審査を始めた
そこで文部省は1948年8月に教育用楽器審査委員会を設け、文部省・商工省と演奏の専門家が楽器を審査するようにしました。笛を担当した委員は座談会で、何よりも重視したのはピッチと音程だったと語っています。音質や音量は後回しで、まず「楽器らしい性能」を持たせることが先だったのです。
※ ピッチとは、音の高さのことです。合奏では全員のピッチがそろわないと、指使いが正しくても音が濁って聞こえます。
銀笛・竹笛・トーネットの3種類
昭和20年代の教室で主に使われたたて笛は、次の3種類でした。息を吹き込むしくみは今のリコーダーと同じでも、材質も指穴の数も音域もばらばらです。
| 種類 | 材質と特徴 | 弱点 |
|---|---|---|
| 銀笛(ぎんてき) | ブリキ・真鍮・ニッケルなどの金属製。明治後期に少年音楽隊で使われた笛と同じ系統 | 音が硬く、低いドやレがかすれやすい |
| 竹製のたて笛 | ふくらみのある音で音量もある。紫水たて笛などが代表 | 湿気や衝撃で縦にひびが入る |
| トーネット | アメリカ生まれのユリア樹脂製。オカリナを縦にしたような形で指穴は9つ | 割れやすく、音域が狭い |
銀笛は戦前から、竹笛は戦後から
銀笛は1930年の楽器目録に60銭・80銭で載っていて、戦前の笛がそのまま戦後の教室へ流れ込んだと見られています。竹のたて笛は逆で、戦前は民芸品や土産物のおもちゃ扱いでした。合奏の楽器として作られ始めたのは、戦後に教育用楽器として扱われるようになってからです。文部省のパンフレットは「年数のたったものは固く割れにくい」と、竹の選び方まで教えていました。
6つ穴の笛では指が1本足りなかった
当時の主流は指穴が6つで、親指の裏穴が無い笛でした。審査委員はこの指使いを大きな問題と見ます。フルートやクラリネットは一番低い音を右手の小指まで使って出しますが、6つ穴のたて笛は薬指までで出してしまう。同じ音でも使う指が1本ずれるのです。それでも6つ穴の笛があまりに多く出回っていたため、やむをえず審査の対象に含めたといいます。
なぜハーモニカや横笛でなく、たて笛だった?

息の楽器なのに、吹けば鳴る
横笛は、歌口(うたぐち)の縁に息を当てる角度を自分で探さないと音が出ません。たて笛は吹き口の形が息の通り道を決めているので、くわえて吹けばほとんどの子どもがすぐ鳴らせます。審査委員の一人は、この吹きやすさを「管楽器の第一歩」としての大きな長所と書きました。一クラス数十人が一斉に音を出す教室では、この差は大きかったはずです。
ラの指でラの音が鳴る
息を一定に入れれば、決まった高さの音が鳴るのもたて笛の強みでした。1948年の座談会では、その音の指使いをすればその音が出るので「子供の音感にもいい影響を与える」と語られています。声や弦楽器のように、自分で高さを探さなくてよい。正しい高さが先に耳に届くことが、音程の感覚を育てる土台になると考えられていました。
オーケストラの楽器へ渡る橋
当時の指導記事には、たて笛で木管・金管の基本的なタンギングを身につけ、オーケストラやバンドの楽器へ進むという道筋がはっきり書かれています。たて笛はそれ自体がゴールではなく、難しい楽器へ移るための「移行楽器」と見られていたのです。小学校教師が考案した竹笛「パンネット」には、キーの無い笛なのに、フルートのキーの仕組みを指す「ボエム(ベーム)式」の名が冠されていました。
※ タンギングとは、舌で息を区切って音の出だしをはっきりさせる吹き方のことです。「トゥ」と言うように舌を当てて離します。
弱点はピッチがそろわないこと
もっとも、うまくいった話ばかりではありません。当時のたて笛は1本の筒で継ぎ目が無く、抜き差しで高さを合わせることができませんでした。1955年の雑誌には、ある学校の報告が載っています。子どもが大変喜ぶので使い始めたが、ピッチでずいぶん苦労した。各社の製品を試しても完全なものは望めず、ついに途中で使うのをやめた、という内容です。
プラスチックの「スペリオパイプ」が流れを変えた

1954年に作られ、1955年に発売
状況を変えたのは、日本管楽器製造が作ったユリア樹脂製のリコーダー「スペリオパイプ」です。1954年に製造され、1955年4月に発売されました。手本は1930年代からドイツで作られていたジャーマン式で、左手の親指の穴を含む8つ穴。いまの学校用リコーダーとほぼ同じ形の国産品が、ここで初めて登場します。
割れない・狂わない・同じ物がそろう
樹脂は硬くてへこみにくく、何より大量生産に向いていました。上下2つに分かれるので、抜き差しで音の高さを合わせることもできます。クラス全員が同時に吹いても音がそろうという合奏の前提は、材質が変わってようやく満たされたことになります。
竹笛と銀笛はたちまち姿を消した
スペリオパイプが出ると、竹笛やブリキの銀笛はたちまち影が薄くなりました。1956年にはアウロスで知られるトヤマ楽器が続き、ほかのメーカーもプラスチックのリコーダーを次々に売り出します。ヤマハの解説では、小学校の教材として使われ始めたのは1959年からで、昭和22年生まれの子が6年生のときにあたるそうです。
1・2年生が鍵盤ハーモニカなのはなぜ?

鍵盤ハーモニカは1961年生まれ
鍵盤ハーモニカは、リコーダーよりずっと新しい楽器です。原型は1959年にドイツのホーナー社が出した押しボタン式の吹奏楽器「メロディカ」で、輸入品は5,000円もしました。鈴木楽器製作所はこれを鍵盤式に改め、1961年に「メロディオン スーパー34」を出したとしています。一方で山中の論文は、最初のメロディオンは2,500円のボタン式で、鍵盤式のスーパー34は1962年だったと記しています。
机に置いて吹けるようになった
発売当初は本体に直接つける短い吹き口しかなく、リコーダーのように両手で支えて吹く楽器でした。1963年ごろからホースの付いた吹き口が付属し、1966年には鈴木楽器がジャバラ式の唄口を開発します。本体を机に置き、鍵盤を目で見ながら弾けるようになったことが、学校への広がりを後押ししました。
鍵を押す力は40グラム
鍵盤ハーモニカの鍵を押すのに要る力は約40グラムで、オルガンの120グラムの3分の1だと豊田香菜子の論文は紹介しています。指の力が弱い低学年でも押せる数字です。
同じ論文は、鍵盤ハーモニカで息の入れ方やタンギングを覚えることが、3年生からのリコーダーにつながるとも述べています。リコーダーは指の腹で穴をすき間なくふさぐ必要があり、鍵を押すより細かな指の仕事が求められる楽器です。息の使い方を先に、指の仕事はあとで、という順番になっています。
1977年、ハーモニカの代わりに
1970年の教科書では、鍵盤ハーモニカはまだ4年生の教材でした。転機は1977年告示の学習指導要領です。1・2年生の指定楽器はハーモニカのままでしたが、「他の同種の楽器に代替することができる」とされました。文部省の指導書は、その代わりの楽器として鍵盤ハーモニカを真っ先に挙げています。こうして低学年は鍵盤ハーモニカ、3年生からリコーダーという並びが定着していきました。
ドイツ式とバロック式は何が違う?

違うのはファの指使い
リコーダーにはジャーマン式(ドイツ式)とバロック式(イギリス式)があり、見た目はほとんど同じです。違いはソプラノのファなどの指使いで、ジャーマン式は指を下から順に上げるだけでハ長調の音階が吹けます。その代わり、シャープやフラットの付く音は難しくなります。アルトなど他の大きさはほとんどがバロック式なので、指使いを持ち越せません。ヤマハは小学校から先の一貫性を考えて、バロック式を勧めています。
ハルランの勘違いから生まれた方式
ジャーマン式の運指は、教えやすさを狙った改良として紹介されることも少なくありません。ところが山中の論文が引く先行研究によると、ハルランは管楽器の知識がないまま、歴史的な運指とは違う位置に指穴を開けたとされます。昭和30年代の初めの日本では、むしろドイツ式こそ16〜18世紀に改良されてできた方式だと考えられていました。
日本の小学校はいまもドイツ式が多い
山中の聞き取りでは、2008年にヤマハの元設計者が日本全体の70〜80%をドイツ式と答えました。2011年にはトヤマ楽器も、自社の採用割合を85%と回答しています。中学校のアルトは1960年代末から早々にバロック式へ切り替わったのに、ソプラノは小学校で買ったジャーマン式のまま、という形が長く続いてきました。
学習指導要領は、いまもリコーダーを使えとは言っていません。それでも教室の笛がほとんど変わらないのは、いくつもの事情が重なってきたからです。吹けばすぐ鳴る性質に、戦後のピッチの苦労とプラスチックの登場が加わりました。1968年に引かれた学年の線も、半世紀以上そのまま残っています。18世紀にいちど忘れられた笛は、日本でいちばん多くの人が一度は吹いた楽器になりました。
参考
- 小学校学習指導要領(平成29年告示)音楽|国立教育政策研究所
- 山中和佳子「戦後日本の小学校におけるたて笛およびリコーダーの導入過程」音楽教育実践ジャーナル7巻2号(2010)|J-STAGE
- 山中和佳子「戦後の音楽科教育におけるバロック式リコーダーの導入」福岡教育大学紀要64号(2015)
- 山中和佳子「日本の学校教育における鍵盤ハーモニカの導入」福岡教育大学紀要65号(2016)
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