名刺はいつから使われているのか、最初の一枚は紙ではない?

歴史と変遷の話
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名刺のもとになったものは、紙ではありません。中国で木や竹を細長く削った札に、名前と挨拶の言葉を墨で書いたものでした。「名刺」の「刺」がとがった字のままなのは、その削った札の呼び名がそっくり残ったからです。

では日本ではいつからでしょう。手書きの和紙の名刺は江戸時代の化政期(かせいき)から使われていて、今と同じ洋式の名刺は、記録に残るかぎり1860年(万延元年)の幕府の遣米使節が最初とされます。ただし当時の一枚は幅約9センチ、長さ約18センチ。ポケットに入る大きさではありませんでした。

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謁と刺と洋式名刺、三つの札の違い

名刺の歴史には、形も使い方も違う札が三つ出てきます。日本語にするとどれも「名刺」になってしまうので、この記事では呼び分けます。

名刺交換をしている二人の会社員のイラスト
呼び名時代と場所形と大きさ渡し方
謁(えつ)前漢ごろから広まる・中国幅の広い木の札。出土例は24.8×9.8センチ官職を連ねた正式な面会の願い
刺(し)後漢から三国時代に流行・中国細長い木の札。出土例は24.8×3.4センチ挨拶やご機嫌うかがい。くだけた場面
洋式名刺19世紀のヨーロッパ、幕末以降の日本紙。今の日本は9.1×5.5センチ初対面の席で本人同士が交換

ややこしいのは、謁と刺が同じ人の墓から一緒に出ていることです。三世紀の中国では、相手と用件に応じて二種類の札を使い分けていました。

最初の名刺は何に書かれていたのか

木の札です。しかもそれは想像ではなく、実物が出てきています。1984年に中国で発掘された三世紀の墓から、名前を墨書した木の札が十七枚まとまって見つかりました。

遺跡を発掘している調査員のイラスト

1984年、倉庫の工事で出てきた墓

見つかったのは、安徽省(あんきしょう)の馬鞍山(まあんしゃん)市。紡績会社が倉庫を広げる工事中に、れんが積みの古い墓に行き当たりました。

15日間の緊急発掘で主が分かった

1984年6月初めに発見され、発掘作業は15日間。墓の主はすぐに特定されました。三国時代の呉で左大司馬・右軍師まで務めた朱然(しゅぜん)という武将で、249年に亡くなった人物です。

身元を教えたのは名前入りの札だった

墓の主がこれほど早く分かったのは、副葬品のなかに本人の名前を書いた木の札があったからでした。木刺が14枚、木謁が3枚。埋葬された人の名刺が、そのまま身分証の役をしたことになります。

木刺に書かれていた文面

札の表には、縦一行の墨書がありました。文字は隷書(れいしょ)を基調に楷書の気配が混じった書体で、内容はほとんど型どおりです。

「弟子朱然再拝 問起居」という挨拶

文面は「弟子朱然再拝 問起居 字義封」。二度おじぎをして、ご機嫌をうかがいます、という定型の挨拶です。末尾の「義封」は朱然のあざなで、今の名刺で言えば名前の読みを添えたようなものでしょう。

細長さは7倍、手のひらには収まらない

木刺の寸法は長さ約24.8センチ、幅約3.4センチ。縦横の比が7対1を超える、定規のような細長さです。今の名刺はおよそ1.65対1ですから、形の印象はまったく違います。

格式が高いほうの「謁」

同じ墓から出た3枚の木謁は、刺よりずっと幅が広い札でした。書いてあることも、挨拶より肩書き寄りです。

幅9.8センチに官職を並べる

長さは刺と同じ約24.8センチですが、幅は約9.8センチ。上端の中央に大きく「謁」と書き、右から「持節右軍師左大司馬当陽侯丹楊朱然再拝」と続きます。役職と爵位と本籍地を全部並べた、名刺というより名乗りの札です。

謁は前漢から、刺は後漢から

中国青年報の報道によれば、謁は前漢の時代にすでに広く使われ、刺が流行したのは後漢から三国にかけてでした。謁を出すのは改まった場面で、刺はもう少し気軽な場面。同じ人が二種類を持ち分けていた理由が、ここにあります。

なぜ「刺」という字なのか

紙になって千年以上たつのに、名刺の「刺」は今も刺すという字です。辞典の説明は簡単で、この字が指しているのは材料のほうでした。

竹や木を削ったものが「刺」

デジタル大辞泉は「『刺』は、昔、中国で竹木を削って名前を書いたもの」と説明しています。削ればとがる、とがったものは刺。材料の形がそのまま道具の名前になり、材料が紙に変わっても名前だけが居残ったわけです。

※ 木簡(もっかん)・竹簡(ちくかん)とは、紙が普及する前の中国や日本で文字を書くために使われた、細長い木や竹の札のことです。手紙も記録も、この札に墨で書いていました。

唐の詩と室町の写本に見える「名刺」

「名刺」という語そのものも古く、改訂新版 世界大百科事典は唐の詩人・元稹(げんしん)の詩に見えると記します。日本側では、精選版 日本国語大辞典が『百丈清規抄(ひゃくじょうしんぎしょう)』(1462年)の用例を挙げています。紙の名刺が普通になるより、言葉のほうがずっと先に来ていました。

中国では名刺を誰に渡していたのか

会いたい相手ではありません。取次の人に渡す札でした。相手の前に出る前の段階で使うものだったので、今の名刺交換とは順番からして違います。

白い手袋をした年配の執事のイラスト

取次に預ける札

改訂新版 世界大百科事典によれば、中国の官僚社会では、地位のある人に会うとき取次に名刺を渡すのが慣例でした。札を見た相手が、会うかどうかを決める仕組みです。

札の出来が面会の可否を左右する

本人が口で説明できないぶん、書いてある肩書きと文字づかいだけが判断材料になります。だから謁には官職も爵位も本籍も書き込まれました。朱然の木謁が肩書きだらけなのは、見栄というより実用だったのでしょう。

一銭も持たずに「賀銭萬」と書いた男

『史記』高祖本紀には、のちに漢の皇帝となる劉邦(りゅうほう)の逸話があります。有力者の呂公(りょこう)に会うため、劉邦は「一万銭を献上する」と書いた謁を差し出しました。ところが実際には一銭も持っていなかったといいます。名刺は最初から、書いた本人の自己申告だったわけです。

行けないときの代わりに立てる

名刺は、本人が行く場面だけの道具でもありませんでした。行けないときこそ使われています。

正月の欠礼は下僕に札を持たせて済ませる

改訂新版 世界大百科事典は、正月や祝賀の席に出られないとき、下僕に名刺を持たせて挨拶に代えることも行われたと記しています。本人は行かず、名前だけが出向くかたちです。

名前が代理人になるという考え方

この使い方は、現代の「欠席のご挨拶」とよく似ています。差し出す紙に本人の代わりを務めさせる発想は、二千年ほど変わっていないわけです。年賀状も、系統をたどればこの辺りに合流します。

墓に納めた名刺

朱然墓の木刺が不思議なのは、生前に使ったはずの札が墓の中にあったことです。これは朱然だけの趣味ではありませんでした。

呉の時代に流行した副葬の習わし

木の名刺を墓に入れるのは、呉の時代に流行した副葬の習わしだったと考えられています。あの世でも名乗る相手がいる、という前提で持たせたのだとしたら、ずいぶん実務的な死後の想像です。

木謁が出たのは朱然の墓が初めて

ただし木謁のほうは例が少なく、朱然墓での出土が初めてでした。刺は各地の墓から見つかっても、格式の高い謁はなかなか出てきません。発掘の価値が高いのは、この珍しさのためです。

日本ではいつから名刺を使っているのか

手書きの和紙の名刺が使われたのは、江戸時代の化政期(1804〜1830年ごろ)から。今と同じ洋式の名刺は、記録に残るかぎり1860年の遣米使節が最初とされています。江戸の名刺と現代の名刺は、用途がはっきり違いました。

着物を着た江戸時代の町人のイラスト

江戸の名刺は留守に置いていく札

日本大百科全書によれば、化政期には氏名を書いた和紙の名刺が用いられ、訪問先が不在のときに訪問の事実を伝えるために使われました。会えたときに渡すものではなかったのです。

刷るのではなく筆で書いた

この時期の名刺は手書きです。印刷したものが出てくるのは幕末の開国期からで、それまでは訪問のたびに墨で名前を記していました。一枚ずつ書くのですから、配って歩く道具にはなりません。

今の不在連絡票に近い役目

戸口に名前を残して帰るという使い方は、宅配便の不在連絡票とほとんど同じ役目です。江戸の紙は「来ましたが会えませんでした」を伝えるためにあり、中国の刺は取次に渡すためにありました。どちらも本人の手に直接渡っていません。

1854年、応接の席で交換した名刺

相手の顔を見ながら名刺を渡す場面が記録に出てくるのは、幕末の外交の席です。改訂新版 世界大百科事典は『亜米利加応接録(あめりかおうせつろく)』を引いています。

名刺を交換してから談判に及んだ

1854年(安政1)、米国使節との応接の際に、役名と氏名を記した名刺を交換してから談判に及んだとあります。交渉の前にまず名刺という段取りは、この時点で成立していたわけです。

相手のいるところで渡す形への転換

留守宅に置く紙から、面と向かって差し出す紙へ。日本の名刺の役目が切り替わったのは、この応接の席あたりです。相手が外国人で、肩書きを先に示す必要があったことが効いたのでしょう。

記録に残る洋式名刺の初めは1860年

国立国会図書館のレファレンス事例では、現在と同じような洋式名刺の使用は、記録に残るかぎり万延元年(1860年)の幕府の遣米使節が初めではないかとされています。

使ったのは遣米使節の三人

『舶来事物起原事典』によれば、使ったのは新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)・村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)・小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ)の三人でした。日米修好通商条約の批准のためアメリカへ渡った、あの使節団です。

桑の皮で作った、幅9センチ長さ18センチ

その名刺は桑の皮で作られ、幅3寸(約9センチ)、長さ6寸(約18センチ)。はがきの長辺よりまだ長い札です。三世紀の木刺が24.8センチでしたから、名刺はこの千六百年でようやく6センチ縮んだ計算になります。

1854年と1860年、どちらが初めなのか

ここで年代が二つ出てきますが、資料が矛盾しているわけではありません。1854年の記録は応接の席で名刺を交換した場面であり、1860年は洋式の名刺を日本人が用いた記録上の最初とされるものです。何を「今と同じ名刺」と数えるかで、初めの年は変わります。

ヨーロッパの名刺は何から始まったのか

トランプです。改訂新版 世界大百科事典によれば、17世紀から18世紀にかけて、トランプのカードの裏に氏名を書く習慣がありました。専用の名刺が作られるようになるのは、そのあとです。

トランプのカードの裏面のイラスト

トランプの裏から正規の名刺へ

手元にある厚紙で間に合わせていた、ということでしょう。名前を書ける硬さと大きさの紙が、当時はそうそう転がっていませんでした。

カードの裏に名前を書く習慣

17〜18世紀のヨーロッパでは、この即席の名刺が使われていたと記録されています。訪問先で名前を伝える紙が必要になったとき、いちばん手近な厚紙がトランプだったわけです。

18世紀中ごろから専用の名刺を作る

18世紀の中ごろになると、正規の名刺が製造されるようになります。間に合わせから既製品へ切り替わったこの時期が、ヨーロッパの名刺の出発点です。日本の化政期より、半世紀ほど早い動きでした。

1854年、パリで生まれた写真の名刺

19世紀に入ると、名刺に写真が載ります。カルト・ド・ヴィジット(carte de visite)と呼ばれた、肖像写真を貼った名刺です。

ディスデリが取った特許

ヴィクトリア&アルバート博物館の解説によれば、1854年にフランスのアンドレ・アドルフ・ウジェーヌ・ディスデリが、この新しい形式の写真の特許を取りました。名前は文字どおり「訪問のカード」で、当時の訪問カードに由来しています。

一枚の板から何枚も焼けるようにした

ディスデリの工夫は、一度の撮影で同じ像を複数写し取れるようにしたことでした。一枚あたりの手間が下がったので値段も下がり、1860年には数十万枚が作られて友人や家族のあいだで配られる流行になります。名刺が肖像写真として消費された、短い時代です。

写真名刺はどのくらいの大きさだったか

ここが日本の名刺の寸法とつながる部分です。写真名刺の大きさには、当時の訪問カードの寸法がそのまま引き継がれていました。

写真が54×89ミリ、台紙が64×100ミリ

同館の解説では、写真そのものはおよそ54ミリ×89ミリ、厚い台紙に貼られて64ミリ×100ミリになったとあります。写真の寸法だけを見ると、今の日本の名刺とほとんど変わりません。

訪問カードとほぼ同じ大きさだった

解説はその寸法を「訪問カードとほぼ同じ大きさ」と説明しています。つまり19世紀半ばのヨーロッパでは、名前を書いた紙はだいたいこのサイズに落ち着いていたのでしょう。

日本の名刺はなぜ91×55ミリなのか

尺貫法(しゃっかんほう)で読むと、この数字はきれいに割れます。3寸と1寸8分です。国が決めた規格ではなく、印刷業界が「4号」と呼んできた慣習の寸法が、そのまま標準になりました。

目盛りのついた定規のイラスト

尺貫法で読むとぴたりと合う

1寸は約30.3ミリです。この換算を当てると、91×55ミリという中途半端な数字の意味が見えてきます。

3寸は90.9ミリ、1寸8分は54.5ミリ

3寸を計算すると90.9ミリ、1寸8分は54.5ミリ。ミリに丸めれば91×55ミリです。メートル法で決めた寸法ではなく、尺で決めた寸法をミリに書き換えたものだと分かります。

※ 尺貫法(しゃっかんほう)とは、長さを尺・寸・分で、重さを貫・匁(もんめ)で表す日本の伝統的な単位系のことです。1尺は約30.3センチ、その10分の1が1寸にあたります。

JISに名刺の寸法はない

紙の仕上がり寸法を定めた規格はJIS P 0138(紙加工仕上寸法)で、A列・B列と、A列を3等分や4等分した長い寸法が並んでいます。名刺という項目はありません。91×55ミリは法令や国家規格の数字ではなく、業界のあいだで固まった事実上の標準です。

訪問カードと同じくらいの大きさに落ち着いた

興味深いのは、この3寸×1寸8分が、19世紀ヨーロッパの訪問カードとほぼ重なることです。尺で決めたはずの寸法が、インチで決めた寸法と数ミリしか違いません。

54×89ミリと90.9×54.5ミリ

写真名刺の像が54×89ミリ、日本の4号が90.9×54.5ミリ。長辺で2ミリ、短辺で0.5ミリの差しかありません。開国期に入ってきた紙を手本に、いちばん近い尺の目盛りを当てた結果とも読めます。

一致の理由は資料で確かめられない

ただし「欧米の名刺に合わせて3寸にした」と決めた記録があるわけではありません。印刷業界ではそう語られることがありますが、裏づけとなる一次資料には行き当たりません。ここで言えるのは、寸法が近いという事実までです。

札はどんどん小さくなってきた

ここまでに出てきた寸法を並べると、名刺の歴史は縮小の歴史でもあることが見えてきます。

いつ・どこ長い辺短い辺形の印象
3世紀の木刺(中国)24.8センチ3.4センチ定規のような細長い札
1860年の遣米使節(日本)18センチ9センチはがきより大きい紙
19世紀の写真名刺の台紙(欧州)10センチ6.4センチ手のひらに収まる厚紙
今の4号名刺(日本)9.1センチ5.5センチ名刺入れに収まる寸法

持ち歩く道具になってから縮んだ

木刺や遣米使節の名刺は、一枚ずつ用意して差し出すものでした。何十枚も持ち歩いて配るようになれば、束にして入る大きさでなければ困ります。名刺入れという道具が先にあったのではなく、まとめて持つ必要が寸法を決めたのでしょう。

細長い札から横長の紙へ

縦横比で見ると、3世紀の木刺は7対1を超える細長さで、今の名刺は1.65対1です。書ける文字数が名前と挨拶だけだった時代は縦一行で足り、住所や部署まで載せる段になって、面積のある長方形が必要になりました。

名刺にまつわる細かい話

最後に、本題からは少し外れる話をふたつ。どちらも、名刺という言葉と紙の来歴に関わります。

名刺が入った革の名刺入れのイラスト

中国では「名刺」は古い言い方になった

語を生んだ側では、呼び名が入れ替わりました。木の札の話をする記事でも、現代の中国語では別の字が使われます。

今の中国語は「名片」

朱然墓の木刺を報じた中国青年報の記事も、見出しでは「名片」の語を使っています。「片」は薄い平らなものを指す字で、材料が紙になった実態に合わせた呼び名です。

日本に残ったのは唐の時代の語

一方の日本は、元稹の詩に出てくるほうの言い方を今も使い続けています。材料は木から紙に変わり、中国では呼び名まで変わったのに、日本語の中では「刺」の字だけが動きませんでした。輸入した言葉が本国より長生きする例のひとつです。

肖像から文字へ戻った紙

写真名刺の流行は長く続きませんでした。今の名刺に顔写真が載ることはあっても、主役は文字に戻っています。

19世紀は顔を配っていた

1860年ごろのヨーロッパでは、数十万枚という規模の写真名刺が作られ、家族や友人のあいだで配り合われました。名刺が肖像写真の入れ物になり、やがて写真のほうが名刺から離れて独立していきます。

いちばん名刺を使う国とされる日本

世界大百科事典(改訂新版)によれば、名刺が普及したのは明治以降で、現在では日本が最も頻繁に名刺を使う国とされます。留守宅に置くための紙だったものが、いちばん盛んに手渡される国になったわけです。

三世紀の木刺は、取次に預けるための札でした。江戸の和紙は、留守だったことを伝えるための札でした。どちらも相手の顔を見ずに用が済む道具で、相手の手に直接渡して初めて役目を果たす紙になったのは、せいぜいこの170年ほどの話です。二千年使い回してきた「刺」の一字だけが、削った木の手ざわりを引きずったまま、名刺入れの中に残っています。

参考