蛍雪の功の由来は?蛍の光の「窓の雪」は誰の話?

光るホタルと「蛍雪の功」の文字のカード 言葉と論理の話
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蛍雪の功(けいせつのこう)は、苦労して学問に励み、その成果を上げることを指す言葉です。もとになったのは中国の二人の苦学生の話。油を買えなかった車胤(しゃいん)は夏に蛍を集めて書物を照らし、孫康(そんこう)は冬に雪の照り返しで本を読みました。卒業式で歌う「蛍の光」の冒頭「蛍の光、窓の雪」は、この二人を一行に詰めたものです。

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蛍は車胤、雪は孫康の話

おしりを光らせて飛ぶホタルのイラスト

晋書が伝える絹袋の蛍

車胤の話は、中国の正式な歴史書『晋書(しんじょ)』の車胤伝に載っています。舞台は4世紀の東晋(とうしん)。家が貧しく、灯火の油をいつも手に入れられるわけではありませんでした。そこで夏になると練嚢(れんのう)と呼ばれる白い絹の袋に数十匹の蛍を入れ、その光で書物を照らしたといいます。

家貧しくして常には油を得ず。夏月には則ち練嚢に数十の蛍火を盛り、以て書を照らし、夜を以て日に継ぐ。(『晋書』車胤伝、筆者による書き下し)

最後の「夜を以て日に継ぐ」は、昼だけでなく夜も続けて学んだという意味です。いまも使う「夜を日に継ぐ」という言い回しが、ここにそのまま出てきます。

孫康は窓の外の雪明かりで読んだ

孫康も家が貧しく、油が買えませんでした。冬の夜は窓の外に積もった雪の照り返しを頼りに、書物を読んだと伝わります。夏の車胤に対して、こちらは冬の話。二つ合わせると、一年中どんな夜でも学び続けたという形になります。孫康の話のもとになった『孫氏世録(そんしせいろく)』という記録は、いまは失われています。後の時代の書物に引かれた文で、話の中身だけが残りました。

蒙求の「孫康映雪、車胤聚蛍」で一対になった

別々に伝わっていた二つの話を並べたのが、唐の李瀚(りかん)がまとめた『蒙求(もうぎゅう)』です。746年の日付がある上表文が付いた子ども向けの教科書で、昔の人物の逸話を四字の句にして、似た者どうしを二つずつ組にしています。そこに「孫康映雪、車胤聚蛍」(孫康は雪に映し、車胤は蛍を聚む)の句が並びました。蒙求の句では雪の孫康が先、蛍の車胤があとです。日本語の「蛍雪」は順番が逆で、蛍から始まります。

車胤はどんな少年だった?

夜にはちまきをして机で勉強する男の子のイラスト

郡の長官が見込んだ子ども

車胤の父は、南平郡(なんぺいぐん)の主簿という書類仕事の役人でした。幼い車胤が父に連れられて郡の長官・王胡之(おうこし)に会ったとき、王胡之はこう言ったと晋書は書いています。

この子は必ずあなたの家を大いに興すでしょう。学問に専念させるとよい。(『晋書』車胤伝、筆者訳)

蛍の袋の話は、この一言のすぐあとに出てきます。見込まれた少年が、油の無い家で夜も本を開き続けた。晋書はそういう順番で話を組み立てています。

宴会に欠かせない人気者でもあった

苦学の人というと堅物を想像しがちです。けれども車胤は、成長すると見た目が立派で頭の回転が速い才人として知られました。宴の席を取り仕切るのもうまく、彼がいないと周りの人が「車公がいないと楽しくない」と言ったほどだと伝わります。

東晋の名宰相として知られる謝安(しゃあん)にも目をかけられました。袋の蛍だけを見ていると、人付き合いの上手な一面は見えてきません。

苦学のあと二人はどこまで出世した?

「出世」と書かれた道しるべの前に立つ男性のイラスト

車胤は人事を預かる吏部尚書に

車胤は荊州(けいしゅう)にいた将軍の桓温(かんおん)に取り立てられ、やがて都の朝廷に入りました。中書侍郎(ちゅうしょじろう)を経て、国の学校の教官にあたる国子博士も務めています。若い皇帝が儒教の経典『孝経』を学んだときには、謝安らと並んで講義と議論に加わりました。

最後に就いたのは吏部尚書(りぶしょうしょ)です。役人の任命や昇進を扱う役所の長で、朝廷の中でも重い地位でした。蛍の明かりで学んだ少年が、役人を選ぶ側に回ったことになります。

孫康は役人を取り締まる御史大夫に

孫康のほうは、南朝の宋(劉宋)の元嘉(げんか)年間に役人として働いたとされます。建物の工事を扱う起部郎(きぶろう)、将軍の補佐役の長史を経て、御史大夫(ぎょしたいふ)まで進みました。御史大夫は役人の不正を取り締まる役所の長です。

一人は役人を選ぶ側、もう一人は役人を見張る側。どちらも朝廷の上のほうまで届いたからこそ、苦学の手本として後の時代まで名が残りました。

二人は同じ時代の人ではない

三世代の家族をつないだ家系図のイラスト

孫康は東晋の歴史家・孫盛のひ孫

「蛍の光、窓の雪」と一息に歌うと、二人が同じ窓辺で学んだ仲間のように聞こえます。けれども孫康は、東晋の歴史家・孫盛(そんせい、302〜373年)のひ孫にあたる人物です。孫盛の子が孫放、その子が孫秉、そのまた子が孫康という系図です。

車胤が亡くなったのは400年。孫康が役人として働いたのは元嘉年間(424〜453年)なので、二人の活躍した時期は二世代ほどずれていると考えられています。

経歴を並べると時代だけが合わない

二人の経歴を、項目ごとに左右へ置いた表がこちら。

項目車胤(蛍)孫康(雪)
時代東晋(400年没)南朝の宋(元嘉年間に仕官)
季節と灯り夏・絹袋に入れた数十匹の蛍冬・窓の外の雪の照り返し
話のもと『晋書』車胤伝『孫氏世録』(いまは失われた記録)
たどり着いた役職吏部尚書(役人の人事)御史大夫(役人の取り締まり)

貧しさ・灯りの工夫・出世の三つは見事に対になっています。ずれているのは一番上の「時代」の行だけ。蒙求の作者は、生きた時代の違う二人を「似た者どうし」として隣に置いたわけです。

車胤の最期はどうだった?

広げた巻物のイラスト

権力者の息子の非行を訴えようとした

車胤の晩年は、苦学の美談とは違う結末を迎えます。当時の朝廷では、皇族の会稽王(かいけいおう)司馬道子と、その子の司馬元顕が大きな力を握っていました。車胤は同僚の江績(こうせき)とともに、元顕の過ちを父の道子へひそかに伝え、上奏しようとします。

ところが計画は漏れてしまいました。晋書によると、元顕は車胤に自ら命を絶つよう迫り、車胤はまもなく亡くなります。400年のことでした。

朝廷はその死を悼んだ

晋書は車胤伝の結びに、朝廷がその死を悼んだと記しています。車胤は以前にも、王国宝という人物が司馬道子に特別な待遇を与えるよう提案した際、筋が通らないとして署名を断ったことがありました。権力者に向かって正しいと思うことを言う人だったことが、伝の端々からうかがえます。蛍雪の功という言葉が伝えるのは、学びの場面だけです。学問で身を立てた人が、最後まで筋を曲げなかった話でもあります。

日本には奈良時代にはもう届いていた

筆と短冊を手に歌を詠む平安貴族の男性のイラスト

懐風藻の漢詩に出てくる「蛍雪」

日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』は751年の成立です。その「述懐」と題された詩に「少くして蛍雪の志無く」という句があり、精選版日本国語大辞典はこれを「蛍雪」の用例に挙げています。若いころ苦学の志が無かった、という謙遜の言い方です。

日本で蒙求が読まれた最古の記録(次の項の878年)より、120年以上も早い用例です。奈良の貴族は、自分の若いころを語る詩にもう蛍と雪の故事を使っていました。

平安の子どもは蒙求で読み書きを習った

日本で蒙求が読まれた最古の記録は、『日本三代実録』の878年の記事です。清和天皇の皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が数え9歳で初めて蒙求を読んだとあります。その後、蒙求は貴族の子どもの代表的な教科書になりました。

藤原氏の子弟が学んだ勧学院(かんがくいん)については、「勧学院の雀は蒙求をさえずる」ということわざまで生まれています。毎日聞かされた雀まで覚えてしまうほど、学生が声に出して読んでいたという意味です。中国では明代以降に蒙求が別の教科書に取って代わられたため、古いテキストはむしろ日本に多く残っています。

「蛍の光」の歌詞はいつできた?

正装で並んで合唱する人たちのイラスト

1881年の小学唱歌集に「蛍」として載った

「蛍の光」は、文部省の音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)がまとめた『小学唱歌集』初編に「蛍」という題で載りました。奥付の日付は1881年(明治14年)11月です。曲はスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」で、日本語の歌詞は国文学者の稲垣千頴(いながきちかい)が書いています。

原曲は、旧友と再会して昔をしのびながら杯を交わす歌です。日本語版は学び舎を去る別れの歌に作り替えられ、その書き出しに蛍雪の故事が置かれました。

3番の歌詞で刊行が翌年にずれた

歌集の刊行はすんなりとは進みませんでした。3番の最初の案には「かはらぬこころ ゆきかよひ」という一節があり、文部省の普通学務局長・辻新次から、男女の間で交わす言葉のようだと指摘が入ったといわれます。

歌詞を直すうちに時間がかかり、実際に刊行されたのは翌1882年4月になったとされています。奥付の日付と、本が世に出た日付が違うのはこのためです。

4番は国境が動くたびに書き換えられた

4番は国の守りを歌う内容で、日本の領土が変わるたびに文部省の手で言葉が改められました。初めは「千島の奥も沖縄も」でしたが、日清戦争の後には沖縄の位置に台湾が入ります。日露戦争の後は「台湾の果ても樺太も」へと変わりました。

3番と4番は戦後ほとんど歌われなくなり、いまは1番だけ、あるいは2番までが普通です。そのため蛍と雪の1番が、歌そのものの顔になりました。

ホタルの光は点滅する

夜の水辺の草むらに光るたくさんのホタルのイラスト

ゲンジボタルは東で4秒、西で2秒おき

ホタルの光は、ずっと灯り続けるわけではありません。日本のゲンジボタルのオスは、東日本では約4秒、西日本では約2秒の間隔で明滅します。その境目はおおむねフォッサマグナに重なり、大場信義氏の研究で知られるようになりました。

気温が高いほど間隔は短くなり、長崎県の五島列島の一部では1秒おきに光るゲンジボタルも見つかっています。同じ種類でも、光のリズムは土地と天気で変わるわけです。

袋の明かりは物語として受け取られてきた

車胤の袋に入っていたのは、中国のホタルです。日本のゲンジボタルと同じ種類とは限りません。それでも数十匹がそれぞれのリズムで明滅する袋は、油の灯のような落ち着いた明かりとは違ったはずです。

読書に十分な明るさだったかを確かめた記録は、晋書には書かれていません。後の人がこの話に心を動かされたのは、明るさよりも「そこまでして読みたかった」という気持ちのほうでした。

「蛍雪の功」はいまどう使う?

合格発表の掲示板のイラスト

苦労して学んだ成果をほめる言葉

「蛍雪の功を積む」「蛍雪の功なって合格する」のように、苦労して学び続けたことや、その成果をたたえるときに使う言葉です。卒業や合格の祝いの言葉にもよく使われ、本人の努力を少し改まった形でほめる響きがあります。

同じ故事からは、苦学そのものを指す「蛍雪」のほか、「蛍窓(けいそう)」「蛍窓雪案(けいそうせつあん)」という言葉も生まれました。案は机のことで、蛍の窓と雪の机で苦学の姿を表しています。

受験雑誌の名前『螢雪時代』

旺文社の大学受験誌『螢雪時代』も、この故事から名前を取りました。前身は1932年創刊の通信添削会員向けの機関誌『受験旬報』です。1941年10月号から『螢雪時代』と改題し、いまも続く日本で最も古い定期刊行の大学受験誌になっています。戦後しばらくは短歌や俳句の投稿欄もあり、のちに歌人・劇作家となる寺山修司も少年時代に投稿していました。蛍と雪の苦学は、昭和の受験生の机の上にもあったわけです。

卒業式の体育館で「蛍の光、窓の雪」と歌ったとき、私たちは知らないうちに二人の人物を歌っていました。夏の袋の蛍は車胤、冬の窓の雪は孫康。生きた時代のずれた二人の苦学生は、日本の学校では一行の歌詞として毎年同じ壇上に並びます。

参考

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