2011年のインドネシア・スラウェシ島で、1匹のクロザルが写真家のカメラのシャッターを押し、歯を見せて笑う自分の顔を写しました。アメリカの著作権局の考え方では、この写真の著作権はサルにも写真家にもありません。2018年の連邦控訴裁判所の判決は「動物は著作権法で訴えることができない」というもの。写真家の権利があるかどうかは、裁判では決まらないまま終わっています。
2011年、スラウェシ島の森で起きたこと

写真家がカメラを森に置いていた
カメラの持ち主は、イギリスの野生動物写真家デイビッド・スレーターさんです。インドネシアのスラウェシ島北部にある保護区で、野生のサルを撮影していました。控訴裁判所の判決文は、このとき彼が「カメラを置いたまま離れた」と書いています。そこへ近づいたサルがカメラを触り、自分の姿を何枚も写したとされる写真が、のちに「モンキー・セルフィー」と呼ばれるようになりました。
写っていたのは絶滅寸前のクロザル
写ったのは、黒い毛と頭の上の逆立った毛が特徴のクロザルです。英語ではクレステッド・マカク(とさかのあるマカク)と呼ばれ、スラウェシ島の北東部とその周りの島にしかすみません。国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは、いちばん危険度の高い「深刻な危機」に分類されています。森の開発と、食用の狩りが数を減らしてきました。
写真家本人の説明は少し違う
スレーターさん自身は、偶然ではなかったと説明してきました。BBCなどの取材に対し、構図を決めてカメラを三脚に据えたのは自分で、サルはボタンを押しただけだと話しています。判決文の「置いたまま離れた」という書き方は、訴えた側の主張をひとまず事実として扱う、裁判の手続きの段階で書かれたものです。
ウィキペディア側は写真を消さなかった

無料の画像サイトに載った自撮り写真
写真は2011年のうちにイギリスの新聞などで紹介され、世界中に広まりました。やがてウィキペディアの姉妹サイトで、誰でも自由に使える画像を集めた「ウィキメディア・コモンズ」にも登録されます。作者の欄に書かれていたのは「写真に写っているサル」。人間の作者がいないので、誰の著作権もかからない画像として扱われていました。
削除の求めは2014年に退けられた
スレーターさんは、著作権は自分にあるとして削除を求めました。運営するウィキメディア財団はこれを断り、2014年8月に初めて公表した透明性報告書でこの件を取り上げています。財団の言い分は、アメリカの法律では人間でない作者に著作権は生まれないというもの。写真家は、裁判で決めてもらうしかないと反論しました。
アメリカの著作権局は「サルが撮った写真」を例に挙げた

2014年の実務の手引き
同じ2014年の8月19日、アメリカの著作権局が実務の手引きの改訂版を案として公表しました。そこには「人間による創作がない作品」は登録しないという項目があり、例として「サルが撮った写真」が挙がっています。名前こそ出していませんが、時期から見て、騒ぎになっていた自撮り写真を意識した一文と受け止められました。
※ アメリカの著作権局(U.S. Copyright Office)とは、作品の著作権を登録する連邦議会図書館の部局のことです。手引き(Compendium)は登録の審査の基準を示したもので、法律そのものではありません。
ゾウの壁画や流木も同じ扱い
現在の手引きでも、同じ項目に次のような例が並んでいます。自然や動物、植物が生み出したものは登録しないという考え方です。
- サルが撮った写真
- ゾウが描いた壁画
- 本物の動物の皮の模様
- 海の波で形が整った流木
- 自然の石に入った割れ目や傷
- 聖霊を作者と名乗る歌
神や霊のような人間を超えた存在も、作者としては認めていません。手引きの根拠は、19世紀の最高裁判決にまでさかのぼる「作者は人間である」という考え方です。
動物保護団体がサルの代わりに訴えた

2015年、PETAが裁判を起こす
2015年9月、世界最大の動物の権利団体を名乗るPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)が、サルの名前で裁判を起こしました。訴えた相手はスレーターさんと彼の会社、そして写真集を作ったアメリカの自費出版サービスの会社です。サルが撮った写真を無断で本にしたのは著作権の侵害だ、という主張でした。
サルにはナルトという名前があった
訴状でサルは「ナルト」と呼ばれ、7歳のオスとされています。PETAと並んで原告の代理を務めたのは、10年以上この地域のクロザルを研究してきた霊長類学者です。生まれたときからナルトを見てきた、と訴状は書いています。
写真家側は、写真集では撮ったサルをメスと書いており、別のサルだと反論しています。どのサルが撮ったのかという争いは、最後まで決着しませんでした。
写真集の説明文が手がかりに
2014年12月に出た写真集は、スレーターさんと彼の会社を写真の著作権者と記していました。その一方で、本の中ではサルがシャッターを押したことを何度も認めています。判決文は、写真の説明文から「カメラのシャッターボタンを押しながら、自分に向かって笑う」という一節を引いています。著作権を主張しながら、撮ったのはサルだと書いていたわけです。
一審の裁判所は何と言った?

2016年1月、サンフランシスコの連邦地裁
一審はカリフォルニア州北部地区の連邦地方裁判所です。オリック判事は2016年1月6日の審理で考えを示し、1月28日に書面で訴えを退けました。理由は、アメリカの著作権法が動物に権利を与えていないことです。著作権局の手引きとも食い違いがない、と判事は述べています。
「議会と大統領が決めること」
AP通信によると、判事は法廷で「これは議会と大統領が決める問題だ」と語りました。動物にも著作権を認めるべきだと考えるなら、憲法の下で法律を作ればよいという意味です。裁判所は法律を当てはめる場所で、新しい権利を作る場所ではない。この線引きは、控訴審でも繰り返されることになります。
控訴審の途中で和解が成立

写真の収入の25%を寄付する約束
PETAは控訴し、2017年7月12日にサンフランシスコの第9巡回区控訴裁判所で弁論が開かれました。その2か月後の9月11日、両者は和解を発表します。スレーターさんは、この写真からこれから得る総収入の25%を、クロザルとその森を守る団体に寄付することになりました。過去にいくら稼いだかは明かされていません。
写真家の暮らしは苦しくなっていた
和解の少し前、スレーターさんはイギリスのガーディアン紙の取材で苦しい暮らしを語っています。報道によると、サンフランシスコの弁論に行く飛行機代も、壊れた機材の修理代も払えなかったとのこと。テニスのコーチになろうとしていて、犬の散歩の仕事も考えていると話しました。世界一有名なサルの写真は、撮った人を豊かにしなかったことになります。
裁判所は取り下げを受け入れなかった
和解した両者は、控訴を取り下げ、一審の判決も取り消すよう裁判所に求めました。ところが控訴裁判所はこれを受け入れず、2018年4月23日に判決を出します。判決は、ナルト自身は和解の当事者に入っていないと指摘しています。訴えはサルの権利のためだったはずなのに、和解したのは人間どうしだった、というわけです。
控訴裁判所が引いた線はどこ?

クジラとイルカの裁判が先にあった
判決が出発点にしたのは、2004年に同じ控訴裁判所が出した判決です。「世界中のクジラ・イルカ・ネズミイルカ」を原告にして、海軍のソナー(音波の探知機)の使用を止めようとした裁判でした。このとき裁判所は、動物の名前の訴えでも、憲法の上では裁判の対象になりうると述べています。そして訴えそのものは、環境の法律が動物に訴える資格を与えていないとして退けました。
憲法の資格はあっても法律の資格がない
2018年の判決は、この先例をそのまま当てはめました。ナルトは損害を受けたと主張しているので、憲法の上では訴える資格がある。けれども著作権法は、動物が訴えてよいとはどこにも書いていません。議会が動物にも訴えを認めるつもりなら、はっきりそう書いたはずだ、というのが先例の物差しです。
※ 訴える資格(原告適格)とは、裁判を起こして判断を求めることのできる立場のことです。この判決は、憲法から来る資格と、それぞれの法律が認める資格を分けて考えています。
著作権法の「子」「未亡人」という言葉
判決は、著作権法の中の言葉にも目を向けました。作者が亡くなったあと、権利の一部は「子」や「孫」、「未亡人(夫や妻に先立たれた人)」に引き継がれると法律は定めています。
「子」「孫」「嫡出」「未亡人」といった言葉はどれも人間であることを前提にしており、結婚もせず、法律上の相続人も持たない動物を必然的に除いている。(判決文、筆者訳)
写真家側の弁護士費用も認めた
判決は一審の結論を支持し、サルの側の負けとしました。さらに、勝った写真家側が求めた控訴審の弁護士費用を、負けた側に負担させることも認めています。金額は一審の裁判所が決めることになりました。ただし和解がこの支払いにどう響くかには立ち入らない、と判決は断っています。
判決はPETAを「友人」とは呼べないと書いた

脚注に書かれた厳しい言葉
PETAは、自分では訴えられない人の代わりに裁判を起こす「近友(ネクスト・フレンド)」としてナルトを代理していました。判決はまず、PETAとナルトの間に特別なつながりが示されていないと指摘します。そもそも法律は、動物のために近友が訴えることを認めていない、とも述べました。
脚注はさらに踏み込みます。不利な判決が出るのを避けるために、サル本人の訴えを置き去りにして和解したのではないか。判決は、PETAは「友人」という呼び名にふさわしくなかったように見えると書き、ナルトを「知らないうちに使われた駒」とまで表現しました。
3人の裁判官のうち1人は別の理由
判決を書いたベア判事ら2人は、2004年のクジラの先例は間違っていたと思うが、自分たちは従うしかないと書いています。一方のスミス判事は、PETAが代理人として失格なら裁判所はそもそも判断できないとして、訴えをもっと手前で退けるべきだったという意見でした。結論は同じでも、たどった道筋は2つに分かれていたことになります。
結局、自撮り写真の著作権は誰のもの?

サルのものではないと決まった
裁判ではっきりしたのは、サルは著作権法で訴えられないということだけです。判決は、ナルトに限らず「人間以外の動物」すべてについて同じだと述べています。サルの著作権を誰かが代わりに主張する道も、この判決で閉じられました。
写真家のものかどうかは誰も決めていない
では写真家の権利はどうか。この裁判で問われたのはサルの訴えだけで、スレーターさんに著作権があるかは判断されていません。著作権局の手引きは「サルが撮った写真」を登録しないとしていますが、手引きは法律ではない。ウィキメディア・コモンズでは、写真は今も誰の権利もかからない画像として公開されています。
4つの立場が答えた問いと答えなかった問い
この騒ぎに関わった4つの立場を並べると、それぞれが答えた問いの範囲は意外に狭いことが分かります。
| 立場 | 示した考え | 答えていないこと |
|---|---|---|
| ウィキメディア財団(2014年) | 人間の作者がいないので誰の著作権もない | 法的な決着ではなく運営の判断 |
| 著作権局の手引き(2014年〜) | サルが撮った写真は登録しない | 法律の効力はない |
| 連邦地裁(2016年) | 著作権法は動物を守っていない | 写真家の権利の有無 |
| 第9巡回区控訴裁判所(2018年) | 動物は著作権法で訴えられない | 写真家の権利の有無 |
「誰のものでもない」と言い切ったのは、裁判所ではなくウィキメディアと著作権局の側でした。
日本の著作権法ならどう考える?

著作物は「思想又は感情」の表現
日本の著作権法は、第2条で著作物を「思想又は感情を創作的に表現したもの」と定めています。作者にあたる「著作者」は「著作物を創作する者」です。人の考えや気持ちの表現であることが前提なので、動物が偶然写した写真は著作物に当たらないと考えるのが一般的です。
カメラの持ち主が作者になる場合
一方で写真は、構図や光の具合、シャッターを切る瞬間の選び方に撮る人の個性が出るとされます。スレーターさんが主張したように、人が構図を決めてカメラを据えたのなら、その部分に創作があると見る余地は残ります。シャッターを押したのが誰かだけでは決まらない。日本でも、人がどこまで関わったかが分かれ目になります。
サルの判決は生成AIの裁判に引き継がれた

AIが描いた絵も登録されなかった
アメリカでは、AIが自分で作り出した絵の著作権をめぐる裁判が続きました。開発者のスティーブン・セイラーさんは、自作のAIを作者として絵を登録しようとして断られています。2025年3月18日、ワシントンの連邦控訴裁判所は「作者は人間でなければならない」として著作権局の判断を支持しました。2026年3月2日には、最高裁がこの事件を取り上げないと決めています。
判決文に出てくるナルトの名前
このAIの判決は、人間の作者を求める考えが新しいものではない証拠として、ナルトの判決を引いています。作者は動物ではありえないと示した例として、サルの自撮りが名前ごと登場するのです。日本でも2024年3月に文化庁の審議会がまとめた考え方が、AIは法律上の人格を持たないので「創作する者」には当たらないとしています。
撮影から判決までの7年間、ナルトは何も知らずにスラウェシの森で暮らしていたはずです。人間たちが争ったのは写真の権利と団体の立場で、判決はサルを「使われた駒」と呼びました。結局サルの側に届いたのは、写真の収入の4分の1を森を守る活動に回すという和解の約束だけ。あの笑顔は、誰の持ち物にもならないまま、今も自由に見られる場所にあります。
参考
- United States Court of Appeals for the Ninth Circuit「Naruto v. Slater, No. 16-15469」判決文(2018年)
- U.S. Copyright Office「Compendium of U.S. Copyright Office Practices, Third Edition, Chapter 300」
- e-Gov法令検索「著作権法」
- 文化審議会著作権分科会法制度小委員会「AIと著作権に関する考え方について」(2024年)
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