呉越同舟(ごえつどうしゅう)は、中国の兵法書『孫子』の九地篇(きゅうちへん)に出てくる一節から生まれた言葉です。憎み合う呉の人と越の人も、同じ舟で川を渡る途中に強い風に遭えば、左右の手のように助け合う。孫子はこのたとえで、逃げ場のない兵は命じなくても一つにまとまると説きました。いまの日本語では「仲の悪い者どうしが同じ場に居合わせる」意味でもよく使われます。
孫子の九地篇にある舟のたとえ

原文は「呉人と越人と相悪むなり」
もとの漢文は「夫吳人與越人相惡也,當其同舟而濟。遇風,其相救也,如左右手」です。日本では「それ呉人と越人と相悪(にく)むなり。その舟を同じくして済(わた)るに当たりて風に遇(あ)えば、その相救うや左右の手のごとし」と読み下されてきました。
「済る」は川を渡ること。舟に乗り合わせただけでは何も起きず、風が吹いて舟が危うくなったところで初めて手を貸し合う、という順番で話が進みます。
四字の熟語は後の時代の言い方
『孫子』の本文に「呉越同舟」という四字そのものは見えません。「呉人と越人」と「同舟」を縮めて四字にしたのは後の人で、原文の主役はあくまで風に遭った舟の上の二人です。
辞書もこの点ははっきりしていて、精選版日本国語大辞典は見出しの由来として九地篇の一文をそのまま引いています。言葉は短くなっても、背景にある場面は二千年以上前の兵法書のままです。
直前に置かれた常山の蛇
このたとえの直前で、孫子は「率然(そつぜん)」という蛇の話をしています。常山に住むこの蛇は、頭を打てば尾が向かってくる。尾を打てば頭が来て、胴を打てば頭と尾がそろって襲いかかります。軍をこの蛇のようにできるかと問われ、孫子は「できる」と答えます。その根拠として持ち出されたのが、呉と越の舟の話でした。部隊どうしが自然に助け合う軍は作れるのか、という問いへの答えだったわけです。
孫子が言いたかったのは何?

兵が一つになるのは逃げ場がないとき
孫子の主張は「仲の悪い者でも協力できる」という道徳ではありません。兵が手を取り合うのは、ほかに道がないからだと言い切っています。舟の話のすぐ後には「手を携えて一人を使うがごとし、已(や)むを得ざればなり」と続きます。
大勢の兵を一人の人間のように動かせるのは、やむを得ない状況に置かれているからだ、という意味です。協力の源は友情でも忠誠でもなく、追い詰められた立場そのものにあると見ていました。
馬をつなぎ車輪を埋めても足りない
同じ段落には「方馬埋輪(ほうばまいりん)、いまだ恃(たの)むに足らず」という一文もあります。馬をつなぎ並べ、戦車の車輪を土に埋めて退けなくしても、それだけでは頼りにならない。形だけ退路を断っても、兵の心がそろわなければ意味がないという指摘です。
九地篇の「死地」という考え方
九地篇は、戦う場所を九つに分けて兵の動かし方を説く章です。その一つが「死地」で、本文では「往く所無き者は死地なり」と定めています。どこにも行き場のない場所のことです。
同じ篇には「之を亡地に投じて然る後に存し、之を死地に陥れて然る後に生く」という有名な句もあります。滅びるしかない場所に置かれて、兵は初めて生き延びる力を出す。嵐の舟は、この死地を身近な場面に置き換えたたとえでした。
はしごを外し舟を焼く将軍

高い所に登らせてはしごを取る
舟のたとえの次の段落で、孫子は将軍の仕事をこう描きます。兵と期日を決めたら「高きに登りて其の梯(はしご)を去るがごとし」。下りる手段を取り上げてしまえ、というわけです。
敵地の奥深くまで連れて行ったら「舟を焚(や)き釜を破る」とも書いています。帰りの舟を焼き、炊事の釜を壊せば、兵は前へ進むしかありません。羊の群れを追うように兵を動かすのが将軍だ、とまで言っています。
兵には行き先を知らせない
同じ段落では、作戦の中身を兵に知らせないことも勧めています。計画を変え、道を遠回りさせ、兵が先を読めないようにする。現代の感覚では冷たく聞こえますが、兵を「呉と越の乗客」と同じ立場に追い込むための手立てでした。
呉越同舟の一節は、仲直りの美談ではなく、こうした兵の動かし方の一部として書かれています。前後を続けて読むと、言葉の印象がだいぶ変わります。
呉と越はなぜ仲が悪かった?

長江の下流で隣り合う二つの国
呉と越は、春秋時代の中国で長江の下流域にあった国です。呉の都は今の蘇州あたり、越の拠点の会稽(かいけい)は今の浙江省紹興とされます。境を接する二国は、紀元前6世紀の終わりから激しく争いました。日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、両国は力が拮抗した好敵手で、「呉越」の二字だけでも仲の悪いもののたとえになっていたといいます。
親子二代で続いた争い
争いの流れを、呉の王と越の王を軸に年表にすると次のようになります。父の仇討ちから会稽での降伏、そして逆転まで、約四半世紀で攻守が入れ替わりました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 前515年 | 闔閭(こうりょ)が呉王に即位する |
| 前496年 | 檇李(すいり)の戦いで越王勾践(こうせん)に敗れ、闔閭が傷がもとで死去。子の夫差(ふさ)が王位を継ぐ |
| 前494年 | 夫差が夫椒(ふしょう)で越を破る。勾践は会稽山にこもって降伏を願い、夫差は許す |
| 前482年 | 夫差が黄池(こうち)で中原の諸侯と会盟。留守を突いて越が呉に攻め込む |
| 前473年 | 越に敗れた夫差が自ら命を絶ち、呉が滅びる |
表の最後の行で呉は地図から消えます。勾践を生かして帰した夫差の判断が、二十年あまり後にわが身へ返ってきた形です。
臥薪嘗胆も同じ争いから生まれた
屈辱を忘れないように苦しみに耐える「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」も、この呉越の争いが舞台です。よく知られた形では、夫差が薪の上に寝て父の仇を忘れず、勾践が苦い胆をなめて会稽の恥を忘れなかったとされます。
もっとも、この割り振りは後の時代の歴史書『十八史略』に見える形です。古い説話では、どちらも勾践の行いとして語られていたと日本大百科全書は説明しています。
書き手の孫武は呉の将軍

闔閭に仕えた斉の人
『孫子』の著者とされる孫武(そんぶ)は、斉(いまの山東省)の出身です。『史記』によれば兵法十三篇を著して呉王闔閭に仕え、西の楚を破りました。北の斉や晋もおびやかしたといいます。呉が覇を唱えられたのは孫武の力によるところが大きかったと伝わります。闔閭の在位は前515年から前496年まで。つまり孫武は、越との戦いが始まった時代の呉にいたとされる人物です。
宿敵どうしを例に選んだ兵法書
呉に仕えた人が、自国と宿敵の越を「憎み合う二者」の見本として書いている。当時の読み手には、説明抜きで通じる組み合わせだったのでしょう。ただし、今に伝わる十三篇がすべて孫武本人の筆かどうかは確かめようがありません。山川出版社の世界史小辞典は、現在の『孫子』十三篇の本文は三国時代の曹操(そうそう)の注釈本までしかさかのぼれないと書いています。
1972年に出土した竹簡の孫子
1972年、山東省臨沂(りんぎ)の銀雀山(ぎんじゃくざん)にある漢代の墓から、兵法書を書いた竹簡がまとまって見つかりました。紀元前2世紀初めごろの墓とされ、『孫子』の竹簡305枚(2300字あまり)が読み解かれています。
同じ墓からは、孫武の子孫とされる孫臏(そんぴん)の兵法書も出てきました。それまで名前しか知られていなかった書物で、「孫子」と呼ばれる兵法書が二種類あったことがこの発見ではっきりしたのです。
※ 竹簡(ちくかん)とは、細長く削った竹の札に文字を書き、ひもで綴じた古代中国の書物のことです。紙が広まる前の主な書写材料でした。
呉越の争いは春秋時代の終わり

戦国時代が始まる前に呉は滅んだ
呉越の話は「戦国時代の出来事」と紹介されることもありますが、呉が滅んだ前473年は春秋時代の末にあたります。戦国時代の始まりは、晋が三つに分かれた前5世紀の後半に置くのが一般的です。デジタル大辞泉も夫差を「春秋時代の呉の王」としています。
運河を掘って北をめざした呉
越を降した夫差は、北の大国と肩を並べようとしました。前486年には邗江(かんこう)という運河を掘り、淮水と長江を結んでいます。日本大百科全書は、これが後に隋の煬帝(ようだい)が築く大運河のもとになった工事だと説明しています。
北へ北へと兵を出すあいだに、背後の越は力を蓄えていました。黄池の会盟で覇を争った夫差が急いで帰国する羽目になったのは、その留守を勾践に突かれたからです。
日本語ではどんな意味で使う?

辞書は「居合わせる」と「協力」を並べる
デジタル大辞泉は、呉越同舟の意味を二つ載せています。一つは仲の悪い者どうしが同じ所に居合わせたり、行動を共にしたりすること。もう一つは、敵対していてもいざというときには共通の困難や利害のために協力し合うことです。
精選版日本国語大辞典の並びも同じです。孫子の原文では「協力」が話の核でしたが、日本の辞書では「同じ場にいる」の方が先に来ています。
小説の中の呉越同舟
精選版日本国語大辞典は、実例として岡本かの子の小説『生々流転』(1939年)の「けふは呉越同舟の船かね、それとも一蓮托生の船かね」を挙げています。似た四字熟語と並べて、舟に乗り合わせた人の関係を問う使い方です。
城山三郎の『落日燃ゆ』(1974年)では、東京裁判で死刑となった元首相広田弘毅と軍人たちの関係にこの語が使われます。最期を共にする顔ぶれが、広田にとっては苦い思いを味わわされた相手だったという場面で、協力とは正反対の「居合わせる」の意味です。
仲のよい相手には使いにくい
四字熟語を知る辞典は、ライバル企業どうしの合併のような場面を今の典型例に挙げています。姉妹都市の市民どうしのように、対立のない関係には言いにくいという補足つきです。
反対に、野球のチームどうしのようにメンバーの仲がよくても本来は競争相手という関係なら使える、と同辞典は書いています。呉越同舟と呼べるかどうかの分かれ目は、気持ちではなく立場が対立しているかどうかにあるわけです。
中国語では協力の意味が中心

台湾の成語辞典は「仇を友に」
台湾の教育部が公開している成語辞典は、「吳越同舟」を、敵国どうしの呉と越が危難のときには互いに救い合ったことだと説明します。のちに、苦難のときに仇を友に変えて難関を共に越えるたとえになったという解説です。
ここには日本の辞書が最初に置く「ただ同じ場にいる」の意味は出てきません。同じ四字でも、中国語では原文どおり助け合いの側に重心があります。
同舟共済も同じ一節から
中国語には「同舟共済(どうしゅうきょうさい)」という成語もあります。同じ舟で川を渡り、力を合わせて難局を乗り切るという意味で、原文の「同舟而済」から出た言い方です。
台湾の成語辞典では「風雨同舟(嵐の中で同じ舟に乗る)」の項でも、九地篇の呉と越の一節を典拠に引いています。舟と嵐の場面は、中国語では「呉越」の二字を外しても生き続けているのです。
九地篇から生まれた言葉はほかにもある

常山の蛇勢は文章の褒め言葉にも
先に紹介した率然の蛇からは「常山の蛇勢(じょうざんのだせい)」という言葉ができました。先陣と後陣、左右の翼が呼応して敵に隙を見せない陣立てのことです。デジタル大辞泉には、文章の首尾がよく照応して引き締まっていることという意味も載っています。
明治の岩倉使節団の記録『米欧回覧実記』にも、ロシアの勢力の中に日本が置かれている様子をこの語で表した一文があります。兵法の比喩が、国際情勢の説明にまで使われていました。
脱兎のごとくは九地篇の結び
九地篇の最後の一文は「始めは処女のごとく、後は脱兎のごとし」です。初めはおとなしく見せて敵を油断させ、後には逃げるウサギのような速さで攻めて守る暇を与えない、という兵法のたとえです。
今でも「脱兎のごとく駆け出す」と言うときの脱兎は、ここにさかのぼります。精選版日本国語大辞典は、室町時代の『史記抄』(1477年)の用例を挙げており、日本でも五百年以上使われてきた言葉です。
太平記にも登場する勾践
呉越の物語は日本の古典にも入り込んでいます。『太平記』では、児島高徳(こじまたかのり)が行在所の桜の幹に「天莫空勾践 時非無范蠡」の十字を書きつけた場面が有名です。天よ勾践を見捨てるな、時に范蠡(はんれい)のような忠臣もいる。隠岐へ流される途中の後醍醐天皇を励ました言葉とされます。
范蠡は会稽で敗れた勾践を支え、呉を滅ぼすまで導いた越の家臣です。高徳の事跡は『太平記』にしか伝わりませんが、この場面は戦前の国定教科書や尋常小学唱歌「児島高徳」を通じて広く知られました。呉越の王と家臣の名が、およそ六百年後の子どもたちにまで届いていたことになります。
孫子の舟は、乗り合わせただけでは何も起きません。風が吹き、舟が傾いたところで、憎み合っていた二人の手がようやく左右の手のように動き出します。会議室やエレベーターで苦手な相手と一緒になるのは、呉越同舟のまだ半分。波をかぶって初めて、二千五百年前の兵法家が書いた呉越同舟になります。
参考
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