表千家と裏千家を分けたのは、教えの正しさでも格の上下でもありません。千宗旦(せんのそうたん)が本家の屋敷を三男に譲り、自分はその北の裏手に隠居所を建てて四男と移り住みました。本家が「表」、裏手の隠居所が「裏」。呼び名の出どころは屋敷の位置で、作法の違いはその後の三百数十年で少しずつ積み重なったものです。
「表」と「裏」は屋敷のどこを指す?

本家の北裏に建った隠居所
正保3年(1646年)、千利休の孫にあたる宗旦は隠居し、家督と茶室の不審菴(ふしんあん)を三男の江岑宗左(こうしんそうさ)に譲りました。自分は屋敷の裏の地に隠居所を構え、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)を連れて移り住みます。その隠居所の茶室が今日庵(こんにちあん)です。
のちに宗旦はこの隠居屋敷を仙叟に譲り、そこから裏千家が始まりました。辞典の説明では、今日庵が不審菴の「庭続き北裏」にあったので裏千家と呼ばれたとされます。表千家はその対になる呼び名です。
「裏」は格下という意味ではない
「裏千家」という名は、家が自分で名乗った正式名というより、世間が使い始めた俗称に近いものです。表千家の正式な号は不審菴、裏千家は今日庵。どちらも茶室の名前を看板にしています。
本家から見て奥にある、という順番を示しただけなので、「裏」に本流から外れたという含みはありません。いまも両家の家元は京都市上京区で隣り合っています。裏千家の所在地は小川通寺之内上ル。四百年近く前の屋敷割りが、そのまま地図に残っている形です。
武者小路千家は通りの名を名乗った
三千家(さんせんけ)のもう一つ、武者小路千家を興したのは宗旦の次男・一翁宗守(いちおうそうしゅ)です。京都の武者小路に茶室の官休庵(かんきゅうあん)を建て、官休庵一世を称したことが始まりとされます。表・裏・武者小路と並べると、呼び方はばらばら。けれど三つとも「どこに建っているか」で名前が決まった点はそろっています。
「上流」「下流」も住所の呼び分け
京都には三千家のほかに藪内家(やぶのうちけ)という古い茶家があります。三千家が上京(かみぎょう)にあったのに対し、藪内家は下京(しもぎょう)にあって西本願寺に仕えました。そこで三千家を「上流(かみりゅう)」、藪内家を「下流(しもりゅう)」と呼び分けてきたといいます。上と下も、表と裏と同じく格付けではなく場所の話でした。京都の茶の世界では、流派の名が住所の代わりを務めてきた、ということです。
三つの庵の名はどこから来た?

不審菴は古渓和尚の禅語から
不審菴の名は、利休の師とされる禅僧・古渓宗陳(こけいそうちん)の一句「不審花開今日春」から取ったと伝えられます。ここでの「不審」は現代語の「怪しい」とは違います。花はなぜ開くのか、と問い続ける心を指す語として読まれてきました。
宗旦の不審菴は床なしの一畳半
宗旦が造って不審菴と名付けた茶室は、床の間もない一畳半だったとされます。客と亭主が膝を突き合わせる広さです。江岑はこれを受け継いだあと、父と相談して平三畳台目(ひらさんじょうだいめ)の茶室に建て替えました。日本大百科全書はその年を正保4年(1647年)としています。
この江岑の茶室が、現在の不審菴の始まりです。建物は1906年に焼け、いまのものは大正期の再建。再建年は辞典によって1913年と1914年に分かれています。
今日庵は遅れてきた和尚の書き置きから
今日庵の名には、少し間の悪い逸話が残っています。宗旦が茶室の席開きに清巌(せいがん)和尚を招いたところ、和尚は約束の刻限に遅れました。待ちきれなかった宗旦は「明日おいでください」と言い置いて外出します。
やって来た和尚は、茶室の腰張に「懈怠比丘不期明日(けたいのびく みょうにちをきせず)」と書いて帰りました。怠け者の僧に明日の約束はできない、という意味です。宗旦はこの一句から「今日」を取って庵の名にしました。広さは一畳台目(いちじょうだいめ)と伝えられます。
※ 一畳台目とは、客用の畳一畳と亭主が座る台目畳(普通の畳の4分の3ほどの長さの畳)だけでできた、ごく小さな茶室のことです。
官休庵は「仕官を休む」の意味
一翁宗守は高松藩松平家の茶頭(さどう)を務めていました。世界大百科事典によると、その役を辞した寛文7年(1667年)に建てた茶室が官休庵です。席名には「仕官を休む」という意味が込められているとされます。
ただし武者小路千家と高松藩の縁はここで切れたわけではありません。2代目の文叔宗守も高松藩に出仕し、その後の代々も同家への出仕を続けたと伝わります。
千家は利休の切腹でいちど途切れかけた

天正19年に当主を失った
千利休は天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で切腹しました。天下人の茶頭を務めた人物の死は、本人だけの問題では済みません。千家は当主を失ったうえ、家そのものが続くかどうか分からない状態に置かれました。
会津の蒲生氏郷に身を寄せた少庵
利休の後継者だった少庵(しょうあん)は、会津の大名・蒲生氏郷(がもううじさと)のもとへ身を寄せました。京へ戻ることが許されたのは、切腹から3年後の文禄3年(1594年)です。大徳寺で修行していた子の宗旦も加わり、親子で千家を立て直しました。
1600年、宗旦が三代目を継ぐ
慶長5年(1600年)、少庵は家督を宗旦に譲りました。関ヶ原の戦いと同じ年です。ここで千家の三代目となった宗旦が、のちに家を三つに分ける当人になります。利休から数えて三代。一度は取り潰されかけた家が、孫の代には三つに増えたことになります。
宗旦はなぜ息子を別々の大名家へ送った?

自分は仕えなかった「乞食宗旦」
宗旦は生涯、大名に仕えませんでした。祖父の利休が権力の近くで命を落とした末路を見ていたから、と説明されることが多い人物です。江戸の将軍家から茶道師範に招かれても応じなかったと伝わります。
清貧を通した暮らしぶりから付いた異名が「乞食宗旦(こじきそうたん)」。同じ時代の茶人・金森宗和の華やかな茶と比べて「乞食宗旦、姫宗和」と並べて呼ばれたともいいます。
息子の仕官には熱心だった
自分は仕えない一方で、宗旦は息子たちの就職先探しに奔走したとされます。江岑は紀州徳川家へ。仙叟は承応元年(1652年)に加賀藩主・前田利常の茶頭となりました。一翁は高松藩松平家の茶頭を務めています。
一つの家が一人の主君に運命を預けると、主家が傾いたときに茶の湯ごと消えかねません。三人がそれぞれ別の大名家に足場を持った形は、結果として千家を生き延びさせる仕組みになったとみることができます。
長男は勘当、継いだのは下の三人
宗旦には4人の息子がいました。長男の宗拙(そうせつ)は早くに家を離れ、父との不和から勘当されたとされます。千家の茶を継いだのは、次男の一翁・三男の江岑・四男の仙叟の三人でした。
次男は塗師の家から茶へ戻った
一翁宗守は、若いころ茶の世界の外にいた人です。塗師(ぬし)の吉文字屋与三右衛門の養子となり、甚右衛門と名乗って漆器の家業を守っていました。千の姓に戻って武者小路千家を興したのは晩年のことです。三兄弟のなかでいちばん遠回りした人が、通りの名を冠した三つ目の家の祖になりました。
いま見て分かる違いは茶筅と泡

茶筅の竹は三家で違う
道具でいちばん見分けやすいのは茶筅(ちゃせん)です。日本大百科全書は、茶筅を竹の種類で白竹・煤竹・紫竹に分け、それぞれを使う流派を挙げています。並べると次のとおりです。
| 流派 | 茶筅の竹 | 竹の見た目 | 薄茶の泡(一般的な傾向) |
|---|---|---|---|
| 表千家 | 煤竹(すすだけ) | いぶされた赤茶色 | あまり立てない |
| 裏千家 | 白竹 | 白っぽい淡い色 | 細かく泡立てる |
| 武者小路千家 | 紫竹 | 黒紫がかった色 | あまり立てない |
煤竹は、民家の天井などで囲炉裏の煙に長くいぶされて色づいた竹のことです。白竹と並べれば、色の差はひと目で分かります。
泡を立てるか、立てないか
点てた薄茶の表面にも違いが出ます。裏千家は茶筅を速く振って細かい泡を一面に立て、ふっくらと仕上げるのが一般的です。表千家は泡を控えめにして、抹茶の緑が見える面を残すといわれます。
ただしこれは稽古場で語られる傾向で、家元が公式に「泡の量」を定めた資料には当たれませんでした。先生によっても加減は変わるので、目安として見るのが無難です。
椅子で点てる立礼式は明治5年から
裏千家11代の玄々斎(げんげんさい)は明治5年(1872年)、椅子を使う立礼式(りゅうれいしき)を考案しました。同じ年には「茶道の源意」という文書を政府に出しています。武家の後ろ盾を失った明治の初めに、茶の湯の新しい形を探った家元でした。
※ 立礼式とは、専用の卓と椅子を使い、亭主も客も腰かけたまま行う点前の形式のことです。
椅子の茶は、じつは新しい発明というより先祖返りでもあります。日本大百科全書によると、南北朝のころの茶会は椅子を使う立礼で、これを「唐礼」と呼んでいました。
裏千家は女学校へ広めた
近代の広がり方にも差が出ました。13代の円能斎(えんのうさい)は機関誌「今日庵月報」を創刊し、14代の淡々斎(たんたんさい)は昭和15年(1940年)に全国組織の淡交会を設けています。
世界大百科事典は、裏千家が女学校への茶の湯の普及に努め、茶道人口を大きく増やしたと説明しています。名前は「裏」でも、学校や地域の茶道教室で目にする機会は多い家。表と裏の語感と、いまの広がりは対応していません。
道具を作る十の職家は三家に共通
流派は三つに分かれても、道具を作る側は分かれていません。千家とともに400年にわたって茶道具を作り続けてきた十の職家を「千家十職(せんけじっしょく)」と呼びます。樂家(らくけ)・永樂家・奥村家・土田家などがその一員で、三千家のどこにも出入りしてきました。
「茶道」の呼び名は江戸時代から

はじめは養生の薬として広まった
飲茶の習慣を武士の世に根付かせたのは、臨済宗の栄西(えいさい)でした。栄西は茶の効き目を説く『喫茶養生記』(きっさようじょうき)を著しています。この本は上巻で茶を、下巻では桑を扱っており、嗜好品の案内というより健康法の書でした。
南北朝には飲み当てゲームの闘茶
南北朝のころ、武士の間で闘茶(とうちゃ)が流行しました。異なる茶を飲み比べて産地や銘柄を当てる勝負で、「飲茶勝負」とも呼ばれた遊びです。静かに向き合う今の茶席からは想像しにくい賑やかさがありました。
珠光から利休へ受け継がれたわび茶
室町時代の村田珠光(むらたじゅこう)は、草庵の小座敷で質素な茶会を始めたとされます。これを堺の町衆・武野紹鴎(たけのじょうおう)が受け継ぎ、珠光も使わなかった「わび」という言葉を茶に持ち込みました。その弟子の千利休が、わび茶をほぼ完成の形まで高めます。
利休の時代の呼び名は「茶の湯」
利休が生きた時代、いまのような意味で「茶道」と言うことはまれでした。呼び名は「茶の湯」です。「茶道」の語が広まった時期は辞典で分かれ、世界大百科事典は17世紀初頭、日本大百科全書は17世紀後半から18世紀としています。
読み方にも一ひねりあります。日本国語大辞典の補注によれば、江戸時代までは「さどう」より「ちゃどう」が普通でした。「さどう」と読むと、大名に仕える茶頭(さどう)と紛らわしかったためです。
家元が並び立った時期と重なる
三兄弟がそれぞれの大名家に仕え、家として茶を伝え始めたのが17世紀の半ば。「道」という呼び名が定着していくのは、その前後からです。教える家、受け継ぐ弟子、決まった作法。三つがそろったころに茶の湯は「道」と呼ばれるようになりました。
表と裏は、どちらが本流かを競う言葉ではありませんでした。父が息子に本家を渡し、自分は裏手へ下がった。その一つの引っ越しが、四百年近くたった今も流派の名として呼ばれ続けています。「うちは裏です」という言葉が指しているのは、教えの違いより先に、屋敷の中の場所なのです。
参考
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