電車の不正乗車を「キセル」と呼ぶのは、タバコを吸う道具の煙管(きせる)から来ています。煙管は両端が金属で、あいだの管は竹などでできています。その「両端だけ金属」という形が、乗り降りのときだけ運賃を払って途中の区間をごまかす手口とそっくりだったのです。道具の形が、そのまま不正の呼び名になったわけです。
キセル乗車の「キセル」はここから来ている
まず、名前の由来を一覧で押さえておきます。ポイントは、煙管の構造と、不正乗車の手口が「両端だけ」で重なるところにあります。

| 見るところ | 中身 |
|---|---|
| 名の由来 | タバコ道具の煙管(きせる)の構造 |
| 煙管の両端 | 雁首(がんくび)と吸口(すいくち)=金属製 |
| 煙管の中間 | 羅宇(らう)=竹などの管で、金属ではない |
| なぞらえ | 両端だけ「金(かね)」を払い、途中は払わない不正乗車 |
| 言葉の登場 | 大正のころには「煙管乗り」という言い方があった |
「金」という一文字が、金属という意味と、お金という意味の両方を担っている。ここがこの言葉のよくできたところです。順に見ていきます。
煙管はどんな道具か——「両端だけ金属」の形
キセル乗車を理解するには、まず煙管そのものの形を知っておくと早いです。細い棒のように見えて、じつは三つの部分に分かれています。

煙管は三つの部分でできている
両端の金属——雁首と吸口
火をつけた刻みタバコを詰める先端を雁首(がんくび)、口にくわえる側を吸口(すいくち)といいます。どちらも真鍮(しんちゅう)などの金属で作られているのが基本でした。火が触れる側と、口が触れる側。役割は違いますが、いずれも金属というのが共通点です。
中間の竹——羅宇
雁首と吸口をつなぐ中間の管は羅宇(らう)と呼ばれ、多くは竹でできていました。ここが金属ではない、というのが煙管の見た目上の大きな特徴です。両端は金色に光り、真ん中は竹の色。この対比が、あとで不正乗車の比喩にぴったりはまることになります。
なぜ両端だけ金属なのか
火と口が当たる場所だから
雁首は炭火に近く、吸口は繰り返し口をつける場所です。熱や摩耗に耐え、清潔を保ちやすい素材が向いています。金属ならその両方をこなせます。いっぽう中間の管は熱も口も直接触れないので、軽くて加工しやすい竹で十分だったわけです。
竹は取り替えがきいた
羅宇は使ううちにヤニで詰まります。竹なら安く取り替えがきくため、この管だけを交換する「羅宇屋(らうや)」という商売も成り立っていました。両端の金属は長く使い、真ん中の竹は消耗品として替える。理にかなった作りだったのです。
「両端だけ金」が不正乗車の比喩になった
ここで煙管の形と、不正乗車の手口が結びつきます。キセル乗車とは、乗車券を工夫して途中の運賃をまるごと払わずに済ませる不正の総称です。

キセル乗車の基本の仕組み
2枚の乗車券で中間を飛ばす
典型は、区間のつながらない2枚以上の乗車券を使う手口です。乗る駅の近くまでの短い切符で改札を入り、降りる駅の近くからの短い切符で改札を出る。あいだの長い区間には有効な切符を持っていない、という状態を作ります。両端でだけお金を払い、真ん中はごまかす。まさに煙管の「両端だけ金属」と同じ構図です。
定期券を組み合わせる手口
短い区間の定期券を両端に使い、あいだを飛ばすやり方もありました。定期は毎日使える分、不正が長期にわたりやすく、あとで問題になったときの金額も大きくなりがちです。仕組みは同じで、両端だけ正規、中間が空洞という点が変わりません。
「金(かね)」と「金属」の二重の意味
両端だけ料金、両端だけ金属
この言葉のうまさは、「金」の一字が二つの意味を兼ねるところにあります。煙管は両端だけ「金属」、キセル乗車は両端だけ「お金(運賃)」。読みも意味もずれているのに、「両端だけ金」という一点で重なります。だじゃれに近い連想が、通称として長く生き残った理由でしょう。
大正には「煙管乗り」があった
この言い回しは新しいものではありません。大正のころにはすでに「煙管乗り」という言葉が使われていたとされ、およそ100年前から鉄道の不正乗車を指してきた古株の表現です。煙管そのものは日常から姿を消しても、言葉のほうは改札口に残り続けました。
キセル乗車は立派な犯罪——増運賃と罪
語源は洒落ていても、行為そのものは犯罪です。見つかれば、お金の面でも刑事の面でも重い代償があります。

お金の面——運賃の最大3倍
鉄道営業法の「増運賃」
鉄道会社は、乗車区間に相当する運賃に加えて、その2倍以内の割増(増運賃)を請求できます。合計すると、正規運賃のじつに最大3倍。本来の運賃を払えば済むどころか、余分に2倍分を上乗せされる決まりです。
根拠になっているのは、明治から続く鉄道営業法という古い法律です。「ばれても運賃だけ払えばいい」という理屈は通りません。
※ 増運賃(ましうんちん)とは、不正乗車が見つかったときに、本来の運賃とは別に上乗せして請求される割増分のことです。鉄道営業法では正規運賃の2倍以内と定められています。
定期併用だと高額になりやすい
定期券を使った長期のキセルが発覚すると、有効期間のあいだ繰り返し不正をしていたとみなされることがあります。1回あたりは小さな差額でも、日数を掛け合わせると請求額は跳ね上がり、数十万円以上になる例も知られています。安く上げるつもりが、けた違いの出費になるわけです。
刑事の面——詐欺罪にもなる
鉄道営業法違反という基本
有効な乗車券を持たずに乗る行為は、鉄道営業法第29条にふれ、罰金や科料の対象になります。まずこれが土台の違反です。
だます要素があれば詐欺罪
それだけではありません。区間をごまかして係員をだまし、運賃の支払いをまぬがれれば、刑法の詐欺罪に問われることがあります。さらに、自動改札機に虚偽の状態で処理をさせて不正に降りた場合は、電子計算機使用詐欺罪という別の罪が成立しうるとされています。「たかが運賃」ではとても済まない話です。
自動改札とICカードが「キセル」を難しくした
かつて有人改札が中心だった時代は、キセル乗車がやりやすい環境でした。技術の進歩が、その抜け道を一つずつふさいでいきます。

入場と出場を交互に強制する
阪急のフェアライドシステム(1994年)
阪急電鉄が1994年に導入したフェアライドシステムは、入場の処理と出場の処理を交互に行わないと改札を通れない仕組みでした。入場の記録がない切符では出られないため、「途中を飛ばして出口だけ通る」という基本の手口が通じにくくなったのです。
入場券の売り上げが激減した
この仕組みの導入後、入場券の販売が大きく減ったと伝えられています。見送りや出迎えに使うはずの入場券が、キセルの道具として買われていた実態が、数字の変化から透けて見えたわけです。対策が効いたことの、静かな証拠でした。
ICカードは通った経路を覚えている
乗った区間の記録が残る
SuicaやICOCAといった交通系ICカードは、どこで入ってどこで出たかを記録し、その区間の運賃を自動で差し引きます。入場の記録がないまま出ようとすればエラーになり、有人窓口へ回されます。両端だけをつまむ古典的なキセルは、ますますやりにくくなりました。
抜け道はふさがれ続けている
それでも、複雑な経路や複数の会社をまたぐ区間を突いた不正が試みられることはあります。鉄道各社はそのたびに改札のルールやシステムを見直し、抜け道をふさいできました。いたちごっこの側面はありますが、全体として「キセルの難易度」は上がり続けています。
もう一つの隠語「薩摩守」
ただ乗りを指す隠語は、じつはキセルだけではありません。「薩摩守(さつまのかみ)」という古い言い方もあります。

これは平安末期の武将、平忠度(たいらのただのり)の名にちなんだ言葉遊びです。官職名の「薩摩守」を名乗った忠度の「ただのり」が、「ただ乗り」と同じ読みだったことから、無賃乗車の隠語になりました。この見立ては狂言の演目にもなっており、言葉のしゃれで人を笑わせる文化の古さがうかがえます。キセルが道具の形からの連想なら、薩摩守は人名の読みからの連想。どちらも、まっすぐ「無賃乗車」と言わずに遠回しに示す、日本語らしい工夫です。
キセル乗車という四文字には、二つのものが畳み込まれています。雁首と吸口だけが金色に光る道具の形と、両端だけ運賃を払おうとする人の悪知恵です。煙管を実際に吸う人はほとんどいなくなり、切符もICカードに置き換わりました。それでも言葉だけは道具の記憶を抱えたまま、今日も改札の前に残っています。
関連記事




