ぬか床を底からかき混ぜたとき、黒ずんだ釘が指に当たる——昔の台所ではめずらしくない光景でした。落としものではありません。ナスを紫色のまま漬け上げるために、わざと沈めてあるものです。
釘から溶け出した鉄が、ナスの皮の色素と結びついて色を留めます。黒豆を鉄鍋で煮る話や、アジサイの花が青くなるしくみとも地続きの化学です。
古釘が引き受けている仕事

ナスの色止めという同じ役目を担ってきた道具は、釘のほかにもいくつかあります。先に顔ぶれを並べてみます。
| 手段 | 効いている中身 | 主な使いどころ | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 古釘 | 鉄イオン | ナスのぬか漬け | 昔ながらの定番。現代の釘は事情が違う |
| 鉄玉・鉄なす | 鉄イオン | ぬか床に入れたまま | 食品に入れる前提で作られた鋳物 |
| 鉄鍋・鉄フライパン | 鉄イオン | 黒豆を煮る | 加熱する料理向き |
| 焼きミョウバン | アルミニウムイオン | ナスの漬物全般 | ごく少量を皮にすり込む |
| 塩もみ・板ずり | (物理的な下ごしらえ) | ナス全般 | アクと水分を先に出す |
上の4つは、どれも金属のイオンが働いている点で同じ仲間です。塩もみだけは系統が違い、色素そのものには手を出しません。
ナスの紫は、放っておくと逃げていく

ナスの色が抜けるのは、色素が「動ける状態」で皮に入っているからです。まずそこから見ていきます。
紫の正体は「ナスニン」
デルフィニジンを土台にした色素
ナスの果皮の暗い紫は、ナスニンと呼ばれるアントシアニン系の色素によるものです。分解するとデルフィニジンという色素本体が現れ、これがブルーベリーやアジサイの青ともつながる骨格になります。
※ アントシアニンとは、植物の花や果実にある水溶性の色素の総称です。赤・紫・青のもとになり、ナス・黒豆・紫キャベツ・ブルーベリーなどに含まれています。
色は皮に偏っている
ナスニンがあるのは主に皮の部分で、中の白い果肉にはほとんどありません。ナスの漬物で「色が命」と言われるのは、守るべき色が薄い一枚に集中しているからです。皮をむいた瞬間、この話はまるごと成り立たなくなります。
水に溶ける色は、水のあるほうへ動く
ぬか床のほうが紫に染まる
ナスニンは水溶性です。塩で水分が引き出される漬物では、色素も一緒に外へ出ていきます。ナスの紫が抜ける代わりにぬか床の一角が紫っぽくなるのは、色が消えたのではなく引っ越しただけ、というわけです。
酸やアルカリでも表情が変わる
アントシアニンは周囲の性質でも色を変えます。酸性では赤みを帯び、アルカリ性に寄ると青や緑へ動くとされ、紅ショウガが酢で赤くなるのも同じ原理です。ぬか床は乳酸で酸性に傾いているため、色そのものは比較的保たれやすい環境にあります。
漬け上がってからの茶色は、別の反応
切り口の変色はアクの酸化
ナスを切って置くと切り口が茶色くなります。これは色素が抜けたのではなく、アクに含まれるポリフェノールが空気に触れて酸化する反応です。鉄を入れても止められない現象で、対策は水にさらすか、早く扱うか。
「きれいに漬かったのに翌日くすむ」
ぬか床から引き上げたあと放置すると、時間とともにくすんできます。漬かり具合の失敗と誤解されがちですが、これも置いた時間の問題であることが多いようです。取り出したら早めに食べるのが確実でしょう。
鉄が入ると、何が変わるのか

鉄の役割は、逃げやすい色素をその場に「留める」ことです。留め方には、はっきりした化学のかたちがあります。
色素が金属をくわえこむ
並んだ水酸基が金属をはさむ
デルフィニジンは、分子の端に水酸基(OH)が3つ並んだ構造を持ちます。この並びが金属イオンをはさみこむ格好になり、色素と鉄が一体となった安定な錯体(さくたい)が生まれるわけです。ナスニンは鉄などのイオンがあると安定な塩をつくる——化学系の辞典にも、そう記されている性質です。
※ 錯体(さくたい)とは、金属イオンのまわりに別の分子がくっついてできる化合物のことです。色素が金属をはさみこむ形の結合は「キレート」とも呼ばれ、語源はカニのはさみを意味するギリシャ語だとされています。
黒豆・アジサイと同じ原理
おせちの黒豆に釘を入れる習慣も、まったく同じ理屈で説明できます。黒豆の皮にあるクリサンテミンという色素が鉄と結びつき、長く煮ても退色しにくい黒に仕上がるとされています。ナスと黒豆、離れた料理が一本の釘でつながっているわけです。
なぜ「古い」釘なのか
錆びた表面のほうが差し出しやすい
必要なのは金属の塊ではなく、溶け出したイオンのほうです。使い込んで錆の浮いた鉄は、表面が反応しやすい状態になっています。ぴかぴかの新品より、いかにも古びた一本が選ばれてきたのでしょう。
今の釘は事情が違う
現在ホームセンターで売られている釘の多くは、錆止めの亜鉛めっきが施されていたり、油が塗られていたりします。食品に浸ける前提で作られたものではありません。先がとがっているぶん、ぬか床をかき混ぜる手を傷つける心配もあります。「古釘を入れる」という知恵をそのまま今日の売り場に持ち込むと、話の前提が入れ替わってしまうわけです。
ぬか床が酸っぱいことも効いている
乳酸でpHが下がる
ぬか床は乳酸菌が働く発酵食品で、熟成が進むとpHはおおむね4.5〜5あたりまで下がるとされています。ヨーグルトに近い酸性の環境が、雑菌を抑えると同時に、沈められた鉄にも作用します。
酸があると鉄は溶けやすい
鉄鍋を使った調理の実験でも、食酢を加えた条件で鉄の溶出量が際立って多くなったと報告されています(今野暁子・及川桂子「調理中に鉄鍋から溶出する鉄量の変化」日本調理科学会誌36巻1号、2003年)。酸が鉄を溶かすという性質は、台所のあちこちで顔を出します。ぬか床という酸っぱい環境は、鉄の色止めにとって都合がよいのです。
色よく漬けるために、台所でできること

理屈がわかると、手順の一つひとつに意味が見えてきます。ナスを漬けるときの定番の作法を、目的別に整理します。
下ごしらえで色を出させない
塩でしっかりもむ
ヘタを落とし、ひとつまみの塩で水分が出るまでもみこむ。この下ごしらえでアクと余分な水が先に抜け、ぬか床への色移りが抑えられるとされています。板ずりと呼ばれる、まな板の上で転がす方法も同じ狙いです。
厚みのあるナスは切り込みを
実が厚いと中心まで漬かるのに時間がかかり、そのあいだに色が抜けていきます。切り込みを入れてぬかを少し詰めておくと、短い時間で漬け上がります。長く浸けないことが、そのまま色を守ることにつながるわけです。
鉄を入れるなら、食品用のものを
鉄玉・鉄なすという選択
南部鉄器の産地では、ぬか床用に鉄玉子や鉄なすといった鋳物が作られています。入れっぱなしにできて、先端で手を切る心配もありません。古釘の役割を、そのまま道具として引き受けた製品と言えます。
ミョウバンという別の手
焼きミョウバンを皮にすり込む方法もあり、こちらはアルミニウムイオンが色素と結びつきます。金属が違っても、色素をつかまえるという仕事は同じ。ただし量が多いと渋みやえぐみが出るため、ごく少量で使われます。
※ 焼きミョウバンとは、ミョウバン(硫酸アルミニウムカリウム)を加熱して水分を飛ばしたものです。漬物の色止めや煮くずれ防止に古くから使われてきた食品添加物です。
漬け時間と、食べるタイミング
目安は6時間から1〜2日
切り込みを入れたナスなら6時間ほどで漬かることもあり、丸のままなら1〜2日が目安とされます。季節やぬか床の元気さで変わるため、時計より現物を見るほうが確実です。夏場は早く進みます。
引き上げたら早めに
先に触れたとおり、取り出してから時間が経つと色はくすみます。鉄を入れても、この段階まで守ってはくれません。せっかく紫に漬け上がったなら、その日のうちに食卓へ出すのが一番の色止めでしょう。
「鉄分が摂れる」という話はどこまで本当か

鉄を入れる話には、色止めとは別に「鉄分補給になる」という説明がついて回ります。ここは分けて考えたほうがよさそうです。
鉄鍋の研究でわかっていること
酸の強い調味料ほど溶け出す
先の2003年の報告では、食酢・トマトケチャップ・食塩の順に鉄の溶出量が多く、pH2.7と酸の強い食酢で特に顕著だったとされています。加熱時間が長いほど溶出は増え、油を使うと減る傾向も示されました。
| 条件 | 鉄の溶け出し方 |
|---|---|
| 酸を加える | 増える。食酢(pH2.7)で顕著 |
| 加熱時間が長い | 増える |
| 水分が多い | 増える |
| 油を使う | 減る傾向 |
溶けた鉄の大半は2価鉄
同じ報告によれば、溶け出した鉄の78〜98%が2価鉄でした。食酢を加えた条件では98%に達し、安定性にも優れていたとされます。
※ 2価鉄とは、電子を2つ手放した状態の鉄イオン(Fe²⁺)のことです。3価鉄(Fe³⁺)より体に取り込まれやすいとされます。なお、レバーや赤身肉に多い「ヘム鉄」は別の分類です。鉄の価数ではなく、たんぱく質由来の構造による区分になります。
ぬか床の鉄に、そのまま当てはめられるか
条件がかなり違う
鉄鍋の実験は、煮汁の中で加熱するという条件でのものです。ぬか床は加熱しませんし、漬かった野菜へ移る鉄の量を示したデータは見当たりませんでした。「酸性だから鉄は溶ける」までは言えても、「だから十分な鉄分が摂れる」は飛躍になります。
貧血の対策としては期待しすぎない
鉄鍋で調理した場合でさえ、1食から得られる鉄は1日の推奨量のごく一部にとどまるという試算が紹介される程度です。健康上の心配があるなら、まず医療機関で相談するのが筋でしょう。ぬか床の鉄は、あくまで色を守る道具として見ておくのが穏当だと思われます。
豆知識——「糠に釘」は、台所では成り立たない

ここまで読んだ方は、ひとつ引っかかっているかもしれません。糠と釘といえば、日本語には正反対の意味のことわざがあります。
ことわざのほうの「糠に釘」
いくら意見しても手ごたえがない
「糠に釘」は、強く忠告しても効き目がないことのたとえです。やわらかい糠に釘を打ち込んでも、すっと入ってすぐ抜けてしまう——その頼りなさが語源とされ、上方(かみがた)のいろはかるたにも採られて広まりました。
「豆腐に鎹」「暖簾に腕押し」の親戚
同じ発想の言い回しに「豆腐に鎹(かすがい)」があります。鎹は材木をつなぐコの字型の釘で、豆腐に打っても何もつながりません。「暖簾に腕押し」も並べて使われ、手ごたえのなさを言い表す言葉が日本語には妙に揃っています。
ところが本物のぬか床では
打ち込むのではなく、溶かして使う
ことわざは釘を「打つ」道具として見ています。ぬか床の釘は打ちません。酸の中でじわじわ溶け、目に見えない粒になって色素と手を結ぶ——同じ取り合わせでも、使い方が違えばはっきり効き目が出るわけです。
アジサイの青も、同じ理屈でできている
金属と色素の結びつきは、庭先にもあります。アジサイの青は、アントシアニン・アルミニウムイオン・助色素の3つが1対1対1で組んだ錯体によるもの。名古屋大学の吉田久美教授らの研究がそれを示しました。土からアルミニウムを吸い上げた花と、ぬか床で鉄をまとったナス。どちらも金属をまとって色を決めているという点では、同じ仲間です。
忠告のほうの糠に釘は、これからも手ごたえなく抜けつづけるでしょう。ただ、台所の糠に沈められた一本だけは、ことわざを裏切ってきちんと働いています。ナスの紫がきれいに上がった日は、その古釘に少しだけ手柄を分けてやってよさそうです。
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