花札が四十八枚なのは、十六世紀にポルトガルから伝わったカードが一組四十八枚だったからです。南蛮渡来の札は四つの絵柄に十二枚ずつという割り方でしたが、花札は同じ四十八枚を十二か月に四枚ずつ配り直しました。枚数はそのままに、縦と横を入れ替えたような作りといえます。
48という数はポルトガルのカードから来た

四つの紋標に1から9と絵札3枚
十六世紀後半、ポルトガルの商人や船員がカードを日本へ持ち込みました。神戸市立博物館が所蔵する「天正かるた版木重箱」の解説によれば、その札は四種の紋標(もんぴょう)それぞれに一から九の数字札と三枚の絵札がつき、合計四十八枚でひと組です。紋標は棍棒・聖杯・貨幣・剣の四つでした。
いまのトランプは一から十までの数字札に絵札三枚で、一つの絵柄が十三枚。南蛮渡来の札には十の札がなく、そのぶん一組が四枚少なかったことになります。「カルタ」という呼び名も、カードを意味するポルトガル語のcartaから来ています。
三池でつくられた国産のかるた
輸入品はほどなく国内でも刷られるようになりました。兵庫県芦屋市の滴翠(てきすい)美術館に一枚だけ残る国産の札には「三池住貞次」の銘があり、産地は福岡県の三池地方と推定されています。神戸の版木は桃山時代のもので、江戸時代に朱漆を塗って重箱に仕立て直された少し変わった資料です。
こうした初期の国産品は天正かるたと呼ばれます。ブリタニカ国際大百科事典は、最初の札に「天正金入極上仕入」と記されていたことから便宜上この名がついたと説明しています。
名も絵も変わり、枚数は残った
同じ事典によると、寛永(1624〜44年)ごろから図柄が日本向けに改められ、三池・京・大坂で大量に刷られて広まりました。賭け事に使われたため元禄(1688〜1704年)ごろに禁じられ、代わりにうんすんカルタが考案されたといいます。
紋標の絵は描き替えられ、遊び方も入れ替わっていきました。その流れの先に花札があります。一つの絵柄に十二枚という割り方は失われても、一組四十八枚という器だけは受け継がれたのです。
花札の48枚はどう分かれている?

十二か月に四枚ずつの内訳
花札は一月の松から十二月の桐まで、月ごとに一つの草木が決まっています。各月の札は四枚で、十二か月を合わせると四十八枚。杜若(かきつばた)・芒(すすき)・萩(はぎ)と、いまでは読みにくい草木が並ぶのも花札らしいところでしょう。月ごとの顔ぶれを並べると次のようになります。
| 月 | 草木 | その月の四枚 |
|---|---|---|
| 1月 | 松 | 光札「松に鶴」/赤い短冊/カス2枚 |
| 2月 | 梅 | 種札「梅に鶯」/赤い短冊/カス2枚 |
| 3月 | 桜 | 光札「桜に幕」/赤い短冊/カス2枚 |
| 4月 | 藤 | 種札「藤に時鳥」/短冊/カス2枚 |
| 5月 | 杜若 | 種札「杜若に八橋」/短冊/カス2枚 |
| 6月 | 牡丹 | 種札「牡丹に蝶」/青い短冊/カス2枚 |
| 7月 | 萩 | 種札「萩に猪」/短冊/カス2枚 |
| 8月 | 芒 | 光札「芒に月」/種札「芒に雁」/カス2枚 |
| 9月 | 菊 | 種札「菊に盃」/青い短冊/カス2枚 |
| 10月 | 紅葉 | 種札「紅葉に鹿」/青い短冊/カス2枚 |
| 11月 | 柳 | 光札「柳に小野道風」/種札「柳に燕」/短冊/鬼札 |
| 12月 | 桐 | 光札「桐に鳳凰」/カス3枚 |
光・種・短冊・カスの四種類
四十八枚は、絵柄とは別に四つの種類にも分かれます。こいこいで数える点数は種類ごとに違い、枚数も均等ではありません。
- 光札(ひかりふだ)……5枚。20点
- 種札(たねふだ)……9枚。10点
- 短冊札(たんざくふだ)……10枚。5点
- カス札……24枚。1点
半分の二十四枚が点の低いカス札という配分です。高い札が少ないからこそ、光札を一枚取るだけで場の空気が変わります。
4×12を12×4にすると何が変わる?

組が月になり、位が四枚になった
同じ四十八枚でも、四×十二と十二×四では札の性格がまるで違います。トランプでいうスート(絵柄の組)にあたるものが月になり、数字の順位にあたる部分が四枚に縮みました。違いを並べると次のとおりです。
| 観点 | 南蛮渡来の札・天正かるた | 花札 |
|---|---|---|
| 総枚数 | 48枚 | 48枚 |
| 組の数 | 4種類(棍棒・聖杯・貨幣・剣) | 12種類(1月〜12月の草木) |
| 1組あたり | 12枚 | 4枚 |
| 札の区別 | 1〜9の数字+絵札3枚 | 光・種・短冊・カスの種類 |
| 数字の表示 | あり | なし |
同じ月の四枚には順位が無い
トランプなら、同じスートの中で二より三が強く、三より四が強いという順位がはっきりしています。花札の同じ月の四枚に、そうした連番はありません。松の四枚は「鶴の光札」「赤い短冊」「カス」「カス」で、一位から四位までの階段とは別物です。
点数も役も札には書かれていない
光札が二十点、種札が十点という点数は、札の表に印刷されていません。猪鹿蝶や赤短といった役の名前も同じです。七月の猪・十月の鹿・六月の蝶を集めれば猪鹿蝶になりますが、その組み合わせを教えるのは札ではなくルールのほう。
同じ四十八枚を使っても、こいこいと花合わせでは数え方が違います。札に数字を持たせず、遊び方の側に情報を預けた道具だといえそうです。
各月の四枚は同じ顔ぶれではない

八月に短冊が無く、十二月はカスが三枚
各月四枚という枠は守られていても、中身の配分はそろっていません。八月の芒には短冊札が無く、代わりに光札と種札が一枚ずつ入ります。十二月の桐は、光札の「桐に鳳凰」以外の三枚がすべてカス札。四つの種類を十二か月に均等に配る作りにはなっていないのです。
四種類が一枚ずつ揃うのは十一月だけ
光札・種札・短冊札・カス札が一枚ずつ並ぶ月は、十二か月のうち十一月の柳しかありません。しかもそのカス札は、赤や黒で塗られた鬼札(おにふだ)という特殊な一枚です。いちばん整った月が、いちばん例外的でもあるという少し皮肉な配置になっています。
数字の無い絵札はいつ生まれた?

辞典によって違う成立時期
花札がいつ生まれたかは、辞典の間でも説明がそろっていません。世界大百科事典は、賭博系の天正かるたと教育系の「花鳥合せ」を折衷して作られたとする説を有力とします。ブリタニカ国際大百科事典は文化文政年間(1804〜30年)ごろ、日本大百科全書は江戸末期に作られ広まった札という扱いです。
どの説明も、南蛮渡来の札が日本で姿を変えたものだという点では一致しています。食い違うのは、いつ・どの札から変わったかという部分です。
寛政までに出回った「武蔵野」
商品として確かめられる早い例が、京都のかるた屋・山口屋儀助(やまぐちや ぎすけ)の花かるたです。遅くとも寛政年間(1789〜1801年)までに「武蔵野」の名で売り出され、江戸を中心とする武蔵国へ送られていたとされます。
和歌を刷って歌がるたに見せる
「武蔵野」のカス札の一部には、古今和歌集などから採った古歌が刷られていました。賭け事の札ではなく、教養の遊びである歌がるたに見せるための工夫だったと考えられています。数字を持たない絵札は、取り締まりの目をかわすうえでも都合がよかったのでしょう。
禁令と花札はどう関わった?

寛政の改革で生まれたという説
よく語られるのは、寛政の改革(1787〜93年)で賭博系のかるたが禁じられ、その代わりに花札が考え出されたという筋書きです。世界大百科事典や百科事典マイペディアもこの見方を紹介しています。
江戸幕府は寛政の改革の前後を通じて、天正かるたの系統に何度も禁令を出しました。それでも遊びは隠れて続き、札の形を変えながら生き延びていきます。
文政と天保には花合わせも禁止
絵札に変えても、取り締まりから逃れ切れたわけではありません。世界大百科事典によれば、大坂の出来事を記した『摂陽奇観』の文政二年(1819年)の項に「当春花合停止」とあり、天保二年(1831年)にも禁令が出ました。花札そのものも、やがて禁止の対象になったのです。
誕生を記した明治の証言
花札の発明者について具体的に書いた記録として知られるのが、明治二十三年(1890年)の『温古の栞(おんこのしおり)』です。筆者の大平与文次(おおひら よぶんじ)は、享保年間(1716〜36年)に将軍家の坊主衆が発明したと記しました。
ただ、これは百数十年あとの書き留めで、その根拠までは示されていません。花札の誕生は、いまも決め手を欠いたままです。
十一月の柳と十二月の桐はなぜ季節外れ?

柳は春の季語、桐は初夏の花
十二か月に草木を割り当てる発想は分かりやすいものの、最後の二枠だけは季節と噛み合いません。柳は俳句では春の季語で、桐の花が咲くのは六月ごろ。十一月と十二月に置かれる理由は、暦の上からは見えてきません。
面白いのは、地方によって割り当てが違ったことです。中京地方の札では柳が二月、桐が六月とされ、季節感とも合っていたといわれます。月の順番は、全国で一つに決まっていたわけではなかったのです。
四枚とも別格の十一月
十一月の顔ぶれは、ほかの月から浮いています。光札に描かれるのは草木でも動物でもなく、平安時代の書家である小野道風(おののとうふう)。柳に飛びつこうとする蛙を見て発奮したという逸話の場面です。
残る三枚も燕・短冊・鬼札と個性が強く、雨の札とも呼ばれます。この月だけ別の考え方で作られたように見えるのは、そのためでしょう。
鳳凰がとまるのは桐の木
十二月の光札は「桐に鳳凰」。中国の古典には、鳳凰は梧桐(ごどう)でなければとまらないという話が残り、桐はめでたい木とされてきました。正月の「松に鶴」と年末の「桐に鳳凰」で、一年をおめでたい鳥ではさむ形になっています。
文字が書かれている札は三枚だけ

「あのよろし」ではなく「あかよろし」
いまの花札で文字が入っているのは、赤い短冊の三枚です。松と梅に「あかよろし」、桜に「みよしの」。二文字目が「の」に見えるため「あのよろし」と読まれがちですが、これは「可」をくずした変体仮名(へんたいがな)の「か」だとされます。
※ 変体仮名とは、いまのひらがなとは別の漢字をくずして作られたかなのことです。明治33年の小学校令施行規則で字体が整理されるまで、同じ音に何通りもの書き方がありました。
「明らかによろしい」は誤りとされる
意味については「明らかによろしい」の略だという説明が広く出回っています。ところが、赤短そのものを指す「赤よろし」と読むのが正しく「明らかに」とする解釈は誤りだ、という指摘も根強いのです。読みは「あかよろし」で落ち着いても、意味の説明はまだ割れたまま。
桜の「みよしの」と無地の青短
桜の短冊にある「みよしの」は、桜の名所である奈良県吉野の美称「御吉野」です。文字そのものが桜を指す言葉になっています。六月・九月・十月の青い短冊は無地で、何も書かれていません。
関東の花札から和歌が消えた
和歌を刷った「武蔵野」の図柄は、その後関東で作られた札(関東花)で古歌を削られました。歌がるたに見せかける必要がなくなったためとされています。いま残る三枚の文字は、札に言葉が刷られていた時代のわずかな名残です。
花札には87年間、税がかかっていた

明治15年の刑法で店頭に戻った
明治に入っても花札の売買と所持は禁じられていました。ところが明治十五年(1882年)施行の刑法には、それを禁じる明文が置かれません。トランプの輸入解禁を求めたイギリス公使の働きかけが背景にあったと考えられています。
翌1883年には東京の業者が新聞広告で花札を売り出し、1885〜86年には届け出のうえでの販売が始まりました。事実上の解禁で、花札は取り締まりの対象から店頭の商品へと移っていきます。
一組二十銭の証紙
税務大学校の解説によれば、骨牌税(こっぱいぜい)は明治三十五年(1902年)に導入されました。製造者には製造所一か所につき六十円、骨牌には一組ごとに二十銭の証紙を貼ることが求められています。対象はカルタのほか、花札やトランプ、麻雀牌にまで広がりました。
※ 骨牌(こっぱい)とは、カルタや麻雀牌などをまとめて指す言葉です。当時のカルタは贅沢品として扱われていました。
日清戦争後の財政を埋める新税
導入の背景には、日清戦争後の苦しい国家財政がありました。外債の募集が思うように進まず、政府は穴を埋める新しい財源を必要としていたのです。同じ年には砂糖消費税も導入されています。
京都に残った作り手と任天堂
課税は作り手を減らしました。京都の製造業者は1898年ごろの約四十から、施行後は十一に減ったと報告されています。一方で製造は京都に集まり、地方で自前の製造を続けたところはごくわずかでした。
その京都で明治二十二年(1889年)に花札の製造を始めたのが、山内房治郎(やまうち ふさじろう)の店です。骨牌税が始まった1902年には日本初のトランプ製造に着手しました。いまの任天堂です。骨牌税は昭和三十二年(1957年)にトランプ類税と改称され、平成元年(1989年)の消費税導入で廃止されました。
ポルトガル船の荷から江戸の賭場へ。禁令と税をくぐり抜け、京都の小さな工場へ。名前も絵柄も遊び方も何度となく入れ替わったのに、四十八という数だけはどこでも書き換えられませんでした。手元の一組を数えれば、その数は四百年前の札と同じです。
参考
- 文化遺産オンライン「天正かるた版木重箱」(神戸市立博物館)
- コトバンク「花札」(世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
- 国税庁 税務大学校「税の歴史クイズ 一杯一杯の財政とこっぱい税」
- コトバンク「天正かるた」(ブリタニカ国際大百科事典)
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