じゃんけんは、幕末から明治にかけての日本で今の形になったとみられています。中国から伝わったのは指の合計を当てる別の拳で、三つの手が互いに勝ち負けする仕組みは日本で生まれたとする研究があります。明治初めの記録では三つ目の手は紙でなく風呂敷でした。石を包むものなら、布でも紙でも輪は閉じたのです。
日本にあった四つの拳

江戸の座敷にあった拳の顔ぶれ
江戸時代の日本には、手や指で勝負を決める遊びが何種類もありました。じゃんけんの出どころをたどるには、まずほかの拳と分けて見る必要があります。代表的な四つを並べると、出す手も決め方もばらばらです。
| 拳の名前 | 出す手 | 勝ち負けの決め方 | 記録に出てくる時期 |
|---|---|---|---|
| 本拳(ほんけん) | 片手で0から5までの数 | 二人の指の合計を口で言い当てた側が勝ち | 江戸中期から |
| 虫拳(むしけん) | 親指・人差し指・小指 | 蛙・蛇・なめくじの三すくみ | 江戸後期の子ども遊びの本に多い |
| 狐拳(きつねけん) | 両手と上半身 | 狐・庄屋・鉄砲の三すくみ | 幕末に流行 |
| じゃんけん(石拳) | グー・チョキ・パー | 石・紙・鋏の三すくみ | はっきりするのは明治以降 |
当てものの拳と三すくみの拳
四つのうち、本拳だけは勝負のつけ方が違います。相手の出す数を読む当てものだからです。残りの三つは出した形を比べ、決まった強弱で勝ち負けをつけました。じゃんけんは、この二つの流れが江戸から明治のあいだで交わったところに立っているとみられています。
※ 三すくみとは、三つのものが一つに勝ち、もう一つには負ける状態のことです。絶対に強いものがないので、何を出しても勝つとは限りません。
中国から来たのは指の合計を当てる拳

本拳は二人の指の合計を言い当てる
中国から入ってきたのは、指の形を比べる遊びではありませんでした。日本で本拳、あるいは長崎拳・崎陽拳(きようけん)と呼ばれた拳です。二人が片手で数を作って同時に出し、そのとき二人の指の合計を口で言います。
自分が2、相手が3を出したなら「5」と言えた側の勝ち。安永7年(1778年)の洒落本『胡蝶の夢』は、三番のうちに勝負をつける「三けん勝負」や、勝った数を指を折って数えるやり方まで書き留めています。相手の心を読む勝負なので、一回ではまず決まりません。
数の呼び名は中国語のままだった
天明5年(1785年)の洒落本『和唐珍解(わとうちんかい)』には、長崎の遊郭で中国人の客が拳を打つ場面が出てきます。飛び交う声は「一・五・十・両・七・無」に「四・九・三・八・六・二」。遊女が「これだけは日本のとあまり違わない」と口を挟むと、通訳は「もともと唐土(とうど)から来た物さ」と答えました。
※ 洒落本(しゃれぼん)とは、江戸時代の遊里を舞台に、会話をそのまま写す形で書かれた小型の読み物です。当時の話し言葉を知る手がかりになります。
本拳は長崎生まれか、中国生まれか

1809年の指南書が書いた「崎陽拳のはじまり」
本拳の由来を書き残した資料はあります。文化6年(1809年)に出た拳の指南書『拳会角力図会(けんさらえすまいずえ)』で、拳を相撲の形式で打つ様子を描いた本です。冒頭の行司の口上に、その由来が置かれています。
口上によれば、長崎の丸山(まるやま)が開かれたころ、妓楼に唐人が大勢来て宴を設けた。酒が進むと唐人は左右に分かれ、礼儀正しく拳を打ち合う。負けた側はギヤマンの大器で二、三杯を飲み干して下がった。「今に言ふ崎陽拳の濫觴(らんしょう)これなり」と締めくくられています。崎陽は長崎の別名です。
遊郭ができたのは1639年、記録は170年後
この口上には時間の開きがあります。丸山遊郭ができたのは寛永16年(1639年)といわれ、指南書が出たのはその170年後でした。料理屋・八百善の主人が書いた『料理通』(文政5年=1822年)にも長崎の料亭で日本人と中国人が拳を打つ図があります。ただ、これも同じくらい後の絵です。伝え聞いた話をもとに想像で描いた可能性は消せません。
日本人が考えて中国へ渡った可能性
数の呼び名が中国語風であることは、中国から入ったという見方を支えます。けれども、手を同時に出して合計を当てる拳が明の末の中国にあったという確証は得られていません。中国でこの形の拳がはっきり書かれるのは、清代の『酒令叢鈔(しゅれいそうしょう)』が最初とされます。
丸山遊郭では、言葉の通じない日本人と中国人が同じ席を囲んでいました。数を言い当てるだけの遊びなら、通訳がいなくても成り立つ。拳遊戯を長く調べてきた高橋浩徳氏は、日本人が考え出して中国側へ伝わった可能性も言い切れないとしています。
三すくみは最強の手を作らない仕掛け

一つでも最強があれば勝負にならない
じゃんけんの核は、手の形ではなく勝敗の組み合わせのほうです。仮にAがBに勝ち、BがCに勝つとします。順当にいけばAはCにも勝ち、誰もがAを出すだけの遊びになってしまう。そこでCがAに勝つと決めると、輪がつながって強さが平等になります。グーはチョキに、チョキはパーに、パーはグーに勝つ形がそれです。
中国には五すくみの「五毒拳」があった
すくみは三つに限りません。清代の『酒令叢鈔』には、指一本を同時に出す五毒拳が載っています。親指から順にヒキガエル・蛇・ムカデ・ヤモリ・クモを表し、クモはヤモリに勝ち、ヤモリはムカデに勝つ。同じようにムカデ→蛇→ヒキガエル→クモと勝ちがめぐり、五つで一つの輪になっていました。
『関尹子』の三すくみは遊びの記録ではない
三すくみの考え方そのものは、中国の思想書『関尹子(かんいんし)』の三極篇にさかのぼります。ムカデは蛇を食べ、蛇は蛙を食べる。そして蛙はムカデを食べて「互いに食い合う」という一節です。虫拳の蛙・蛇・なめくじと顔ぶれが近く、じゃんけんの先祖として持ち出されてきました。
この一節を「中国に三すくみの拳があった証拠」とする説を、高橋氏は退けました。書かれているのはすくみの思想であって、拳でも遊戯でもない。その説が挙げるガマ・クモ・サソリ・ムカデ・ヘビの拳も、実際は清代の五毒拳のことだろうと述べています。考え方があったことと、遊びがあったことは別なのです。
江戸の子どもが打っていたのは虫拳

蛙・蛇・なめくじの勝ち負け
日本で三すくみを担っていたのは、じゃんけんではなく虫拳でした。指を一本だけ立てる拳で、親指が蛙・人差し指が蛇・小指がなめくじ(蛞蝓)を表します。蛙はなめくじに勝ち、なめくじは蛇に勝ち、蛇は蛙に勝つ。蛇がなめくじに負けるのは不思議に見えますが、輪を閉じるにはこの向きが要りました。
江戸の子ども遊びの本に石・紙・鋏は出てこない
文化7年(1810年)の随筆『飛鳥川(あすかがわ)』は、子どもが「虫拳狐拳本の拳」をするようになったと書いています。天保2年(1831年)の『尾張童遊集』に描かれるのは庄屋拳と虫拳。天保14年(1843年)の『幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしひながた)』でも、拳遊びは虫拳と狐拳でした。
子どもの遊びを集めた本をたどっても、石と紙と鋏の拳は姿を見せません。高橋氏は、明治の初めにはもうあったことから江戸時代に生まれていたと考えつつ、広まったのは江戸の末かそれ以降とみています。
じゃんけんの記録はいつから見つかる?

1830年の広重の絵は断定できない
歌川広重の『ふうりゅうおさなあそび』(文政13年=1830年)には、二人の子どもがグーとチョキらしい手を出す絵があります。じゃんけんとして紹介されることの多い場面です。ところが本拳でも、一方が0、もう一方が2を出せば同じ絵になる。じゃんけんらしいとは言えても、そこまでなのです。
1838年の川柳に「リヤン拳」の鋏
江戸川柳を集めた『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』(天保9年=1838年)に「リヤン拳で鋏を出すは花屋の子」という句があります。花屋の子が商売道具の鋏を出す、という笑いでしょう。鋏が手の一つになっているので、このリヤン拳はじゃんけんのことと考えられています。
1850年の「ジャン拳」は別の拳の歌詞
初出としてよく挙がるのが、嘉永3年(1850年)の随筆『皇都午睡(こうとごすい)』です。西沢一鳳(にしざわいっぽう)が「近頃東都にてはやりしはジャン拳也」と書いています。ところが続くのは「蛙ひとひよこ三ひよこ 蛇 ぬら」「婆様に和唐内(わとうない)が呵られて虎がハウ」という文句でした。
蛙・蛇・なめくじは虫拳の手、婆様・和唐内・虎は虎拳の手です。つまりこれは、とてつる拳という別の遊びの歌詞。途中の「ジャンジャカジャカ ジャンケンナ」は三味線の囃子(はやし)の音とみられ、石も紙も鋏も出てきません。
明治の記録で石・紙・鋏がそろう

アメリカ人教師グリフィスが書いた「Ishi-ken」
明治の初めに日本で教えたアメリカ人、ウィリアム・グリフィスは『The Mikado’s Empire(ミカドの帝国)』(1876年)にこう書きました。「Ishi-ken」という遊びでは、石と鋏と包み布が表される。石は握った拳で、鋏は離した人差し指と中指。布は曲げた人差し指と親指だ、と。グリフィスはこれをじゃんけんとは呼んでいません。
1893年に「石拳の別名はジャンケン」
日本側では、雑誌『風俗画報』に連載された大槻如電(おおつきじょでん)の「拳の話」が挙がります。明治26年(1893年)の号に「石拳は石と紙と鋏との三なり」とあり、「さて石拳の一名をジャンケンと云ふは」と続く。石拳の別名がじゃんけんだと書かれた、最初の記録とされます。
明治34年(1901年)の『全国児童遊戯法』になると、東京の「じゃん拳」は言うまでもなく紙・石・剪刀(はさみ)の三種だ、と書かれるようになります。掛け声は「じゃん拳ぽん」。わずか八年で、説明のいらない遊びになっていたことがうかがえます。
パーはなぜ風呂敷だった?

三十年で三つ目の手の名前が入れ替わった
グリフィスが書いた三つ目の手は、紙ではなく包み布、つまり風呂敷でした。明治の記録を年の順に並べると、石と鋏はほとんど動かず、揺れているのは三つ目の手だけだと分かります。
| 記録 | 年 | 握った手 | 指二本の手 | 三つ目の手 |
|---|---|---|---|---|
| グリフィス『The Mikado’s Empire』 | 1876年 | 石 | 人差し指と中指で鋏 | 人差し指と親指を曲げて風呂敷 |
| 大槻如電「拳の話」 | 1893年 | 石 | 鋏 | 紙 |
| 『全国児童遊戯法』(東京) | 1901年 | 石 | 剪刀 | 紙 |
| 菊池貴一郎『江戸府内絵本風俗往来』 | 1905年 | 五指を皆握って石 | 親指と人差し指を出して鋏 | 五指を皆開いて紙 |
布は指を曲げた輪で表した
今のパーは五本の指を開きます。1876年の記述はそうではなく、人差し指と親指を曲げる形でした。高橋氏は「OKサインのよう」と評しています。包む布を表すなら、開いた掌より輪のほうが石を包み込む感じに近い。そう読むと、手つきにも理屈が通ります。
1905年には五本の指を開いて紙
菊池貴一郎(きくちきいちろう)の『江戸府内絵本風俗往来』(明治38年=1905年)は、ずいぶん細かく書いています。右手を握り、チイリイサイと言いながら三度振って指を開く。五指を皆開くのが紙、親指と人差し指を出すのが鋏、五指を皆握るのが石です。誰もが知る遊びならここまで細かく書くだろうか、と高橋氏は首をかしげています。
チョキの指も記録ごとに違う
鋏の手も一つに決まっていません。グリフィスは人差し指と中指、1905年の記録は親指と人差し指でした。今もこの二つは両方残っていて、俗に親指と人差し指の形を「男チョキ」、人差し指と中指の形を「女チョキ」と呼ぶことがあります。
男チョキは日本の握り鋏を写した古い形だ、という説明がよく添えられます。ただ記録の上では、1876年の時点で人差し指と中指の形がもう書かれていました。どちらが先かは、手の形だけでは決められません。
包むものなら布でも紙でもよかった
名前も形も揺れたのに、勝ち負けは一度も変わっていません。硬いもの、切るもの、包むもの。三すくみが求めていたのはこの三つの役割だけで、包むものが布でも紙でも、輪は同じように閉じるのです。パーが風呂敷だったのは、当時の暮らしで風呂敷が身近な「包むもの」だったからだと読めます。
なぜじゃんけんだけが世界へ広がった?

体ぜんたいを使う拳は重すぎた
じゃんけんが勝ち残った理由は、手軽さにあったと高橋氏はみています。狐拳や虎拳は手だけでなく体を使い、座敷で向かい合ってこそ成り立つ遊びです。歌と踊りが付く所作拳(しょさけん)となれば、なおさら時間がかかる。廊下で順番を決めたいだけの子どもには重すぎました。
三すくみがいちばん早く決まる
すくみの数が四つ、五つと増えると、決着までに時間がかかります。三つがいちばん速く、しかも合理的。指一本の虫拳に比べ、グーとチョキとパーは形が大きく見分けやすいのも強みでした。虫拳が消えたのは女の子が蛇やなめくじを嫌ったからだという説もあります。ただ虫の出てくる子どもの遊びはほかにも多く、分かりやすさで負けたとみるほうが自然でしょう。
井戸やハンマーが加わる世界の拳
世界の拳はアジアを中心に見られます。インドネシアには、親指が象・人差し指が人・小指が蟻という三すくみがあります。象は人に、人は蟻に、蟻は象に勝つ。シンガポールには石・鳥・水、エチオピアにはハンマー・ドリル・切る道具という組み合わせが報告されています。
フランスやドイツには、石・紙(葉)・鋏に井戸を足した四すくみがあります。井戸は石と鋏に勝ち、紙には負ける。日本でも大正末から昭和の初めごろ、横浜の女の子たちが「川・笊(ざる)・金魚」で打っていたという採録が残っています。
ロック・ペーパー・シザーズは「無国籍」
英語圏での呼び名は、手の名前を並べただけのロック・ペーパー・シザーズ。掛け声はアメリカなら「ワン・ツー・スリー」、メキシコなら「ウノ・ドス・トレス」です。高橋氏はこれを「無国籍と言ってよい」と書きました。カナダには国際じゃんけん協会という組織があり、毎年世界大会を開いていたこともあります。
高橋氏は論文の終わりで、そのことを気にしています。このまま世界に広まれば、どこから始まったのかが誰にも分からなくなるのではないか。中国にあったのは当てものの拳で、すくみ拳は日本で生まれた。それが広く知られてほしい、と結んでいます。
豆知識:じゃんけんという名前はどこから来た?

石拳がなまった説と、両拳がなまった説
辞典によく並ぶのは二つの説です。石拳(じゃくけん)がなまったという説と、二人で打つ両拳(りゃんけん)がなまったという説。1893年の「拳の話」で、大槻如電はすでに両拳説を「恐らくは非なるべし」と退け、ジャンは石の呉音(ごおん)ジヤクのなまりだと書いていました。
その後も決着はついていません。『大言海(だいげんかい)』は石拳の音がなまったのではないかとし、講談社の『語源辞典』は両拳の中国語音リャンケンが変化したものとします。『語源海』の杉本つとむ氏は、石拳説を「無理」と切り捨てました。
三味線の囃子から来たという見方
高橋氏は、二つの説では『皇都午睡』でとてつる拳が「ジャン拳」と呼ばれていたことを説明できないと指摘します。弘化4年(1847年)に芝居で演じられたとてつる拳は大流行しました。客の耳に残ったのは「じゃんじゃかじゃかじゃかじゃんけんな」の囃子だったのでしょう。人々は曲を「じゃんじゃか節」、拳を「じゃんけん」と呼ぶようになった、という見方です。
この見方は、掛け声のばらつきとも相性がよいものです。昭和4年の「全国ヂャンケン称呼集」は135種類もの呼び方を集めています。最後の拍を強めるために、弱い「な」が「ほい」や「ぽい」へ変わっていったという筋道も、囃子から出たのなら自然に見えてきます。
音が似ているだけの説も多い
仏教の言葉「料簡法意(りょうけんほうい)」から来たという説は、じゃんけんほいに音が近いことから出てきました。長崎の本にある「様拳元宝(ようけんげんぽう)」説は、中国語の辞典を引いても言葉そのものが見つかりません。高橋氏はどちらも、似た音から作ったこじつけだとみています。
変わり種はレプチャ語説です。グーはグン(からっぽ)、チョキはジョキ(鋏の両刃)、パーはファ(数字の5)だという説明になっています。ただ、この遊びの手はもともと石・紙・鋏と呼ばれていました。後から生まれたグーチョキパーの呼び名からさかのぼっている点で、順番が合いません。
本拳の出どころも三すくみを足した人も、名前の由来も、どれひとつ決着はついていません。毎日どこかで何万回と打たれる遊びが、自分の来歴について一枚の証文も残さなかった。手の形は百年で入れ替わり、呼び名も掛け声も変わりました。変わらなかったのは、誰も絶対に強くならないという一点だけです。
参考
- 高橋浩徳「日本の拳遊戯(上)」大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 第15号(2013年)
- 高橋浩徳「日本の拳遊戯(下)」大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 第17号(2015年)
- William Elliot Griffis『The Mikado’s Empire』(1876年)
- 国立国会図書館サーチ『拳會角力圖會』文化6年(1809年)
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