けん玉の発祥地は、いまも一か所に決まっていません。確認できるもっとも古い記録は1585年のフランスにあり、日本では江戸時代に大人の酒席の遊びとして現れました。ただし大・中・小の三つの皿とけん先を持つあの形は、大正時代の日本で考案されたものです。受け皿が三つあるのは日本独特だと、日本玩具博物館も紹介しています。
発祥の地はまだ確かめられていない

協会も起源を「確認されていない」と書く
公益社団法人日本けん玉協会は、けん玉の起源について「いろいろな説があり、現在はまだ確認されていません」と書いています。玉を糸でつないで受け止める遊びは世界のあちこちにあり、どこが最初かを決める決め手がないのです。
「けん玉はフランス生まれ」と言い切る紹介もときどき見かけます。正確に言えば「確認できる最古の記録がフランスにある」というところまで。似ているようで、意味はかなり違います。
最古の記録は1585年夏のフランス
よりどころは、年代記作者ピエール・ド・エストワールの記述です。1585年の夏、街角で子どもたちがよく遊んでいた「ビル・ボケ」を王様たちも遊ぶようになった。協会はこの一文を、たどれるもっとも古い記録として挙げています。流行の順序が「子ども→宮廷」だった点は少し意外です。遊びが上から下へ広まったのではなく、路地の遊びを王が真似たことになります。
国王アンリ3世と象牙のビル・ボケ
当時のフランス国王はアンリ3世で、この王が好んで遊んでいたことはフレデリック・グランフェルドの『GAMES OF THE WORLD』にも記されています。けん玉の歴史を語るとき、必ず引き合いに出される場面です。貴族や上流家庭のビル・ボケは、象牙などの素材を使った高価な品でした。遊び方は子どもと同じでも、道具そのものが持ち主の身分を映していたわけです。
世界ではどんな名前で呼ばれている?

英語・フランス語・ドイツ語の呼び名
この遊びは国ごとに別の名前で定着しています。日本けん玉協会が挙げる主な呼び名は次の三つです。
- 英語:カップ・アンド・ボール(cup and ball)
- フランス語:ビル・ボケ(bilboquet)
- ドイツ語:クーゲル・ファング(Kugelfang)
英語の名前は、受け皿と玉をそのまま並べただけのものです。日本語の「けん玉」が棒の先の「けん」を名前に含むのに対し、英語名には皿しか出てきません。呼び名の違いに、道具の形の違いが表れています。
海外のものは受け皿が一つ
日本玩具博物館によると、ヨーロッパなど各地に伝わるけん玉は受け皿がひとつだけです。玉を皿で受けるか、棒の先に刺すか。遊びの骨組みは同じでも、日本のように大きさの違う皿を三つ並べたものは見当たりません。
題名の問いへの答えは、ここにあります。皿が三つあるのは日本のけん玉だけの特徴で、その形が生まれたのは大正時代でした。経緯は後半でくわしく見ていきます。
江戸の日本では大人の酒席の遊びだった

1809年の『拳会角力図会』に載った匕玉拳
日本の文献で最初の記録とされるのが、1809年の『拳会角力図会(けんさらえすまいずえ)』です。手や指を使う「拳遊び」を集めた本で、ここに「匕玉拳(すくいたまけん)」という遊びが載っていました。
グローバルけん玉ネットワーク(GLOKEN)の解説では、堅い木で作ったコップ型の器に、糸でつないだ玉をすくい入れて勝負する遊びです。すくい損じた側が酒を飲まされる決まりでした。子どものおもちゃではなく、宴席の余興だったのです。
5回に1回すくえれば勝ち
勝負の決まりはかなりゆるやかです。日本けん玉協会によれば、5回中1回か3回中1回、玉を皿にすくい入れて勝ち負けを競いました。いまの「技を決める」感覚とはずいぶん違います。その日の吉凶や待ち人を占うのにも使われたといいます。入るか入らないかで先を占うのは、おみくじにも似た使い方でしょう。
『嬉遊笑覧』に出てくる鹿の角の拳玉
もう一つの手がかりが、喜多村信節(きたむらのぶよ)が1830年に著した随筆『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』です。安永6、7年(1777〜1778年)のころに「拳玉」が現れ、それは猪口(ちょこ)の形をして柄のあるものだったと記されています。
同じ箇所には、鹿の角で作った玉を猪口のようなくぼみで受け、受けられなかった者に酒を飲ませるという記述も。日本玩具博物館も、江戸時代には大人が酒席で使う鹿角製のものがあったと紹介しています。
日本へはどこから入ってきた?

長崎から広まったとする説
日本けん玉協会は、匕玉拳も拳玉も長崎から広まったものと考えられる、と書いています。長崎は当時、国内で唯一の開港地でした。海外の品や遊びが入ってくる窓口が長崎に限られていたことを思えば、自然な見立てです。
フランスから伝わったと示す資料は無い
一方でGLOKENは、フランスから日本に伝わったと記された歴史資料は皆無だとしています。日本のけん玉のルーツは、細かいところまでは分かっていません。長崎経由という道筋は、もっとも筋の通る説明ではあります。ただ、証拠で固められた事実ではありません。「ヨーロッパから長崎へ」と言い切る紹介は、一歩先へ進みすぎていると言えます。
江戸には二種類のけん玉があった?
GLOKENは、江戸時代の日本には少なくとも大きく二種類のけん玉があったと推測しています。一つは匕玉拳のようなコップ型。もう一つは、歌川広重の絵に描かれた、玉が棒の先に刺さっているように見えるものです。後者なら、玉には穴が開いていたことになります。皿で受けるだけでなく棒に刺す遊び方も、すでに江戸の人たちが知っていたのかもしれません。
子どもの玩具になったのは明治から

文部省の『童女筌』に載った「盃及び球」
明治9年(1876年)、文部省が『童女筌(どうじょせん)』という本を出しました。外国の書物をもとにした本で、けん玉はここに「盃及び球」という名前で載っています。英語の cup and ball を、ほぼそのまま訳した名前です。
ここに小さなねじれがあります。江戸の酒席にすでにあった道具が、明治には西洋の遊びとして改めて紹介された。同じ遊びが、二度目は「教育」の顔をして入ってきたことになります。
明治27年に「剣玉」の字が現れる
明治27年(1894年)に出た『玩具ト遊戯』では、「剣玉」と表記されています。GLOKENによれば、このころから子どもの玩具として広まっていきました。江戸の「拳」から、棒の形を言い表す「剣」へ。字が入れ替わったところに、遊びの性格の変化が見えます。
拳玉・剣玉・ケン玉、そして「けん玉」。表記は時代ごとに揺れ続けました。いまの日本けん玉協会は平仮名まじりの「けん玉」を使っています。
三つの皿は大正時代の日本で生まれた

1918年に出願された「日月ボール」
いまの形を考えたのは、広島県呉市の江草濱次(えぐさはまじ)です。大正7年(1918年)10月1日に「日月ボール」を出願し、大正8年(1919年)5月14日に実用新案として登録されました。協会は、明治期のけん玉を改良したものだと記しています。
※ 実用新案(じつようしんあん)とは、物の形や構造についての小さな工夫を登録して保護する制度のことです。特許より簡単な手続きで登録できます。
登録された構造では、軸の根元に小さな受けがあります。軸と交わる横木には大きな受けと中くらいの受けが付き、軸の先はとがっていました。受け皿一つだった道具が、けん先を含めて受け口四つに増えたわけです。
玉が「日」で皿が「月」
名前の由来は形にあります。日本玩具博物館によると、球を太陽(日)に見立て、三日月のような形に削った皿で受けることから「日月ボール」と呼ばれました。皿が月なら、皿を増やすほど月が増える理屈です。大皿・中皿・小皿の三つの皿は、三つの月だったことになります。
出願書類に並んだ九つの技
出願書類には、この道具でできる技の例も九つ並んでいました。協会が現在の名前に置き換えたものは、大皿・小皿・中皿・とめけん・大皿から中皿・小皿から中皿・ろうそく・大皿から小皿・村一周です。いま初心者が最初に習う技が、ほぼそのまま入っています。100年以上前の書類に書かれた技を、いまの子どもも同じように練習している。道具の形がそれだけ完成していた証拠でしょう。
なぜ廿日市が「発祥の地」なのか?

最初の一本は廿日市の木工所で削られた
考案者は呉の人なのに、「けん玉発祥の地」を名乗るのは広島県廿日市(はつかいち)市です。理由は、最初の一本がそこで削り出されたからでした。
廿日市市などが運営する「けん玉発祥100周年」のサイトによると、江草は家具の小物を作っていた本郷木工(現・株式会社本郷)を訪ねました。1921年(大正10年)、本郷東平の手で初めていまのけん玉が削り出されたとされています。
1924年ごろから動力で大流行
1924年(大正13年)ごろから動力が普及すると、生産が伸びて売り上げも上がり、けん玉は大流行しました。手でろくろを回していた時代から機械へ。作る側の変化が、遊びの広がりを後押しした形です。
廿日市市が2021年(令和3年)に「製造開始100周年」を迎えたのは、1921年から数えているためです。発祥を「考案」ではなく「製造」で数えているところに、木工の町の自負が表れています。
年間30万本から生産中止へ
GLOKENによれば、最盛期の廿日市では全国シェアの7割にあたる年間30万本ほどが作られていました。ところが1975年(昭和50年)にはわずか3社に減り、1998年(平成10年)には最後の1社も生産をやめます。発祥の地からけん玉作りが消えた時期が、実際にあったのです。100周年の記念の陰に、2年ほどの空白が挟まっています。
2000年に木材利用センターで復活
製造が戻ったのは2000年で、廿日市市木材利用センターが作り始めました。市によると、いまは熟練の職人が日月ボールや練習用・土産用のけん玉を一つずつ手作業で作っています。材料は桜やブナです。かつてはシタンやカリン、ケヤキといった銘木のけん玉もありました。いまはブナ材が主流だとGLOKENは書いています。
けん玉の日はなぜ5月14日?

実用新案の登録日がそのまま記念日に
5月14日は「けん玉の日」です。日月ボールが実用新案として登録された1919年5月14日にちなみ、一般社団法人グローバルけん玉ネットワークが制定しました。2017年2月に日本記念日協会への登録が済んでいます。考案の日でも、最初に削られた日でもなく、登録の日。書類に残った日付だからこそ、迷わず決められたのでしょう。
2014年から廿日市で世界大会
2014年には第1回のけん玉ワールドカップが廿日市で開かれ、それ以降も市内で開かれています。発祥の地という看板は、いまでは世界大会の開催地として生きています。
2025年大会は26の国と地域から1,024名
2025年11月15日と16日の大会には、26の国と地域から過去最多の1,024名がエントリーしました。廿日市の本戦会場に出場したのは822名で、そのうち149名が海外の選手です。
江戸の酒席で「5回に1回入れば勝ち」だった遊びが、いまは世界から千人を集める競技になりました。同じ道具の上で、遊び方のほうが大きく変わったことになります。
競技のけん玉には細かい決まりがある

協会を作ったのは南極の犬を書いた作家
日本けん玉協会は1975年5月5日に生まれました。初代会長は童話作家の藤原一生で、南極に残されたカラフト犬を描いた『タロ・ジロは生きていた』の作者としても知られています。
協会は統一ルールや級・段位の認定を整え、伝承遊びだったけん玉に競技としての顔を加えました。2002年にNPO法人となり、2014年3月には公益社団法人になっています。
認定用のけん玉は色を塗れない
級や段位の審査では、協会が認証したけん玉を使うことが決まりです。協会の認定規格に合わせた競技用けん玉の玉は、直径およそ60ミリあります。
白木のまま売られている競技用けん玉の中には、着色すると競技会や級・段位の認定会に使えなくなると注意書きを添えたものもあります。好きな色に塗るか、試験に使うか。買う前に選ぶ必要があるわけです。
段位ごとに決まった「もしかめ」の回数
「もしかめ」は、童謡『うさぎとかめ』の歌い出し「もしもしかめよ」に合わせて、大皿と中皿のあいだで玉を往復させ続ける技です。協会の段位認定試験の申込書には、段ごとに必要な回数が並んでいます。
| 段位 | もしかめの回数 |
|---|---|
| 準初段 | 100回 |
| 初段 | 200回 |
| 二段 | 300回 |
| 三段 | 500回 |
| 四段 | 1,000回 |
| 五段 | 1,200回 |
1分間に135回以上の速さが条件
回数だけでなく速さにも決まりがあります。協会の規程では、途中で止めたり玉を落としたりせずに続け、しかも1分間に135回以上の速さで行うことが条件です。四段の1,000回なら、休まず7分半ほど続けてようやく届く計算になります。童謡から取ったのどかな名前の技が、段位表ではいちばん体力のいる種目になっているのです。
けん玉を日本の伝統の玩具だと思っている人は多いはずです。三つの皿を持つあの形は、確かに大正の日本で生まれました。ただその原形は海の向こうにもあり、江戸の酒席を通って明治には西洋の遊びとしてもう一度紹介されています。どこで生まれたとも言い切れないまま、皿だけが日本で三つに増えた。それが、この問いへのいちばん正直な答えです。
参考
- 公益社団法人日本けん玉協会「けん玉の歴史」
- グローバルけん玉ネットワーク(GLOKEN)「けん玉の歴史 その1」
- けん玉発祥100周年 けん玉発祥の地 はつかいち「けん玉の歴史とはつかいち」
- 日本玩具博物館「けん玉と日月ボール」
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