とんぼ返りの由来、退かないはずのトンボがどうして引き返すのか

言葉と論理の話
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「とんぼ返り」は、もともと体を一回転させる宙返りのことでした。出張先から日帰りで戻ってくるという今の使い方は、そこから枝分かれした二番目の意味です。

名前のとおり、由来は虫のトンボにあります。ただし理由は「速く飛ぶから」ではありません。辞書が挙げているのは、勢いよく飛んでいたトンボが急に向きを変える、あの一瞬の身のひるがえしです。

その同じトンボを、戦国の武将たちは「勝ち虫」と呼びました。退かない虫だと信じられていたからです。前へしか進まないはずの虫の名が、引き返す動きの名前になっている。ここには、ちょっとした食い違いがあります。

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「とんぼ返り」がさす動きは、ひとつではない

辞書を引くと、この言葉には四つの顔があります。日常で使うのは前の二つだけですが、残りは舞台と武術の用語として今も現役です。生き残っている場所ごとに並べてみます。

意味内容生きている場所
宙返り地面をけって、空中で体を一回転させること体操・遊び
行ってすぐ引き返すある場所へ行き、用を済ませてすぐ戻ること出張・移動
刀法のひとつ相手の太刀につけ込まれたとき、飛び違って刀を返しざまに斬る剣術
舞台の演技斬られたり投げられたりした役者が宙返りをする歌舞伎

四つに共通するのは「一回転」です。回るのが体なのか、進路なのか、刀なのか。違いはそこだけだと見ると、ばらばらの語義がひとつにつながります。

語源は、トンボが急に身をひるがえす姿

由来として辞書が書いているのは、飛ぶ速さでも羽の音でもなく、方向転換の鮮やかさです。

辞書が書いている由来

「急に後ろへ身をひるがえすさま」

『精選版 日本国語大辞典』は、この語の由来を「勢いよく飛んでいたトンボが、急に後ろへ身をひるがえすさまからいう」と説明しています。注目したいのは「後ろへ」という部分です。トンボが速いから名前になったのではなく、進んでいた向きをその場でひっくり返すから名前になった、という理屈になります。

図書館も調べていた素朴な疑問

「トンボに本当にそんな習性があるのか」という問い合わせが、実際に図書館へ寄せられた記録が残っています。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに載っている事例で、司書は百科事典・国語辞典・トンボの専門書を突き合わせて回答しました。回答はこうです。トンボは四枚の翅(はね)を持ち飛行能力が高く、空中で体を反転させることもできる。

語源としては通っている、というお墨付きが出たわけです。この「四枚の翅」が後半で効いてきます。

そもそも「トンボ」という名前はどこから来たのか

よく聞く「飛ぶ棒」説と、その弱点

いちばん広まっているのは「飛ぶ棒」説です。「トン」が飛ぶで、「ボウ」が棒。それが縮まってトンボになった、という筋書きになります。細長い体が飛んでいく姿には、たしかによく合う説明でしょう。

ただし語源辞典はここに待ったをかけます。「棒」は中国から来た漢語で、「飛ぶ」は日本古来の和語です。この二つが古い時代に一語として結びつくのは考えにくい、という指摘です。

「羽」説と「飛ぶ穂」説

そこで、「ボウ」は棒ではなく和語の「ハ(羽)」が変化したもの、という説が対案として出されています。ほかに、稲穂が飛んでいるように見えるので「飛ぶ穂(とぶほ)」が訛(なま)った、という説もあります。決着はついていません。

アキヅからトンボまで、呼び名の変遷

いちばん古い呼び名は、奈良時代の「アキヅ(秋津)」です。その後「カゲロフ」などが現れ、古くは「トンバウ」、平安末期には「トウバウ」「トバウ」といった形が見えます。今の「トンボ」が定着するのは江戸時代からです。

千年以上かけて音がすり減っていった、と言い換えてもいいかもしれません。そして最初の呼び名「アキヅ」のほうは、虫の名を離れて別の場所に残りました。それは後で触れます。

先に生まれたのは「宙返り」のほう

今の会話で「とんぼ返り」といえば、まず日帰り出張が浮かびます。けれど言葉の履歴をたどると、体を回すほうが先で、移動の意味は後から派生したものです。

歌舞伎の「とんぼを返る」

斬られる側がやる、主役を引き立てる技

歌舞伎で「とんぼ」といえば、立廻り(たちまわり)の最中に主役から斬られたり投げ飛ばされたりしたときにする宙返りを指します。これを「とんぼを返る」と言います。

回るのは主役ではありません。捕り手(とりて)役がやる技で、あくまで主役を引き立てるための演技です。『南総里見八犬伝』では、花四天(はなよてん)と呼ばれる捕り手が次々ととんぼを返る場面が知られています。

屋根から落ちるときは別の名前になる

同じ宙返りでも、屋根や土止めの上から回って着地する場合は「返り落ち(かえりおち)」と呼び分けます。単に一回転すればとんぼ、というわけではなく、高さのある場所からの落下は別技として扱われているわけです。バク転や側転までひとまとめに「とんぼ」に含めて説明されることもあります。

剣術にもあった「蜻蛉返り」

飛び違いざまに斬り返す刀法

あまり知られていないのが剣術の語義です。相手の太刀につけ込まれたときに、飛び違って刀を返しざまに斬る——そういう技を「蜻蛉返り」と呼びました。押し込まれた瞬間に体をさばき、そのまま逆襲へ転じる動きです。

ここでも回っているのは体ではなく、攻守の向きです。守勢から攻勢へ、一拍で裏返す。トンボの方向転換の比喩としては、むしろこちらのほうが原義に近いようにも見えます。

体の一回転から、進路の一回転へ

回る対象が入れ替わった

宙返りは、進んできた勢いをその場で反転させる動きです。この「勢いをつけたまま向きだけ変える」という骨格を、人の移動に当てはめたのが二番目の語義でしょう。目的地に着いた足で、そのまま戻りの向きへ回る。体の一回転が、進路の一回転に置き換わったことになります。

「日帰り」とは重なるようでずれている

似た言葉に「日帰り」がありますが、測っているものが違います。日帰りが見ているのは所要日数で、その日のうちに帰れば内容は問いません。観光地でゆっくり過ごしても日帰りです。

一方のとんぼ返りは、滞在の短さと引き返す勢いを言い表します。夜行バスで発って翌朝の便で戻れば日数は二日にまたがりますが、感覚としてはやはりとんぼ返りでしょう。日付ではなく動きを見ている言葉なのです。

表記は「返り」であって「帰り」ではない

辞書の見出しはすべて「返」の字

「とんぼ帰り」と書かれた文章をときどき見かけます。帰ってくる意味で使うのだから自然な連想ですが、辞書に立っている見出しは「とんぼ返り」「蜻蛉返り」で、いずれも「返」です。

もとの意味が宙返り、つまり身をひるがえすことだったと知っていれば、迷わずに済みます。ひるがえるから「返る」。帰宅の「帰」が入り込む余地は、そもそも語源のほうに無かったわけです。

トンボが「勝ち虫」と呼ばれた理由

言葉の話から、虫そのものの評判へ移ります。日本人はこの虫をずいぶん高く買ってきました。

「退かない虫」という見立て

兜の前立てにも、刀の鐔にも

トンボは後退せず前にしか進まない——そう考えられたことから、戦国の武将たちはこの虫を「勝ち虫」と呼びました。退却しない縁起物として、武具の意匠に繰り返し登場します。兜の前立て・刀の鐔(つば)・陣羽織の文様といった具合です。加賀百万石の前田利家も、兜の前立てに大きなトンボを付けていたと伝えられます。

天下三名槍のひとつ「蜻蛉切」

徳川四天王の本多忠勝が愛用した槍は、その名も「蜻蛉切(とんぼぎり)」といいます。「御手杵(おてぎね)」「日本号(にほんごう)」と並ぶ天下三名槍の一本。刃の長さは一尺四寸あまり、およそ43.7センチとされる大身(おおみ)の槍でした。

号の由来には諸説ありますが、忠勝が槍を立てて休んでいたところ、穂先に止まったトンボが真っ二つになった——という逸話が伝わります。切れ味を語る話であると同時に、この虫が武具の名として好まれた証しでもあります。

同じ理由でムカデも選ばれた

「前進あるのみ」で武将に好まれた虫は、トンボだけではありません。ムカデも同じ理屈で縁起物とされ、伊達成実(だてしげざね)の兜に用いられたと伝えられます。見た目の好き嫌いよりも、退かないという一点が優先されたわけです。

神話までさかのぼる「あきつ」

神武天皇が国土をトンボに見立てた話

『日本書紀』には、山頂から国土を見渡した神武天皇が「あきつの臀呫(となめ)の如くあるかな」と述べた、という記述があります。トンボが尾をつないで飛ぶ姿のようだ、という意味です。ここから日本の異名「秋津島(あきつしま)」が生まれたとされます。

※ 秋津(あきつ)とは、トンボを指す古い呼び名です。「秋津島」は本州、あるいは日本全体をさす古称として使われました。

雄略天皇の腕を守ったトンボ

『古事記』のほうには、別の逸話が載っています。雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が吉野で狩りをしていたとき、腕に食いついたアブをトンボがさらって飛び去った。天皇はこれに感じ入り、倭(やまと)の国を蜻蛉島(あきづしま)と名づけたと伝えられます。

虫が天皇の敵を討った、という筋書きになっています。「勝ち虫」という呼び名の遠い源として、この逸話が持ち出されることも少なくありません。

じつは地名が先だった、という説

もっとも、神話をそのまま語源とみなさない立場もあります。神話学者の松前健は、地名のほうが先だと見ました。吉野郡の蜻蛉の宮、『万葉集』に見える秋津の野。そうした土地の名が元になったという説で、虫から国名が生まれたのではなく、土地の名が虫の伝説を呼び寄せたことになります。

ところが、トンボは後ろにも飛べる

ここで冒頭の食い違いに戻ります。「退かない虫」という見立ては、生き物としてのトンボの姿とはかみ合いません。

四枚の翅を別々に動かせる

後退もホバリングも観察されている

多くの昆虫は前後の翅を連動させて羽ばたきますが、トンボは四枚をそれぞれ独立した筋肉で動かせます。この構造のおかげで、後ろ向きのまま飛び立つことも、空中にぴたりと静止するホバリングも可能なわけです。沖縄では、リュウキュウルリモントンボが後退しながら飛ぶ様子が撮影されました。動物写真家の湊和雄さんが、その飛び方を解説しています。

ターンのときも同じです。四枚を別々に使い分けて、なめらかに向きを変えていきます。武将が信じた「後退できない」は、観察の結果ではなく願いのほうだったのでしょう。

速さの数字は、意外に控えめ

飛行速度についても、よく引かれる数字と実測値には開きがあります。1917年のティラードによる古い記録には時速90キロ前後という値がありますが、後年の実測はもっと穏やかです。1989年のリュッペルの計測では、ヤンマの仲間で毎秒10メートル、時速にしておよそ36キロでした。

時速36キロは、自転車で全力を出したときを少し上回るくらいの速さです。昆虫としては十分に速い部類ですが、「弾丸のよう」と言うほどではありません。トンボの強みは最高速度ではなく、止まる・下がる・曲がるを自在に切り替えられることのほうにあります。

「退かない」より「逃さない」

狩りの成功率は九割前後

それでもこの虫が強者であることに変わりはありません。空中で獲物を捕らえる成功率は、野外の観察で九割前後と報告されています。条件によって幅はありますが、大型の肉食獣の狩りは五割に届かないことが多いとされます。それを思えば、けた違いの数字でしょう。

つまり「勝ち虫」という評価そのものは的中していました。当たっていなかったのは、その理由づけのほうだったわけです。

ミサイルと同じ狙い方をする

高い命中率を支えているのは、獲物を追いかける飛び方ではありません。トンボは相手の未来の位置を読み、そこへ先回りする軌道を取ります。これは比例航法と呼ばれる誘導方式。現代の誘導ミサイルにも使われている原理と同じものだと説明されています。

※ 比例航法とは、追いかける相手を直接追わず、相手との角度が変わらないように進んで自然に交差点へ到達する誘導のしかたです。

言い伝えと実際を並べると、ずれの形がはっきりします。

武将が信じたこと観察されている姿
後退できない後ろ向きに飛び立てる。空中静止もできる
まっすぐ突き進む四枚の翅を使い分け、鋭く向きを変える
とにかく速い実測は時速30キロ台。速さより小回りが持ち味
だから強い(勝ち虫)結論は当たり。狩りの成功率は九割前後

もうひとつの「トンボ」と、もうひとつの読み

この虫の名は、まったく別の場所にも住みついていました。

印刷の「トンボ」も、あの虫から

十字のマークが虫に似ていた

チラシや本のデータを作ると、紙の外側に細い十字や角の記号が並びます。印刷の現場では、これを「トンボ」と呼びました。名の由来は、用紙の天地左右の中央に置く十字型のマーク——センタートンボの形が、翅を広げた虫のトンボに似ていたからだとされています。

この十字は飾りではなく、色ごとの版がぴたりと重なっているかを確かめる目印です。四色の刷り位置がずれれば、十字も重ならずに崩れて見えます。

角の二重線が意味するもの

四隅にある角トンボは、内側と外側の二本が一組という形です。この間隔は通常3ミリで、断裁が多少ずれても白いふちが出ないよう、絵柄を仕上がりより外まで伸ばしておく幅を示します。日本ではこの記号を虫の名で呼びますが、英語では trim mark、つまり「切り取りの印」と呼ばれます。同じ十字が、片方では生き物に、片方では作業の指示に見立てられたわけです。

「蜻蛉」はカゲロウとも読む

同じ漢字が別の虫をさす

「蜻蛉」という表記には、とんぼ・かげろう・あきつ・せいれいなど複数の読みがあります。やっかいなのは、トンボ目とカゲロウ目がまったく別の虫だという点です。同じ二文字が、状況によってどちらもさします。

古典で出てきたら、たいていカゲロウ

『源氏物語』五十四帖の巻名にある「蜻蛉」は「かげろう」と読みます。藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の『蜻蛉日記』も同じ読みです。はかなさの象徴として使われる文脈なら、まず勝ち虫のほうではありません。現代の昆虫名として出てくればトンボ、古典なら概ねカゲロウ、と覚えておくとつまずきにくくなります。

ひとつの虫に、二つの呼び名が残りました。「勝ち虫」は、退かないでほしいという願いを人が虫に着せた名前です。「とんぼ返り」は、身をひるがえす一瞬を見た人が、そのまま写し取った名前でした。

そして四枚の翅は今日も、後ろへ下がっては空中で止まり、鋭く向きを変えています。縁起をかつがなかったほうの言葉が、結果として虫の実像に近いところに立っていた。日帰りの新幹線でうとうとしながら、私たちはその言葉を使っているわけです。

参考

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