江戸時代の百科事典を開いても、「ゴキブリ」という虫は載っていません。そこに書かれているのは「御器噛(ごきかぶり)」。いまの呼び名より、一文字だけ長い名前です。
この「カ」は、どこへ消えたのか。手がかりは、明治17年に出た一冊の用語辞典に残っています。
この虫は、千年のあいだに少なくとも五つの名前で呼ばれてきた

まず、名前が何回入れ替わったかを数えてみます。平安時代から数えて、記録に残っているだけで五つ以上。しかも、その多くは互いに似ていません。
| 時代 | 呼び名 | 出どころ・意味 |
|---|---|---|
| 平安(10世紀ごろ) | 阿久多牟之(あくたむし)/都乃牟之(つのむし) | 薬物辞典『本草和名(ほんぞうわみょう)』に見える古名 |
| 平安末期 | アキムシ | 辞書『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』に見える |
| 江戸(1712年) | 御器噛(ごきかぶり)/油虫(あぶらむし) | 『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』に両方が併記される |
| 明治(1884年) | ゴキブリ | 『生物学語彙』のルビとして登場。「カ」が抜けた形 |
| 明治(1898〜1906年) | ゴキブリ(総称として確定) | 学者たちが標準和名として採用し、総称に格上げ |
五つのうち、四つまでが江戸時代までに使われていた名前です。「ゴキブリ」はいちばん新しく、しかも、いちばん短い期間で広まりました。
「御器」は食器のこと——ただし「かじる」か「かぶる」かで説が割れる

御器噛の「御器」は、蓋のついた椀を指す言葉です。つまり食器をかじる虫、というのが名前の意味になります。ところが、動詞のほうの解釈がひとつに定まっていません。
食器をかじる虫、という読み方
「噛」の字が示すもの
「御器噛」と書けば、字面のとおり「御器を噛(か)む虫」です。食べ残しのついた椀を夜のうちにかじる姿が、そのまま名前になったという読み方になります。
実際、この虫が口にするものはかなり幅広いようです。紙や布のほか、ゴムやプラスチック製品まで食害することが知られています。木の椀に残った汁の跡が狙われても、不思議ではありません。
「御器被り」という別の表記
もうひとつ、「御器被り」と書く流儀もあります。こちらは椀に覆いかぶさる、椀をかぶるように取りついている、という見立てです。同じ「かぶり」でも、噛むのか、かぶさるのか。ここで意味が分かれます。
どちらが本来かを決める決定打は、いまのところ見当たりません。国語辞典や害虫の解説でも、両方の表記が並んで載っているのが普通です。
「碁器」だった、という説とその否定
1904年に出た碁石入れ説
もっと意外な説もありました。1904年(明治37年)、小竹浩は「ごき」を碁石を入れる器、つまり「碁器」だと記しています。碁笥(ごけ)の丸い形と、椀の形が近いことからの連想でしょうか。
1964年の反論
この説には、のちに昆虫学者の朝比奈正二郎(あさひなしょうじろう)が反論しています。1964年の論考で、「正しくは御器(食器)と解すべき」だと退けました。碁石入れをかじる虫より、飯椀をかじる虫のほうが、名前の由来としては筋が通ります。
語源の話には、こうした「もっともらしいが外れている候補」がしばしば混ざります。碁器説は、その一例として記録に残りました。
記録にはっきり現れるのは江戸時代
『和漢三才図会』に並んだ二つの名
1712年(正徳2年)に成立した百科事典『和漢三才図会』には、御器噛と油虫の両方が記されています。江戸のこの時期には、すでに二つの呼び名が並行していたわけです。
油虫という呼び名の理由
油虫のほうは、体表の油じみた光沢から来ています。皮膚腺から分泌された脂が体の表面へ運ばれ、あの独特のつやをつくっているのだと説明されています。見た目の印象がそのまま名前になった、わかりやすい命名です。
ちなみに俳句の世界では、「油虫」はいまも夏の季語として生きています。名前が学問の側で入れ替わっても、文芸の側には古い名が残りました。
もっと古い名は「ごみの虫」だった

御器噛より前、平安時代の文献にはまったく別の名前が載っています。「阿久多牟之(あくたむし)」と「都乃牟之(つのむし)」。漢字は音を写しただけの表記です。
平安の薬物辞典に載った名前
『本草和名』という本
出どころは『本草和名』です。918年ごろに深根輔仁(ふかねのすけひと)がまとめたとされる、日本最古級の薬物辞典にあたります。中国の薬物名に、日本での呼び名を当てていく体裁の本でした。
つまりこの虫は、千年以上前から名前を与えられていました。害虫としてというより、薬の材料として書き留められていたわけです。
「あくた」はごみのこと
「あくた」は、ごみ・塵芥を意味する古い言葉です。「塵芥(ちりあくた)」の「あくた」と同じで、いまも慣用句のなかに残っています。ごみのあるところにいる虫、という素直な名づけでした。
平安末期の辞書『伊呂波字類抄』には、さらに「アキムシ」という形も見えます。「あくたむし」が縮んだ形とも読めますが、断定はできません。
どの虫を指していたのか
おそらくヤマトゴキブリ
平安時代の古名は、いずれも現在のヤマトゴキブリを指すと考えられています。日本の在来種で、寒さに強く、屋外でも冬を越せる種類です。
いま家のなかでよく見かけるクロゴキブリやチャバネゴキブリ、ワモンゴキブリは、もともとアフリカ原産だったと推測されているものが多いとされます。平安貴族が見ていた虫と、現代の台所に出る虫は、同じ顔ではなかった可能性が高いのです。
嫌われているのは全体の1%未満
世界には4000種以上、日本にも50種余りが記録されています。ただし害虫として扱われる種は、そのうち1%にも満たないという報告があります。
残りの大多数は森や洞窟で暮らす虫で、人家には寄りつきません。名前の歴史がずっと「台所の虫」の話に見えるのは、人が出会ってきたのがごく一部の種類だけだからです。
1884年、辞典のルビから「カ」が消えた

「ゴキブリ」という形が現れるのは明治時代です。ゴキカブリが訛ったものだという説明もありますが、もっと具体的な出どころを指摘した研究者がいます。
『生物学語彙』という本
明治17年7月、集英堂から
問題の本は『生物学語彙』。岩川友太郎(いわかわともたろう)が編み、1884年(明治17年)7月に集英堂から出た生物学用語の辞典です。西洋の学術用語に日本語を対応させる、当時としては重要な仕事でした。
その53ページ、英語の「cockroach」の項に「蜚蠊(ひれん)」という漢字が置かれ、ルビとして「ゴキブリ」と振られていました。本来なら「ゴキカブリ」と入るはずの位置です。
いま誰でも確認できる
この本は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、当該ページを画面上で見ることができます。百四十年前の脱字が、そのままの形で保存されているわけです。
なぜ一文字落ちたのか
活字の制約という見方
落ちた理由ははっきりしていません。有力な見方のひとつが、活字の物理的な制約です。同書は漢字1文字あたり2文字までしかルビを振れない活字を使っており、それによって中央の文字が抜け落ちた可能性が指摘されています。
「蜚蠊」は2文字。ルビを均等に割れば、1文字につき2文字ずつで計4文字しか入りません。「ゴキカブリ」は5文字。1文字あふれる計算になります。
単に訛っただけ、という説明
一方で、ゴキカブリが口の上で自然にゴキブリへ訛ったのだ、という説明も並行して残っています。話し言葉のほうが先に縮み、辞典はそれを写しただけかもしれません。
脱字説と訛り説は、どちらか一方だけが正しいと決まったわけではありません。ここは「決着していない」と受け取っておくのが正確です。
誤りが定着した理由
指摘したのは昆虫学者
脱字説を示したのは、昆虫学者の小西正泰です。虫と人との関わりを追った研究のなかで、『生物学語彙』の一行に行き当たりました。
権威ある本だったからこそ
この本が用語の基準として参照される立場にあったことが、話をややこしくしました。標準を決めるための本に載った形が、そのまま標準として広がっていったからです。
実際、この14年後に松村松年が学名へ和名を当てたときも、使われたのは「ゴキブリ」のほうでした。訂正の機会は何度もあったはずですが、一度動き出した表記は止まりません。
「ゴキブリ」が正式な名前になるまで、印刷から22年

1884年に印刷された形が、すぐ正式名称になったわけではありません。学問の世界で「ゴキブリ」が地位を得るまでには、さらに20年あまりかかりました。
※ 標準和名とは、生物の種ごとに一つ決めておく日本語の名前のことです。学名(ラテン語の世界共通名)とは別に、日本国内で表記をそろえるために使われます。
最初は特定の一種の名前だった
1898年、松村松年
標準和名としての使用は、1898年(明治31年)に松村松年(まつむらしょうねん)がワモンゴキブリに「ゴキブリ」の名を与えたのが最初とされています。総称ではなく、一種類だけを指す名前としての採用でした。
1903年、名和靖
ところが1903年(明治36年)、名和靖(なわやすし)は同じ「ゴキブリ」をヤマトゴキブリに当てました。翌1904年に出た松村の『日本千虫図鑑』第1巻でも、ゴキブリの名でヤマトゴキブリが図説されています。同じ名前が別の種に付け替えられたことになります。
名前が二つの種のあいだで揺れていたわけで、このままでは使いものになりません。
1906年、総称に格上げされる
矢野宗幹の提案
整理をつけたのが矢野宗幹(やのむねもと)です。1906年(明治39年)、矢野は『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』の記述を根拠にひとつの結論を出しました。ゴキブリはゴキブリ属の種の総称と解すべきで、特定の一種の和名にはできない——という判断です。
油虫が退場した理由
矢野はこのとき、アリマキとの混同を避けるためにゴキブリを総称とするよう提唱しました。アリマキは植物の汁を吸う小さな虫で、こちらも「アブラムシ」と呼ばれます。同じ名前で二種類の虫を指していては、学術の記述が成り立ちません。
広く親しまれていた「油虫」が学問の場から退いたのは、この重複が理由でした。日常語としては残ったものの、正式な呼称の座は誤植から生まれた新参の名前が取っていきます。
世界の呼び名——蜚蠊、蟑螂、cucaracha

名前が入れ替わってきたのは日本だけではありません。近隣の言語をたどると、意味の取り違えや聞き間違いが、そこかしこに埋まっています。
| 言語・地域 | 呼び名 | 由来とされるもの |
|---|---|---|
| 日本(漢字表記) | 蜚蠊(ひれん) | 中国から入った漢名をそのまま使用 |
| 沖縄 | ヒーラー/フィーラー | 「蜚蠊」の音読み「ひれん」から |
| 中国(普通話) | 蟑螂(zhāngláng) | 日常語としてはこちらが優勢 |
| 香港(広東語) | 曱甴(gaat6 jaat2) | 常用漢字にない独特の字を当てる |
| スペイン語 | cucaracha | cuca(ある種の芋虫)から |
| 英語 | cockroach | cucarachaを聞き取ってcock+roachに読み替え |
漢字の「蜚蠊」と沖縄の呼び名
音読みが方言になった
漢字表記に使われるのは、漢名の「蜚蠊」。沖縄県で使われる「ヒーラー」「フィーラー」という語は、この音読み「ひれん」に由来するとされています。
沖縄には「トービラー」という呼び方もあり、一説には「唐ヒーラー」、つまり外から来たヒーラーの意味だと説明されます。宮古の「クームヤ」、奄美の「アンシト」など、島ごとに呼び名が違うのも面白いところです。
中国語では別の字を使う
当の中国では、普通話で「蟑螂(zhāngláng)」と呼ぶのが一般的です。「蜚蠊」も使われますが、日常語としては蟑螂のほうが優勢とされます。香港の広東語ではさらに違って、「曱甴」という珍しい字を当てます。
英語の cockroach は聞き間違いから
スペイン語の cucaracha
英語の cockroach は、スペイン語の cucaracha が英語化したものです。初期の記録では、1624年にジョン・スミスがバージニアについての著書のなかで「Cacarootch」と綴りました。まだ原音に近い形です。
雄鶏と魚に分解された
その後、この耳慣れない外来語が、英語話者の知っている単語に引き寄せられます。cock(雄鶏)と roach(コイ科の淡水魚)という、まるで関係のない二語に分解されてしまったのです。
知らない語を知っている語に読み替えてしまう現象を、民間語源といいます。日本の「御器噛」が「碁器」に読み替えられかけたのと、構造はよく似ています。
国内の方言もばらばら
ゴキクライムシ、ゴゼムシ
地域によっては、ゴキクライムシ(御器食らい虫)やゴゼムシといった呼び名も使われていました。前者は御器噛と同じ発想を、より直接的に言い切った形です。
アマメはフナムシでもある
南の地域で使われる「アマメ」は、フナムシを指す言葉でもあります。走る姿が似ていることから、そのまま方言として広まったとされます。名前が虫をまたいで共有されてしまう例です。
もう一歩——童謡の「黄金虫」と、幻の商品名

「黄金虫は金持ちだ」の正体をめぐる説
1922年(大正11年)に発表された野口雨情作詞・中山晋平作曲の童謡「黄金虫」に、この虫が関わっているという説があります。雨情の郷里である北茨城でゴキブリを「コガネムシ」と呼ぶ習慣があり、食べ物の豊かな家に集まる虫だから金持ちの象徴だ、という読み方です。
ただし、コガネムシそのものとする説、タマムシとする説もあります。雨情本人が正体を明言していないため、どれも決め手を欠いたままです。
「シロアリ」もゴキブリ目に入っている
名前と中身が合っていない例は、この虫の周りにもうひとつあります。シロアリです。名前にアリと入っていますが、アリの仲間ではありません。
2007年の分子系統解析によって、シロアリはゴキブリ目に含められました。つまり分類の上では、シロアリのほうがゴキブリの近い親戚にあたります。名前を信じると系統を読み違える、という点では、御器噛の一件と同じ落とし穴です。
「ゴキブラー」になりかけた商品
名前の話をもうひとつ。1973年にアース製薬が発売した粘着式の捕獲器には、当初「ゴキブラー」という商品名の案がありました。怪獣ブームの時代らしい、強そうな響きです。
ところがパッケージにしてみると恐ろしい印象になってしまい、採用は見送られました。代わりに選ばれたのが「ごきぶりホイホイ」。ホイホイ捕れる、という機能の説明がそのまま名前になっています。虫の名前が誤植で決まった国で、その虫を捕る道具の名前は語感で決まりました。
この虫の名前には、名づけ親がいません。あくたむしと呼んだ人も、御器噛と書いた人も、名前を決めたつもりはなかったはずです。いつのまにかそう呼ばれていた、というだけのことでした。極めつけが明治の「ゴキブリ」で、これに至っては提案者すら存在せず、活字の隙間から落ちた一文字が百四十年ぶんの通用力を持ってしまいました。正しい名前とは、正しく作られた名前のことではなく、たくさんの人が使い続けた名前のことなのでしょう。
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