暖簾(のれん)は、もとは禅寺で冬の隙間風を防ぐために、簾(すだれ)のすきまをふさいで掛けた布でした。屋号を染め抜いて店先に掛けるのは、桃山時代から江戸時代にかけて広まった新しい使い方です。暖簾分けで分けられるのも布ではなく、屋号を名乗る許しと店の信用のほう。その「目に見えない値打ち」は、いまも決算書の「のれん」に名前を残しています。
暖簾は禅寺の冬の防寒具だった

簾のすきまをふさいだ冬の布
「暖」の字は、あたためるという意味そのままです。『精選版 日本国語大辞典』も『デジタル大辞泉』も、語源として禅家(ぜんけ)の布の帳(とばり)を挙げています。冬の寒さや風を防ぐために、簾のすきまを覆って垂らしたもの。名前に、冬の道具だった出自がそっくり残っているわけです。
夏の涼簾と入れ替える道具
『改訂新版 世界大百科事典』の説明では、禅堂の入口には夏に涼簾(りょうれん)を掛けました。冬に掛けたのは、簾とともに寒さを防ぐ帷(かたびら)です。夏は風を通し、冬はすきまをふさぐ。暖簾はその冬側の担当でした。日よけを兼ねる店先の暖簾とは、目的がほとんど逆さまです。
「のれん」は唐宋音の読み
「のれん」という音は、訓読みからは出てきません。『精選版 日本国語大辞典』によれば「のん」は「暖」の唐宋音(とうそうおん)で、「のんれん」「のうれん」が縮まって「のれん」になったとされます。禅宗とともに渡ってきた言葉が、音のまま日本に居着いた例のひとつです。
※ 唐宋音(とうそうおん)とは、鎌倉時代以降に禅僧や商人が中国から伝えた漢字の読み方のことです。「行脚(あんぎゃ)」「椅子(いす)」「布団(ふとん)」なども同じ系統の読みとされます。
禅宗より前の垂れ布は何と呼ばれていた?

絵巻に描かれた出入口の布
布そのものは、禅宗の渡来を待っていたわけではありません。『ブリタニカ国際大百科事典』は、平安時代から鎌倉時代の絵巻物に、家の出入口に下げた布が描かれていると指摘しています。世界大百科事典も、店先の外暖簾は平安時代の末ごろからあったとされ、中世の絵巻の町家にも見られると書いています。
ただし、その頃の呼び名は暖簾ではありません。両事典とも、古い時代のこの布を幌(とばり)と呼んでいます。物が先にあり、あとから禅寺経由の名前がかぶさった形。絵巻の布を指して「これが最初の暖簾」と言うのは、少しだけ気が早いことになります。
「暖簾」の名は室町時代から
世界大百科事典によれば、呼び名が暖簾に変わったのは室町時代から。当時の発音はノウレンやナンレンでした。『精選版 日本国語大辞典』が引く『壒嚢鈔(あいのうしょう)』(1445〜46年)には「暖簾(ノウレン)」の表記があります。掛かっている布は同じでも、呼び方が入れ替わるまでに数百年かかった計算です。
店の看板になったのはいつから?

屋号が入りはじめたのは桃山時代
ブリタニカは、桃山時代ごろから暖簾に屋号を書くようになったとしています。世界大百科事典によれば、この時代には自由で面白い図柄の暖簾も作られました。寒さよけの道具が、人に見せるための布へと役目を変えはじめた時期です。
屋号や商標を染め抜いて看板や広告に使うのが定着したのは江戸初期ごろ。世界大百科事典は、元禄・宝永(1688〜1711年)のころに広く普及したとしています。
喜多院の職人尽絵に残る暖簾
江戸初期の暖簾の姿は、埼玉県川越市の喜多院に伝わる『紙本著色職人尽絵(しほんちゃくしょくしょくにんづくしえ)』で見られます。ブリタニカが挙げるのはそのうちの畳師の絵。川越市の説明では、筆者は寛永17年(1640年)に89歳で没した狩野派の画家・狩野吉信(かのう よしのぶ)です。仏師・傘師・扇師など25種の職人が描かれ、近世初頭の京都の職人の暮らしを表したものと考えられています。
江戸の暖簾は丈と掛け方で呼び名が変わる

長暖簾・半暖簾・水引暖簾・横暖簾
基本の作りは、布を縦に何枚か縫い継いだものです。世界大百科事典は、丈や張り方の違う種類をいくつか挙げています。通りから店の中がどれだけ見えるかは、どれを掛けるかでまるきり変わりました。
| 呼び名 | どんな形か |
|---|---|
| 長暖簾 | 縦に縫い継いだ布で、戸口の上から下近くまで届く丈のもの |
| 半暖簾 | 同じ作りで、丈を半分ほどにしたもの |
| 水引暖簾 | 横長の布を使い、軒先の上部に細く張るもの |
| 横暖簾 | 店の間口いっぱいに、幕を張ったように掛けるもの |
江戸の風俗を記した『守貞漫稿(もりさだまんこう)』によれば、上に掛ける短いものが暖簾です。下まで垂らす長いものは、京坂で長暖簾、江戸では日除けと呼ばれました。同じ布でも、東西で呼び分けが違っていたのです。
木綿や麻を乳と棹で掛ける
暖簾の上部には乳(ち)と呼ばれる輪をつけ、そこに棹(さお)や綱を通して掛けました。素材は木綿と麻が主で、色は白・紺・浅葱(あさぎ)・茶など。飲食店でおなじみの縄暖簾は、世界大百科事典によれば江戸時代の半ば過ぎに始まったとされ、下級武士を相手にした仕出し屋が起こりといわれます。
寝室や納戸に掛けた内暖簾
店先の外暖簾とは別に、家の内側に掛ける内暖簾(うちのれん)もありました。部屋暖簾とも呼ばれ、寝室や納戸の入口に掛けるものです。絹地に友禅染などの華やかな模様をほどこしたものが多かったとされます。
世界大百科事典はこの布を、古代の帳台(ちょうだい)に掛けた帳(ちょう)のなごりだとし、貴族住宅の系統を引くものと説明しています。秋田や北陸の金沢では、いまも嫁入りや婚礼の習わしとして残っているそうです。外は人に見せるため、内は人の目を遮るため。ひとつの名前の下に、出自も狙いも違う布が同居しています。
暖簾分けは誰がもらえた?

13歳の見習いから始まる奉公
暖簾分けの中身がよく分かるのが、越後屋を営んだ三井家の奉公人制度です。公益財団法人三井文庫の解説によれば、奉公は13歳の「子供」としての見習いから始まります。17歳で元服して平手代(ひらてだい)となり、平手代の中にも4段階ほどの職階がありました。そこで約10年勤めると、役職を持つ役付手代(やくつきてだい)に上がります。
39歳でようやく別家に
役付手代としてさらに約10年、4階級ほどを上がったところで、39歳で暖簾分けを認められて別家(べっけ)となります。13歳から数えて26年。三井文庫の記述を年齢で並べると、奉公人の道のりはこうなります。
| 年齢 | その時に起きること |
|---|---|
| 13歳 | 子供として見習い奉公に入る |
| 17歳 | 元服して平手代になる(4段階ほどの職階を約10年) |
| 20代後半 | 役付手代になり、約10年で4階級ほど上がる |
| 39歳 | 暖簾分けを認められて別家となる |
| 60歳ごろ | 最高職階の元〆(もとじめ)に届く者が、ごくわずかに出る |
三井文庫は、元〆まで残っている手代は極めて少なかったとしています。
別家で初めて家と結婚が許された
暖簾分けは、単なる昇進ではありませんでした。三井文庫は、別家となってここで初めて居宅と店を持つことと結婚を許される、と書いています。裏返せば、それまでは住み込みで自分の家を持てなかったということです。
住み込みの暮らしは楽ではなく、京都の本店では休日が年に10日ほど、食事は原則一汁一菜だったといいます。暖簾を預けるにはそれだけの年季が要る、と考えられていたのでしょう。
暖簾分けで渡されたのは屋号を名乗る許し

「のれんが古い」は老舗のこと
看板として定着すると、暖簾という言葉は店そのものを指すようになります。世界大百科事典によれば、のれんが古いという言い方は老舗を意味しました。布が古びているという話ではなく、同じ屋号の布が同じ場所に長く掛かり続けてきたということ。屋号入りの布を他人が掛けることに、重い意味が生まれたのも自然な成り行きでした。
越後屋の屋号と暖簾を使う許し
三井文庫の説明は明快です。住み込みを終えた一定ランク以上の奉公人には越後屋の屋号と暖簾の使用が許され、別家と呼ばれた、とあります。渡されるのは布の一枚ではなく、その布に染め抜かれた名前を名乗る権利でした。
同じ屋号を掲げれば、客は新しい店にも本家と同じ信用を見ます。世界大百科事典も暖簾分けを、長く勤めた奉公人に主家の屋号や営業権の一部を譲ることと説明しています。独立開業というより「信用の株分け」に近い響きがあるのはこのためです。
ランクで違った商標と使える場所
その許しは一律ではありません。三井文庫は、奉公人のランクに応じて商標の種類や使ってよい場所に細かな違いがあったとしています。同じ「暖簾を分けてもらった人」でも、名乗れる範囲には差がついていました。信用は丸ごと渡されたというより、量を測って貸し出されたと言うほうが近いかもしれません。
別家はどれくらい狭き門だった?

天保初期で別家は百軒弱
三井文庫によれば、天保初期(1830年ごろ)の別家は百軒弱でした。江戸・京都・大坂に店を構えた当時最大級の商家で、何十年もかけて積み上がった数がこの規模です。一年に生まれる数ではなく、その時点での総数。気前のいい旦那が番頭をぽんと独立させる、という軽やかな印象とは違い、生涯に一度あるかないかの出来事でした。
勤続20年以上が入る相続講
暖簾を分けて終わり、ではありません。三井文庫は、勤続20年以上の別家が加わる相続講(そうぞくこう)という互助の組織があったと伝えています。三井の出資金と参加者の積立金を三井の店で預かり、利子をつけていました。お金だけでなく、互いに相談や助言をする場でもあったそうです。
この講は、別家の経営不振を問題視した三井高房(みつい たかふさ)が作らせたとされます。暖簾を分けた先がつまずけば、本家の屋号にも傷がつく。輪を広げたぶん、支える仕組みも要ったのです。
明治の小説にも「のれんをもらう」
この慣行は明治に入っても言葉として生きていました。『精選版 日本国語大辞典』は、仮名垣魯文(かながき ろぶん)の『安愚楽鍋(あぐらなべ)』(1871〜72年)から「旦那からのれんをもらって出店をひらく」という一文を引いています。布をもらうのではなく、のれんをもらう。文明開化期の牛鍋屋の雑談に混じるほど、ありふれた言い方だったわけです。
のれんはなぜ会計の言葉になった?

営業に固有な事実関係という値打ち
屋号と信用を指すようになった「のれん」は、やがて帳簿にも載ります。世界大百科事典は、法律や会計でいう暖簾を「営業に固有な事実関係」と呼んでいます。法律上の権利ではないものの、お金に換えられる値打ちがあるもの。具体的には次のようなものが挙げられています。
- 営業上の秘訣・販路・得意先
- 創業の年代・名声
- 地理的な関係(店の立地など)
イギリスではグッド・ウィル
同じ事典によれば、イギリスではこれをグッド・ウィル(good will)と呼び、18世紀中葉以後は判例によって法的な保護が与えられてきました。日本ではそれを老舗、または営業権とも呼んだとされます。離れた土地の商習慣が、それぞれの言葉で同じものを指していたわけです。
買収額と資産の差額が「のれん」
現代の会計では、会社を買収したときに支払った額と、受け入れた資産や引き受けた負債に割り振った額との差が「のれん」になります。土地や設備の値段を足し上げた金額より高く買うのは、そこに名声や得意先があるから。その上乗せ分に、江戸の商家の言葉がそのまま当てられています。
※ のれん(会計)とは、企業を買収した際の取得原価が、受け入れた資産と引き受けた負債に配分された純額を上回る部分のことです。下回る場合は「負ののれん」と呼ばれます。
日本基準は償却、国際基準は償却しない

20年以内に少しずつ費用にする
日本でののれんの扱いは、企業会計基準第21号「企業結合に関する会計基準」が定めています。のれんは資産に計上し、20年以内のその効果の及ぶ期間にわたって、定額法その他の合理的な方法で規則的に償却する。金額が小さければ、その年の費用として一度に処理してもよいとされています。買った信用は、毎年少しずつ帳簿から減っていく決まりです。
「5年以内」は旧商法の規定
事典類には、のれんは5年以内に償却しなければならない、と書かれているものがあります。世界大百科事典の記述がそれで、根拠は商法285条の7です。これは会社法と会計基準に移る前、旧商法の時代の説明。いまの規定とは年数が違います。制度の話は辞典より、基準そのものに当たったほうが確実です。
IFRSは償却せず毎年の減損テスト
国際財務報告基準(IFRS)では、のれんを償却しません。RSM清和監査法人の解説によれば、代わりに年1回以上の定期的な減損テストを行い、兆候があればそのつども調べる仕組みです。日本基準が減損の兆候のあるときにだけ判定するのとは対照的で、こちらは毎年の定期健診にあたります。
毎年削る日本基準では、のれんは時間とともに静かに減っていきます。削らない国際基準では、価値が保たれている限り残り続け、危うくなった年にまとめて落ちる。買収した会社が思ったほど稼がなかったとき、決算に現れる姿がまるきり違ってくるのです。
※ 減損とは、資産の値打ちが帳簿の金額を下回ったときに、その差を損失として帳簿の金額を引き下げることです。
「暖簾に腕押し」の腕押しとは?

腕押しは腕相撲のこと
『ことわざを知る辞典』は、この「腕押し」を腕相撲のことだと説明しています。相手が布なのですから、いくら力を込めても組み合いになりません。用例として『精選版 日本国語大辞典』が挙げるのは、森鷗外の『鶏』(1909年)の「暖簾(ノレン)に腕押しをしたやうな不愉快な感じをしたであらう」という一文。百年以上前の小説に、今とまったく同じ使い方で出てくるのです。
糠に釘・豆腐にかすがいとの違い
手ごたえのなさを言うことわざは、糠に釘、豆腐にかすがいなど他にもあります。どれも力を込めても徒労に終わる点は同じですが、『ことわざを知る辞典』はニュアンスが微妙に違うと述べています。暖簾の場合は、相手のほうが一枚上手で、うまくあしらわれている感じが残るというのです。
糠や豆腐は、ただ受け止める力がないだけの物。暖簾は押せばふわりと逃げ、手を離せばもとの位置に戻ってきます。釘の打てない糠には徒労感があり、暖簾にはどこか笑いが混じる。
のれんに傷がつく、のれんを下ろす
信用を表す言い回しも健在です。世界大百科事典は、のれんに傷がつくを店の信用が損なわれることと説明し、『デジタル大辞泉』も暖簾の意味のひとつに店の信用・格式を挙げています。傷つくのは布ではなく、その布が背負ってきた評判のほう。商売をやめることは、のれんを下ろすと言います。毎朝掛けて毎晩しまう布だからこそ、最後にしまう動作が廃業のたとえになりました。店が開いているかを一目で伝える道具だった名残です。
禅寺の寒さよけから店の看板へ。屋号を使う許しを経て、決算書の勘定科目へ。同じ一語がこれだけ渡り歩けたのは、暖簾がはじめから「そこに何があるか」を外に示す布だったからでしょう。布そのものの値打ちは、木綿何尺ぶんでしかありません。値が動くのは、その布が同じ場所に何年掛かっていたかのほうです。
参考
- コトバンク「暖簾」・「暖簾に腕押し」
- 三井文庫「奉公人1 昇進と報酬」・「奉公人2 生活と管理」
- 企業会計基準委員会 企業会計基準第21号「企業結合に関する会計基準」
- RSM清和監査法人「のれんの償却に係る方向性」
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