スーツの一番下のボタンを留めないのは、今のジャケットが「下を開けた状態でいちばんきれいに見える」ように裁断されているからです。留めると腰まわりが引っぱられ、横ジワが寄ります。この習慣を広めたのは、太って留められなくなった英国王エドワード7世だとよく語られます。ただ当時の写真や記録をたどると、王様が「始めた」とまでは言い切れないようです。
一番下を留めるとどうなる?

腰まわりに横ジワが寄る
シングルのジャケットを一番下まで留めると、おなかから腰にかけての布が引っぱられます。前身頃(まえみごろ)に横ジワが走り、すっきりしたシルエットがそこで崩れてしまうのです。体にぴったり合わせた一着ほど、この窮屈さははっきり出ます。
今のスーツは開ける前提で裁断されている
紳士服店のはるやまは、現代のスーツは一番下を開けた状態がもっとも美しく見えるよう設計されている、と説明しています。裾に向かって前が自然に開くカットになっているため、下のボタンは留める役目をほとんど持っていません。外していてもだらしなくはなく、むしろ仕立てどおりの着方というわけです。
ボタンの数で留める場所が変わる

「一番下は外す」は共通でも、どこを留めるかはボタンの数で違います。シングルのジャケットについて、はるやまの解説をもとに並べると次のとおりです。
| ジャケット | 留めるボタン |
|---|---|
| 1つボタン | その1つを留める |
| 2つボタン | 上だけ |
| 3つボタン | 真ん中だけ、または上と真ん中 |
| 段返り3つボタン | 真ん中だけ |
2つボタンは上だけ留める
いちばん多い2つボタンのスーツでは、上の1つだけを留めます。下は飾りとして開けておくのが基本です。1つボタンのジャケットは例外で、外すボタンがないぶんその1つを留めて着るのが決まりです。
3つボタンは真ん中が主役
等間隔に3つ並ぶジャケットは、真ん中だけを留めるか、上と真ん中を留めます。英語圏で知られているのが、上から順に「ときどき・いつも・けっして(sometimes, always, never)」と覚える言い方。上は好みで留め、真ん中は必ず留め、下は留めない。そんな意味の語呂です。
段返り3つボタンは真ん中だけ
3つボタンのなかでも「段返り」と呼ばれる仕立ては、一番上のボタンが襟の折り返しに隠れています。この上のボタンも飾りなので、留めるのは真ん中の1つだけです。見た目は2つボタンに近く、上を留めると襟の返りがつぶれてしまいます。
※ 段返り(だんがえり)3つボタンとは、一番上のボタンが襟の折り返し(ラペル)の裏側に来るように仕立てたジャケットのことです。
ダブルのスーツも一番下は外す?

ダブルは留めて着るのが基本
ボタンが2列に並ぶダブルのスーツは、前を深く重ねる作りです。前を開けると布が大きく垂れて形が崩れるので、立っているときは留めて着るのが基本とされます。ただ「全部のボタンを留める」わけではありません。2列のうち片側のボタンは、そもそも飾りとして付いています。
6つボタンと4つボタンで留め方が違う
はるやまの解説では、6つボタンのダブルは着る人から見て左側の列のうち、真ん中だけか真ん中と下を留めます。4つボタンなら、同じ列の上の1つだけです。ダブルでは下を留める着方もあるので、「一番下は外す」はシングルのための決まりと考えると混乱しません。
王様が太って留められなかったという逸話

主役は英国王エドワード7世
由来としてもっともよく語られるのが、英国王エドワード7世(1841〜1910年)の話です。母ヴィクトリア女王の在位が長かったため、王になったのは59歳の1901年でした。それまでの長い皇太子時代、彼は社交界の中心にいて、着こなしは紳士たちのお手本になっていました。
まわりが真似をして広まったという筋書き
彼は年とともに恰幅がよくなり、一番下のボタンが留められなくなった、と伝えられます。米国の雑学サイトMental Flossは、彼の胴回りは48インチ(約122センチ)あったと書いています。お手本が外しているのを見た人々がそれを真似し、体形に関係なく広まった、というのが逸話の筋書きです。
もとはベストのボタンの話
英語圏の資料をたどると、この逸話はジャケットではなくベスト(ウエストコート)のボタンについて語られています。日本ではジャケットの作法の由来として紹介されることが多いものの、話の出どころはベストのほうです。ジャケットの「下は外す」は、今のジャケットの裁断と結びついて定着したと考えると筋が通ります。
王様が始めたというのは本当?

全部留めた写真のほうが多い
紳士服の解説サイトGentleman’s Gazetteは、エドワード7世がベストの下を外している写真は見つけるのがとても難しいと指摘しています。むしろ一番下まで留めた写真のほうがたくさん残っているそうです。一日に6回も着替えたといわれるほど服に気を配った人なので、うっかり留め忘れたという説にも首をかしげています。
1908年の業界誌が書き留めていた
一方で、王がベストのボタンを外していたこと自体は記録に残っています。同じ記事によると、1908年に仕立て業界の専門誌『テーラー・アンド・カッター』が、王の留められていないボタンに触れていました。外していた時期があったのは確からしく、それが流行の後押しになった可能性は十分にあるでしょう。
「始めた」より「広めた」に近い
Gentleman’s Gazetteは、1870〜80年代の人物写真にも下を外したベストが写っている例を挙げ、王より前からこの着方はあったとみています。英語版ウィキペディアのウエストコートの項目でも、王を起源とする説明ははっきり誤りとされています。王は作法の生みの親というより、すでにあった着方を有名にした人、と見るのが穏当です。
王様のほかに語られる三つの説

乗馬で裾がずり上がらないように
実用面からの説明が乗馬説です。馬の上で体を浮かせたとき、ベストの下まで留めていると布が突っぱって胸のほうへずり上がります。下を外しておけば動きが楽になる、というものです。男性の上着はもともと乗馬と縁が深く、Gentleman’s Gazetteもこの説を「かなりありそう」と評しています。
ベストを2枚重ねて見せた
おしゃれな男性がベストを2枚重ねて着て、下の1枚ものぞかせるために上のベストの裾を開けた、という説もあります。衣装持ちであることを見せる工夫だったというわけです。こちらは年代がはっきりせず、裏づけの薄い説として紹介されています。
イートン校の生徒の目印だった
イギリスの名門校イートンでは、19世紀末に「ポップ」と呼ばれる生徒の自治組織が、服装の細部で特別な立場を示していました。ポップの会員だけが白いベストを着られ、その一番下を外すのも特徴の一つだったといいます。それをロンドンの仕立て屋街サヴィル・ロウが取り入れた、という筋書きです。
ベストも一番下は外す

三つぞろいのベストは下を開ける
ジャケット・ベスト・ズボンをそろえた三つぞろいでは、ベストの一番下も外すのが基本です。今のベストは昔より裾が低く裁たれているため、留めると下の縁が横に引っぱられ、シワやふくらみが出ます。逸話の舞台がベストだったことを思えば、こちらがむしろ本家です。
夜の礼装やダブルのベストは全部留める
英語版ウィキペディアによれば、この決まりが当てはまるのはシングルの昼用のベストだけです。ダブルのベスト・夜の礼装用・裾がまっすぐなものは、すべて留めて着ます。黒っぽいビジネススーツやタキシードなら全部留めたほうが見栄えがよい、というのがGentleman’s Gazetteの見方です。
ベストを着たらジャケットは開けてもいい
ベストを着ているときは、ジャケットの前ボタンをすべて開けたままでも構わない、とはるやまは説明しています。前が開いてもベストが体の線を整えてくれるからです。もちろん、ジャケットの一番下を外して上を留める着方でも問題ありません。
座るときはボタンを外す

留めたまま座るとシワと型崩れのもと
シングルのスーツは、立っているときは留め、座るときは外すのが原則です。留めたまま腰かけると、おなかや腰まわりに圧がかかって前身頃に大きなシワが寄ります。生地が伸びて型崩れの原因にもなるので、座る前に外すのは見た目と服の寿命の両方を守る習慣です。
面接では着席の直前に外す
就職の面接では、部屋に入ってから椅子の横に立つまでは留めておき、腰かける直前に外すのが一般的な流れです。立ち上がったら、またさっと留め直します。この動きが自然にできると、所作に落ち着きが出て見えます。
一番下は立っても座っても外したまま
留めたり外したりするのは、上や真ん中のボタンだけです。一番下は立っていても座っていても、ずっと外したままにします。ダブルのスーツは前の重なりが深いので、座るときに留めたままでもよいとされることがあります。
女性のスーツは下まで留めていい?

全部留めてきれいに見える仕立てが多い
男性向けのアンボタンの作法は、女性のスーツには基本的に当てはまりません。はるやまによると、女性用のジャケットは全部のボタンを留めた状態で美しく見えるよう作られていることが多いそうです。体の線に沿って立体的に仕立てるので、留めたままでもシワが寄りにくくなります。
デザインによっては柔軟に
とはいえ女性のスーツはデザインの幅が広く、ボタンの位置もさまざまです。ウエストの線がきれいに見える位置で留めるなど、その一着に合わせて判断すればよいとされています。面接のようなあらたまった場では、留めて着るほうが整った印象になります。
アメリカへ広めたのは映画だった

アメリカやドイツでは全部留めていた
イギリスで定着した「下は外す」も、すぐに世界の常識になったわけではありません。Gentleman’s Gazetteによると、アメリカやドイツなどでは長いあいだベストのボタンを全部留めるのが普通でした。作法には国ごとの違いがあり、ロンドン流が世界標準だったのではないのです。
映画スターのスーツが手本になった
流れを変えたのは映画でした。サヴィル・ロウで仕立てたスーツを着た主演俳優たちが、スクリーンの上で一番下を外していたのです。観客がそれを真似したことで、イギリス流の着方が海を越えて広まったといいます。王様の宮廷から映画館へ、お手本の場所が移ったわけです。
一番下のボタンは、王様の窮屈な事情だけで生まれたものではなさそうです。乗馬の知恵・学生の目印・仕立て屋の工夫が重なったところへ、王様や映画スターという有名なお手本が加わりました。そうして今の作法に落ち着いたのです。留めずに残された小さなボタンには、百年分の流行の足あとが縫い込まれています。
参考
- はるやま「スーツのボタンマナー完全ガイド」
- Gentleman’s Gazette「Bottom Button Rules for Vest & Waistcoat」
- Wikipedia(英語版)「Waistcoat」
- Mental Floss「What’s the Origin of the “Sometimes, Always, Never” Rule?」
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