なぜ地図は「北が上」なのか—向きが決まった歴史と慣習

宝の地図のイラストと「地図の向き」の文字 歴史と変遷の話
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地図の上が北なのは、自然が決めたことではなく人が選んだ約束事です。2世紀のプトレマイオスが北を上にして世界を描き、その書物が15世紀のヨーロッパでよみがえりました。羅針盤を頼りにした航海とメルカトルの世界地図がそれを定着させ、日本も明治の近代測量で同じ形にそろいます。中世には東や南を上にした地図のほうが普通でした。

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昔の地図はどちらが上だった?

砂漠に並ぶピラミッドのイラスト

最古の地図には決まった向きがない

知られている最も古い地図の記録は、紀元前2300年ごろのメソポタミアの粘土板です。行政の実務に使われた道具で、どの方角を上にするかという決まりはありませんでした。書き手がそれぞれ描きやすい向きで刻んでいた、というのが実際のところでしょう。

古代エジプトでは南が上だったとされる

古代エジプトの地図は南を上にしていたと言われます。暮らしを支えるナイル川は南から北へ流れるので、上流は南。命の源である川の始まりを上に置いた、という説明がよく添えられます。上と下の感覚は、その土地の川の流れ方とも結びついていたわけです。

中国の地図は早くから北が上

いっぽう中国では、古くから北を上にした地図が作られていました。皇帝の玉座は南を向いて置かれ、臣下は北の皇帝を仰ぎ見ます。皇帝のいる北を上にする作法は、この宮廷の決まりを映したものとされます。ヨーロッパとは別の理由で、同じ北上にたどり着いていたのは面白いところです。

中世ヨーロッパの地図はなぜ東が上?

十字架のある教会のイラスト

楽園と聖地を上に置いた

中世ヨーロッパの世界地図は、長いあいだ東を上にしていました。キリスト教では楽園エデンが東の果てにあると考えられ、聖地エルサレムを世界の中心に置きます。尊い場所を上に据える発想で、地図にはアダムとイブや玉座のキリストといった宗教画も描き込まれました。道案内よりも、信仰の世界観を見せるための図だったのです。

ヘレフォードに残る「マッパ・ムンディ」

その代表が、イングランドのヘレフォード大聖堂に残る世界図「マッパ・ムンディ」です。作られたのは1300年ごろとみられ、子牛の皮1枚に描かれています。大きさは縦1.58メートル・横1.33メートル。直径約1.3メートルの円の中に世界が収まり、中心にはエルサレムが置かれています。

「オリエンテーション」の語源は東

英語の「orient」は、ラテン語で日の昇る方角、つまり東を指す言葉から来ています。教会を祭壇が東に来るように建てることも「orientation」と呼ばれました。いまでは向きを合わせることや新人向けの説明会まで指す言葉ですが、根っこには「東を向く」という意味が残っています。

イスラム世界の地図は南が上

金の装飾がある聖典の本のイラスト

聖地メッカの方角が関係するとされる

同じ中世でも、イスラム世界では南を上にした地図が多く作られました。初期にイスラム教が広まった地域の多くは聖地メッカより北にあり、人々は南を向いて祈りました。その方角を上にしたという説明が一般的です。中国の地図づくりに倣ったという見方もあり、理由はひとつに絞り切れていません。

イドリースィーの世界地図はヨーロッパが下半分

よく知られた例が、地理学者アル=イドリースィーが1154年にシチリア王ルッジェーロ2世のために作った世界地図です。南が上なので、アフリカやアラビアが上に来て、ヨーロッパは下半分に描かれています。いまの地図を見慣れた目には逆さまに見えますが、当時の地中海世界では最も詳しい世界図のひとつでした。

最初に北を上にしたのは誰?

古い文書のイラスト

2世紀アレクサンドリアの『地理学』

北を上にする習慣の出発点とされるのが、2世紀にエジプトのアレクサンドリアで活躍した学者プトレマイオスです。著書『地理学』には数千の地名の位置が緯度と経度で記され、それをもとに北を上にして世界を描く方法が示されていました。地図を座標で描くという考え方そのものが、この本の大きな遺産です。

千年以上忘れられ、1406年にラテン語訳

ところが『地理学』は、西ヨーロッパでは千年以上も忘れられていました。14世紀の終わりにギリシア語の写本がコンスタンティノープルからフィレンツェへ届き、1406年にラテン語へ訳されます。ここでようやく、ヨーロッパの学者がプトレマイオスの方法を手にしました。

印刷術が北上の地図を広めた

15世紀半ばに活版印刷が生まれると、『地理学』は地図つきで次々に刷られました。手で写すたびに形が崩れていた地図が、同じ姿のまま大量に出回るようになります。北を上にした世界の姿は、こうして多くの人の目に繰り返し焼き付けられていきました。

なぜ北を選んだのかは分かっていない

肝心のプトレマイオスが北を上にした理由は、記録に残っていません。当時知られていた世界は東西に長く、横長の紙に収めやすかったという説があります。よく知られた土地が北半球に集まっていたので、それを見やすい位置に置いたという説もあります。どちらも後世の推測で、決め手はありません。

羅針盤と航海が北上を決定づけた

方位磁石のイラスト

針の指す北が航海の基準になった

方位磁針はアラブの商人を通じてヨーロッパに伝わったとされ、航海の必需品になりました。針が指すのはいつも北です。船乗りが北極星や磁針で進む向きを決めるなら、地図も北を基準に描くのがいちばん扱いやすい。沿岸の航路を描いた海図は、こうした実用の理由から北を上にして作られるようになりました。

1569年のメルカトル図

決定打になったのが、ゲラルドゥス・メルカトルが1569年に発表した世界地図です。ねらいは船乗りが使える地図でした。この描き方では、羅針盤で一定の方角を保って進む航路が地図の上で一本の直線になります。北を上にした長方形の世界地図は、そのまま航海と地図の標準になっていきました。

※ メルカトル図法とは、地図の上の直線が羅針盤の方角と一致するように描く方法です。そのぶん高緯度の土地ほど大きく描かれ、グリーンランドがアフリカと同じくらいの大きさに見えてしまいます。

地図を広めたのは北半球の国々

この時代に地図を量産して世界へ広めたのは、北半球のヨーロッパの国々でした。自分たちの土地が上半分に来る構図は、作り手にとって自然に見えたはずです。北上の地図は見慣れた形として世界に行き渡り、やがて当たり前の姿になりました。

日本の地図はいつ北が上になった?

伊能忠敬の似顔絵イラスト

中世の日本図には南が上のものもある

江戸時代初期より前の日本全図は「行基図(ぎょうきず)」と総称されます。奈良時代の僧・行基の作と書き添えられていたことが名の由来です。室町時代末期の作とみられる唐招提寺の「南瞻部洲大日本国正統図(なんせんぶしゅうだいにほんこくせいとうず)」は、九州と四国を上にして描かれています。つまり南が上です。

中世の日本図で現存するのは、この図と仁和寺の図・金沢文庫の図の3点だけとされます。向きはまだ定まっておらず、都から諸国への道筋を示すことのほうが大事でした。

伊能忠敬の実測図は1821年に完成

流れが大きく変わるのは江戸時代後期です。伊能忠敬は55歳だった1800年に蝦夷地の測量を始め、1816年の第10次測量まで全国を歩きました。忠敬は1818年に亡くなりますが、弟子たちが仕事を引き継ぎます。1821年、実測による日本地図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成し、幕府に納められました。

明治2年に近代測量の役所ができた

明治に入ると、政府は1869年に近代測量を担う「民部官庶務司戸籍地図掛(みんぶかんしょむしこせきちずがかり)」を置きました。いまの国土地理院の前身です。西洋式の測量とともに北を上にした地図づくりが整えられ、日本の地図は世界の標準と足並みをそろえていきました。

地図の北と方位磁石の北はずれている

山頂で呼びかける登山者のイラスト

東京付近では7度40分ずれる

北を上にした地図でも、方位磁石の針はその北をまっすぐ指しません。地図の北と磁石の北のずれを「偏角(へんかく)」と呼びます。国土地理院によると、東京付近では磁石の北が地図の北より7度40分ほど左、つまり西へ傾きます。値は場所によって違い、全国どこでも同じというわけではありません。

地形図には偏角が書いてある

このずれは地形図に記載されていて、全国の値は国土地理院の「磁気図」で確かめられます。登山で磁石を使うときはもちろん、スマートフォンの電子コンパスや、建物の日影の計算にも使われる数字です。羅針盤が北上の地図を後押ししたのに、その針と地図の北が少しずれているのは皮肉な話かもしれません。

北が上でない地図はいまもある

世界地図のイラスト

オーストラリアの逆さ地図は1979年

メルボルン出身のスチュアート・マッカーサーは、1979年に南を上にした世界地図を出版しました。オーストラリアが上に来るこの地図は、「世界の下のほう(ダウンアンダー)」とからかわれることへの反論として作られたものです。北が上なのは慣習にすぎないと示す地図として、いまも広く知られています。

カーナビは進む方向が上

身近なところでは、カーナビやスマートフォンの地図アプリが、進む方向を上にする表示へ切り替えられます。曲がる方向がそのまま左右に見えるので、運転中にはこちらのほうが分かりやすいという人も多いはずです。地下鉄の路線図にいたっては、方角よりも見やすさを優先して描かれています。

地図の向きは、その時代に人が何を大切にしていたかを映してきました。楽園の東、祈りの南、そして航海の北。いま北が上なのは、羅針盤と印刷機を握った人々の選んだ形が、たまたま世界に広まったからです。

参考

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