端午の節句は、もともと菖蒲(しょうぶ)で厄を払う日でした。兜も武者人形も空を泳ぐ鯉も、ずっとあとから加わった飾りです。主役は軒に挿す一束の草で、香りの強さこそが行事の中心にありました。
では、なぜ五月五日なのでしょうか。「端」は「はじめ」、「午」は十二支のうまを指します。旧暦の五月が午の月にあたり、しかも中国語で「午」と「五」の音が通じていた。そこから「月のはじめの午の日」が「五が重なる五月五日」へと移っていったと説明されます。
「端午」の二文字が指しているもの

「端」は月のはじめ、「午」は十二支のうま
端午という語は、日付そのものを表す言葉ではありません。二文字とも、暦の数え方に関わる語です。
もとは「その月の最初の午の日」
『精選版 日本国語大辞典』は「端」を初めの意と説明しています。つまり端午とは、その月に最初にめぐってくる午の日のこと。日付が固定された行事ではなく、干支の巡りで決まる可動の日だったわけです。
干支で日を数える方法では、午の日はおよそ十二日に一度やってきます。月によって五日のこともあれば十一日のこともある。いまのように「五月五日」と印刷して配れる日ではありませんでした。
午の月は旧暦の五月にあたる
十二支は日だけでなく月にも割り当てられていました。旧暦の十一月が子(ね)の月で、そこから順に数えていくと五月が午の月になります。五月と午は、もともと結びついていたのです。
五日に固定されたのは音の重なりから
午の日が五日に置き換わった背景には、言葉の音と数の考え方の二つがあったとされています。
「午」と「五」は同じ音だった
中国語では「午」と「五」がどちらも「ウー」に近い音で読まれます。同じ音で呼ばれる以上、午の日と五日を重ねて考えるのは自然な連想でした。魏晋のころ、つまり三世紀以降にこの結びつきが強まったと世界大百科事典は述べています。
重五・重午・端陽という別名
奇数は陽の数とされ、同じ陽数が重なる日は特別な意味を持つと考えられました。五月五日には重五(ちょうご)、重午(ちょうご)、端陽(たんよう)といった別名があります。三月三日や九月九日が節目になっているのも同じ発想です。
五節句のうちの一つという位置づけ
端午は単独で生まれた行事ではなく、一年に五つある節目のうちの一日です。並べてみると、どれも数字か植物のどちらかで覚えられるようにできています。
| 節句 | 日付 | 別名 | 主役の植物 |
|---|---|---|---|
| 人日(じんじつ) | 一月七日 | 七草の節句 | 春の七草 |
| 上巳(じょうし) | 三月三日 | 桃の節句 | 桃 |
| 端午(たんご) | 五月五日 | 菖蒲の節句 | 菖蒲・蓬 |
| 七夕(しちせき) | 七月七日 | 笹の節句 | 笹・竹 |
| 重陽(ちょうよう) | 九月九日 | 菊の節句 | 菊 |
江戸幕府が定めた五つの式日
この五つを公式の行事日として定めたのは江戸幕府でした。式日には目上の家へ祝賀に出向くものとされ、大名が登城して将軍に祝いを述べる日にもなります。年に五度の改まった日として制度に組み込まれたことで、町人の暮らしにも広がっていきました。
どの節句にも植物が立っている
表を眺めると、五つとも植物が添えられていることに気づきます。七草・桃・菖蒲・笹・菊。季節の変わり目に草木の力を借りて身を守るという考え方が、五節句に共通する骨組みだったのです。
旧暦の五月が「悪い月」と呼ばれたのはなぜか

梅雨と重なる、病の増える季節
旧暦の五月は、いまの暦でいえばおおよそ六月ごろにあたります。雨が続き、気温と湿度がいっせいに上がる時期です。
中国では五月が悪月、五日が悪日
中国ではこの月を「悪月」と呼び、五日をとりわけ「悪日」としました。伝染病がはやり、毒虫の害がはなはだしい月と考えられていたためです。祝う月ではなく、身構える月だったことになります。
毒虫と食べ物の傷み
冷蔵庫のない時代、湿気と暑さは食べ物をすぐに傷ませます。蛇や蜈蚣(むかで)といった生き物も活動を始める。細菌という言葉が無くても、五月に人が倒れやすいことだけは経験として知られていたわけです。祝う理由がないどころか、生き延びるのに手を打つべき月でした。
五月五日生まれの子を忌む言い伝え
悪日という見方は、ときに子どもへ向けられました。この日に生まれた子は親を害する、という俗信が中国に伝わっています。
有名なのは戦国時代の斉の公子、孟嘗君(もうしょうくん)の逸話です。五月五日に生まれたため父に捨てられかけたと『史記』は伝えます。迷信のほうが赤ん坊の命より重かった時代の話として読むと、この日の「怖さ」がどれほどのものだったかが伝わってきます。
もっとも、こうした言い伝えがどこまで広く信じられていたかは分かっていません。端午の起源そのものについても、屈原の故事をはじめ複数の説が並び立っていて、一本にまとまってはいないのが実情です。
邪気を払う手段が「薬草」だった
恐れるだけでは暮らせません。そこで用いられたのが香りの強い草でした。身につけ、湯に浮かべ、酒に浸す。
『大戴礼記』の蘭湯と『荊楚歳時記』の浴蘭節
紀元前一世紀ごろの『大戴礼記(だたいらいき)』には、五月五日に「蘭を蓄え沐浴を為す」とあります。ここでいう蘭はフジバカマを指すとされ、香草を入れた湯に浸かる習わしが読み取れます。六世紀の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』はこの日を「浴蘭節」と呼び、菖蒲を刻んで酒に混ぜて飲むとも記しました。
菖蒲と蓬を組み合わせる
やがて菖蒲と蓬(よもぎ)を束ねて軒に吊るす形が定着します。どちらも香りが強く、薬としての用途を持つ植物です。二種を組み合わせるのは、効き目を重ねるという発想だったのでしょう。
数ある薬草のなかで菖蒲が主役になった理由

強い香りそのものが力と見なされた
菖蒲の葉を手で折ると、青くて薬のような匂いが立ちます。この香気こそが邪気や悪霊を払うと信じられてきました。
精油のアサロンとオイゲノール
香りの正体は、葉や根茎に含まれる精油の成分です。アサロンやメチルオイゲノールといった物質が知られています。血行をうながす働きは根の部分に集まっているとされ、湯に入れるなら葉より根茎のほうが理にかなうという話も出てくるほどです。
※ 精油(せいゆ)とは、植物が作る香りの成分を集めたもののことです。水にはあまり溶けず、少量でもはっきりと匂いが立ちます。
根は生薬「菖蒲根」として使われた
晩秋から冬にかけて掘り上げた根茎を乾かしたものは、菖蒲根(しょうぶこん)という生薬になります。日本薬学会の解説によれば、一年以上おいた根茎の煎じ薬は芳香性健胃薬や去痰薬として用いられ、民間では神経痛やリウマチに効くともいわれてきました。厄払いの草であると同時に、実際の薬でもあったわけです。
葉の形が剣に似ている
菖蒲の葉は平たく細長く、中央に中肋(ちゅうろく)という筋がはっきり通っています。両側から挟まれてできる単面葉という構造で、先がすっと尖る。刀身に見立てるのに、これほど都合のよい草はそう多くありません。
香りで邪気を払い、形で刃を思わせる。のちに武家がこの草を好むようになる下地は、植物のつくりそのものに用意されていたことになります。
中肋の通った細長い単面葉
学名は Acorus calamus var. asiaticus。根茎は粗大で節が多く、地面を横に這って広がります。初夏に花茎を出しますが、先につくのは肉穂花序(にくすいかじょ)という地味な棒状の穂で、花らしい花には見えません。
菖蒲湯の菖蒲は菖蒲園の花ではない
六月の菖蒲園で咲きそろう紫や白の大きな花。あれは菖蒲湯に使う菖蒲とは別の植物です。名前が同じせいで、古くから混同されてきました。
| 名前 | 科 | 花 | 生える場所 | 端午との関係 |
|---|---|---|---|---|
| ショウブ | サトイモ科(ショウブ科) | 棒状で目立たない | 水辺 | 菖蒲湯・軒菖蒲に使う |
| ハナショウブ | アヤメ科 | 大きく華やか・奥が黄色 | 湿地 | 薬草ではなく観賞用 |
| カキツバタ | アヤメ科 | 外側の花びらに白い線 | 湿地 | 観賞用 |
| アヤメ | アヤメ科 | 奥に白と黄の網目模様 | 畑や草原など乾いた地 | 観賞用 |
サトイモ科のショウブとアヤメ科のハナショウブ
湯に入れるのはサトイモ科(近年の分類ではショウブ科)のショウブです。アヤメ科のハナショウブには、あの独特の香り成分がありません。花の美しさで選んでしまうと、菖蒲湯は香らない湯になってしまいます。
花が地味なほうが薬草
見栄えのする四種のうち、薬用になるのは花の目立たないショウブだけ。咲きぶりと薬効が逆を向いているところが、この植物のややこしさでもあります。菖蒲園の看板を「薬草園」と読み違える人が絶えないのも無理はありません。
宮中では五月五日に何をしていたのか

推古十九年の薬猟が最初の記録
日本でこの日の行事がはっきり記録に残るのは、七世紀初めのことです。舞台は奈良の山あいでした。
『日本書紀』が伝える菟田野の朝
『日本書紀』推古十九年(六一一年)五月の条に「夏五月の五日に、菟田野(うだの)に薬猟す。鶏明時を取りて、藤原池の上に集ふ」とあります。夜明け前に池のほとりへ集まり、明るくなってから出発したという記述です。宇陀市の解説では、これが史料で確認できる日本最初の薬猟(くすりがり)とされています。
場所は現在の奈良県宇陀市あたりで、万葉集にも詠まれた阿騎野(あきの)と考えられる一帯。推古二十年、二十二年、さらに天智七年(六六八年)にも五月五日の薬猟の記録が残ります。
男は鹿の角、女は薬草
薬猟では役割が分かれていました。男は薬効が大きいとされた鹿の角を採り、女は薬草を摘む。参加者は冠位十二階に応じた色の衣をまとっていたと伝えられ、遊山ではなく整った儀礼だったことがうかがえます。摘まれた草のなかには菖蒲や蓬も含まれていました。
菖蒲の縵をつけない者は入るなという詔
宮中の五月五日で菖蒲がどれほど重かったかは、奈良時代の一文がよく物語っています。服装の決まりとして命じられているのです。
『続日本紀』天平十九年の一文
昔者、五月之節、常用菖蒲為縵。比来、已停此事。従今而後、非菖蒲縵者、勿入宮中。(『続日本紀』天平十九年五月五日条)
昔は五月の節に菖蒲を縵(かずら)にしていたのに、近ごろそれをやめている。今後は菖蒲の縵をつけていない者は宮中に入ってはならない——太上天皇がそう詔したという記録です。天平十九年は七四七年、聖武天皇の御代にあたります。
※ 縵(かずら)とは、草や花を輪にして頭に巻く古代の髪飾りのことです。菖蒲で作ったものは菖蒲縵(しょうぶのかずら)と呼ばれました。
同じ日に騎射と走馬を見ている
同じ条には、天皇が南苑に出て騎射(きしゃ)と走馬(そうめ)をご覧になったとも書かれています。馬を走らせ、馬上から矢を射る。武を見せる催しが菖蒲と同じ日に並んでいた点は、のちの展開を考えるうえで見逃せません。
貴族が贈り合った薬玉
平安の貴族社会では、薬玉(くすだま)という飾りが五月五日の贈り物になりました。香草や薬を詰めた袋に糸を長く垂らしたものです。これを肘にかけると邪気を払い、悪い病を除いて寿命を延ばすと考えられていたといいます。
現代の式典で割られる紙製のくす玉は、この飾りの名を受け継いだものだとされます。中から紙吹雪が舞うあの演出の祖先は、疫病よけの薬袋だったわけです。
男の子の節句に変わったのはいつからか

「菖蒲」と「尚武」が同じ音に聞こえた
厄払いの草が男児の祝いへ傾いた転機は、武士の時代にあったと考えられています。決め手になったのは、意味ではなく音でした。
武家の時代に重なった読み
菖蒲は「しょうぶ」と読みます。武を尊ぶという意味の尚武(しょうぶ)、そして勝負も同じ響きです。鎌倉以降、この語呂と剣に似た葉の形から、端午は男の子の節句とされていったという見方が一般的です。
鎧や兜を飾るのは身を守る願い
武家では、五月に鎧や兜を出して飾る習わしが生まれます。戦いを称えるためというより、身を守る道具にあやかって子の無事を願う意味合いが強いとされています。香りで邪気を防ぐ草から、鉄で身を守る具へ。道具は変わっても、守るという一点は動いていません。
江戸の子どもは菖蒲を刀にして戦った
武家の飾りが厳かになる一方で、町の子どもたちはこの草をずいぶん乱暴に使っていました。
死傷者が出て禁じられた印地打ち
江戸時代まで、端午の日に子どもが河原で石を投げ合う印地打ち(いんじうち)という風習がありました。頭に菖蒲の鉢巻を巻き、腰に菖蒲の刀を差した山伏姿で敵味方に分かれる。ただし負傷者や死者が相次いだため、やがて禁止されます。
代わりに流行した菖蒲切り
石合戦が消えたあと広まったのが、菖蒲を刀に見立てたチャンバラ「菖蒲切り」でした。菖蒲打ちとも呼ばれ、束ねた葉を地面に叩きつけて音の大きさを競う遊び方も各地に残っています。厄払いの草は、子どもの手のなかで玩具にもなっていたわけです。
空を泳ぐ鯉は町人から始まった
外飾りの主役だった武者絵の幟に、町人が鯉で張り合った。そこから生まれたのが、いま端午の代名詞になっているこいのぼりです。最初は黒い真鯉が一匹きりで、家族の姿にそろうのは二百年ほどあとの話になります。
つまり端午の飾りは菖蒲・幟・鯉の順に層を重ねてきました。いちばん新しい層がいちばん目立っているところが、この行事の面白さでもあります。
五月五日を「女の家」と呼んだ地域

田植え前の物忌み「五月忌み」
男の子の節句という理解が定着する前、この時期は女性のための日だったとする説があります。手がかりは農事の暦です。
早乙女が身を清める期間
田植えは神聖な仕事とされ、苗を植える早乙女(さおとめ)は事前に穢れを祓う必要がありました。この斎戒を五月忌み(さつきいみ)と呼びます。一年でもっとも大事な農作業を前に、女性の側が身を清める期間が置かれていたのです。
菖蒲と蓬で葺いた家にこもる
五月四日には男が戸外へ出払い、女だけが菖蒲や蓬で屋根を葺いた家にこもる。この習俗はフキゴモリ(葺き籠り)と呼ばれました。軒に挿す菖蒲が、この場合は結界の材料として働いていることになります。
「女天下」と呼ばれた一夜
五月五日を「女の家」と呼ぶ風習は、中部地方のほか四国の一部にも見られたと報告されています。五月四日の夜から五日にかけてを「女天下」と称し、家の半畳分、あるいは家全体を女性が取り仕切る日とする地域もありました。
近松門左衛門の作中にもこの言葉は登場します。江戸の劇場に通う客がそれで通じたということは、当時それなりに知られた言い回しだったのでしょう。
明治に節句が消え、こどもの日が生まれるまで
制度としての端午は、明治に入って一度途切れています。そのあと別の名前で戻ってきました。
明治六年に公式の祝日から外れた
太陽暦への改暦に合わせ、明治六年(一八七三年)一月の太政官布告で人日・上巳・端午・七夕・重陽の五節が廃止されました。代わりに祝日とされたのは、神武天皇即位日と天長節の二日です。季節の節目から皇室の記念日へと、休む日の理由が入れ替わったことになります。
もっとも、民間の行事としては途切れませんでした。公式の暦から外れても、軒の菖蒲と五月の飾りは家々に残ったのです。
祝日法に残る「母に感謝する」
現在の五月五日は、昭和二十三年の国民の祝日に関する法律で定められたこどもの日です。条文は「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」と書いています。男児の節句として知られる日の法律に、母への感謝が明記されている。五月忌みの話を読んだあとだと、この一文の座りがずいぶん良く見えてきます。
ことわざと銭湯に残った菖蒲

「六日の菖蒲」が意味するもの
「六日の菖蒲、十日の菊」(むいかのあやめ、とおかのきく)は時機に遅れて役に立たないことのたとえです。菖蒲は五月五日、菊は九月九日に使うもので、一日過ぎれば出番がない。天保六年(一八三五年)の滝沢馬琴の書簡に用例が見えます。
言い回しが成り立つということは、菖蒲が「その日だけの草」として広く認識されていた証拠でもあります。
菖蒲湯が庶民に広まったのは江戸から
宮中や武家の行事だった菖蒲湯が町へ下りたのは江戸時代です。『東都歳事記』には、五月五日に諸人が菖蒲湯を浴びたという趣旨の記述があります。長屋暮らしで内風呂のない人々は、湯屋へ出かけてこの湯に浸かりました。
当日の湯屋は入口に「菖蒲湯仕候」と紙を貼り出し、客は通常の湯銭に祝儀を包んで添えたといいます。湯屋が菖蒲で沼のようになったと詠んだ川柳も伝わっていて、その混みようが目に浮かびます。
前の晩は枕にしていた
菖蒲の使い道は湯だけではありませんでした。室町・戦国期の宮廷記録『御湯殿上日記』には、天文二年(一五三三年)五月五日の条に菖蒲の湯を召されたとあります。当時は五月四日に菖蒲を枕の下に敷き、翌日それを湯へ移す流れだったと伝えられます。
一晩眠って香りを移し、それから湯に浮かべる。草を使い切るこの段取りには、薬草を粗末にしない感覚がよく表れています。
行事の名前だけが残り、中身の主役が入れ替わっていく。端午はその見本のような日です。五月五日に軒へ挿された草は、悪月を生き延びるための薬でした。それが武家の語呂合わせを経て兜になり、町人の工夫を経て鯉になり、法律のうえではこどもの日という別の名前になった。名前が同じだからといって、千四百年前の五月五日といまの五月五日が同じ行事だとは限らないのです。
参考
- 公益社団法人 日本薬学会「ショウブ」
- 宇陀市「推古天皇の薬猟」
- e-Gov法令検索「国民の祝日に関する法律」(昭和二十三年法律第百七十八号)
- コトバンク「端午」(精選版 日本国語大辞典・世界大百科事典ほか)
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