郵便切手の隅には「NIPPON」と印刷されています。ところがパスポートの表紙に金色で押されているのは「JAPAN」です。どちらも同じ国を指しているのに、綴りがまるで違います。
この食い違いは、うっかり揃え忘れたわけではありません。「NIPPON」は日本人が自分たちで名乗ってきた音で、「Japan」のほうは中国語の発音がヨーロッパを一周して戻ってきた形です。出発点をたどると、七世紀の終わりごろまでさかのぼります。
名前が入れ替わった場面は、数えるほどしかない

千三百年ぶんの話になりますが、呼び名が実際に「別のもの」に置き換わった瞬間は多くありません。変わった場面だけを抜き出すと、五つの節目に整理できます。
| 変わった場面 | 前 → 後 | 入れ替えの決め手 |
|---|---|---|
| 7世紀後半〜8世紀初め・国内 | 倭 → 日本 | 律令をつくる過程で、自分たちのほうから名乗り直した |
| 703年・唐の都 | 倭国 → 日本国 | 遣唐使が新しい国号を伝え、唐の側がそれを記録した |
| 13世紀末・ヨーロッパ | 日本国 → Cipangu | 中国で耳にした発音を、旅行記が書き取った |
| 16世紀・ポルトガル | Cipangu → Giapan | マレー半島の港で使われていた形を商人が持ち帰った |
| 1577年・英語圏 | Giapan → Japan | 英訳された地誌の綴りが、そのまま定着した |
面白いのは、三段目から先に日本人がまったく関わっていないことです。国名の後半生は、他人が他人に伝言していく形で進みました。
「倭」から「日本」へ——唐に持って行った新しい国号

「日本」という国号は、外から与えられたものではありません。中国側の記録は、日本が自分から名を改めたと書いています。
唐の史書に残る、二つの説明
『旧唐書』の「日の辺に在るを以て」
『旧唐書(くとうじょ)』の東夷伝には「日本国者、倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名」とあります。日本国は倭国の別種であり、その国が日の昇るあたりにあるので日本と名づけた、という説明です。太陽の出る方角から見た位置が、そのまま名前になったことになります。
『新唐書』の「倭の名を悪みて」
同じ『旧唐書』はもう一つの説も並べていて、倭国が自分の名の雅やかでないことを嫌って改めた、と記しています。のちに編まれた『新唐書(しんとうじょ)』も同じ方向で、倭という名を嫌って日本と号した、という書き方をしました。中国の史官も理由を一つに絞れなかったわけです。
ちなみに「倭」の字にどんな含みがあったかについても、定説はありません。従順の意とする見方や、背が低いことを指したとする見方が並んでいます。どちらにせよ、当時の日本側が好んで使い続けたい字ではなかったようです。
新しい国号を届けにいった使い
702年に出発し、703年に長安へ
702年、粟田真人(あわたのまひと)を大使とする遣唐使が海を渡りました。白村江(はくすきのえ)の戦い以来、三十年以上とだえていた大がかりな使節です。翌703年に長安へ入った真人は、当時の実権を握っていた則天武后(そくてんぶこう)に会っています。
唐側の評は「経史をよく読み、文章を解し、物腰が上品である」というものでした。この使節を通して「日本」という国号が唐に受け入れられたとされ、702年の遣唐使を「日本国」からのものとして記した唐の書物も残っています。
大宝律令に書かれた「日本天皇」
国内の文書で確実な最古の例とされるのが、701年に施行された大宝律令(たいほうりつりょう)の一節です。詔書の書き出しの形式として「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらみこと)」という言い方が定められました。粟田真人はこの律令の編纂にも加わった人物で、できあがったばかりの制度と国号を抱えて唐へ向かったことになります。
読みに注目すると、面白いことが起きています。書かれた字は「日本」でも、声に出すときは「やまと」でした。文字のほうが先に新しくなり、口のほうはしばらく古い名を続けていたわけです。
いつ決まったかは、いまも確定していない
天武朝説と大宝律令説
「何年に国号を改めた」と書かれた記録は見つかっていません。そのため成立時期は、天武天皇の治世(672〜686年)かその直後とする説と、大宝律令の前後とする説に分かれています。大化から大宝までのどこか、という幅のある言い方をされることも多いテーマです。
607年の「日出づる処」は、まだ国号ではない
「日出づる処の天子」で知られる607年の国書は、日本を太陽の側に置く発想の早い例としてよく引かれます。ただしこれは自国の位置を説明した文言であって、国の名前そのものではありません。発想が先にあり、名前として固定されるまでには、なお百年近い時間がかかったことになります。
「にっぽん」と「にほん」——国内では二つのまま

国号の字は千三百年変わっていませんが、読み方は一つに定まっていません。しかもこれは、決められなかったのではなく、決めないという判断が現在の政府見解です。
音がゆるんで、二つになった
呉音の「ニチ」に「ホン」がついた形
「日」の呉音(ごおん)は「ニチ」です。これに「ホン」が続いて詰まった音になり、まず「ニッポン」と発音されたと考えられています。その詰まりがゆるんで、やわらかい「ニホン」が生まれたという流れが一般的な説明です。平安時代には「にふぉん」に近い音だった時期もあると推測されています。
※ 呉音とは、漢字の読みのうち、比較的早い時期に中国南方から伝わったとされる音のことです。のちに伝わった漢音と対になり、同じ字でも「日(ニチ/ジツ)」のように読みが分かれます。
『日葡辞書』が書き取った三つの読み
室町時代にはすでに複数の読みが並んでいました。安土桃山時代にイエズス会が編んだ『日葡辞書(にっぽじしょ)』には「ニッポン」「ニホン」に加えて、漢音による「ジッポン」も載っています。四百年以上前の外国人が、日本人の口から三通りを聞き取っていたわけです。
※ 『日葡辞書』とは、1603年から翌年にかけてイエズス会の宣教師が長崎で刊行した日本語・ポルトガル語辞書のことです。当時の話し言葉の発音がローマ字で記録されており、日本語史の重要な資料になっています。
統一しようとした試みは、何度もあった
昭和9年の「国号呼称統一案」
1934年(昭和9年)3月19日、文部省の臨時国語調査会が「国号呼称統一案」を発表し、読みを「ニッポン」とすることを決議しました。外国へ出す書類にも Japan ではなく Nippon を使うべきだ、という案が政府に出されています。ただし政府がこれを採択することはなく、正式な決定には至りませんでした。
翌年の建議と、揃わなかった英語表記
1935年(昭和10年)には衆議院が、Japan という呼び方は帝国の威信を損なうとして建議を出しました。同じ年の7月、外務省は日本語での国号表記を「大日本帝国」に統一すると決めています。しかし英語表記のほうは、結局まとまった見解が示されないままでした。
その八年前の1927年(昭和2年)には、各国が「ジャパン」を使うことを認めるという見解を政府が表明しています。数年のうちに向きが変わり、また戻る。国名の英語表記は、この時期の空気をそのまま映していました。
「昭和45年に閣議決定で統一された」の行方
2009年の質問主意書が前提にした話
1970年(昭和45年)7月に佐藤栄作内閣が「にっぽん」で統一する閣議決定を行った、という話は現在もあちこちで見かけます。2009年6月19日、衆議院議員の岩國哲人氏はこの前提に立って質問主意書を出しました。その閣議決定はいまも維持されているのか、読み方を統一する意向はあるのか、という三問です。
※ 質問主意書とは、国会議員が内閣に対して文書で質問を出す制度のことです。内閣は原則として七日以内に閣議決定を経た答弁書を返す必要があり、政府の公式見解を記録に残す手段として使われます。
内閣の答弁は「行っていない」だった
同月30日に麻生太郎内閣が出した答弁書は、一問目に対してこう答えています。
「日本」の読み方については、御指摘のような閣議決定は行っていない。
広く語られてきた前提のほうが、政府自身に否定された形です。そのうえで三問目には「にっぽん」または「にほん」という読み方はいずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている、と答えました。二つあることを追認したのが、現在いちばん新しい公式見解になります。
「Japan」は中国語の「日本国」の音から来ている

ここから先は、日本人の口を離れた名前の話になります。ヨーロッパに伝わった「Japan」の元になったのは、日本語の「にっぽん」ではなく、中国で発音された「日本国」です。
マルコ・ポーロの書いた「Cipangu」
黄金の宮殿と、千五百マイルの海
13世紀末の『東方見聞録』は、大陸の東およそ千五百マイルの海上にある独立した島国として「Cipangu」を紹介しました。金を大量に産し、王の宮殿は黄金でできている。住民は礼儀正しく穏やかで、死者を火葬して口に真珠を含ませる。そんな描写が並んでいます。
本人は日本に渡っていない
ただしマルコ・ポーロ自身は、日本へ足を運んでいません。この記述は中国で商人などから聞いた話をまとめたものとされています。ヨーロッパにおける日本像の出発点は、行ったことのない人が伝え聞きで書いた数ページだったわけです。
音の出どころは、中国南部のことば
呉語・閩語に残る「ジッポン」に近い音
「Cipangu」の語形は、中世の中国語で「日本国」を読んだ音に由来すると考えられています。この系統の音は現在も呉語(ごご)・閩語(びんご)・粤語(えつご)・客家語(はっかご)といった南方の方言に残っていて、台湾でも耳にできます。北京語の「リーベン」からは Japan の形は出てきません。名前は北ではなく、南の港から出ていきました。
写本ごとに違う綴り
印刷術の普及前に写し継がれたため、綴りは版によってばらばらです。14世紀のフランス国立図書館本は Cipngu、1470年ごろのラテン語版は Çipingu、1559年のイタリア語版は Zipangu と書いています。日本で通りのいい「ジパング」は、このラミュージオ版の形が広まったものです。
マレー半島とポルトガルを経由して英語へ
マレー語の Jepang / Jepun
中国南部の沿岸方言から、マレー語には Japang や Japun といった形が入っていたとされます。16世紀初め、この語をマレー半島でポルトガル商人が受け取りました。ヨーロッパ人が実際に日本へたどり着いたのは1543年ごろの種子島とされますから、名前のほうが先に西へ動いていたことになります。
1565年の Giapan、1577年の英語初出
ポルトガル語で最初に現れるのは、1565年の書簡にある「Giapan」。英語での初出は1577年です。国号が定まった八世紀初めから数えると、英語の Japan が生まれるまでにおよそ八百七十年かかった計算になります。
コロンブスが目指したのも「ジパング」だった

黄金の島という評判は、名前だけが先に歩いた結果として大西洋の航路まで動かしました。西回りで東洋へ向かう発想の目的地に、ジパングが置かれていたからです。
黄金の国という評判の行方
地図の上で、日本は大西洋のすぐ先にいた
コロンブスの時代の地図は、日本を中国沿岸から千マイルほど東に描いていたとされます。しかも彼が用いた地図では、自分の見立てに合うよう日本の位置がヨーロッパ側へ大きく寄せられていた、という指摘があります。ずれは数千マイル規模で、結果としてたどり着いたのはカリブ海の島でした。
中尊寺金色堂を反映したという説
黄金の描写の元をめぐっては、奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)の様子が伝わったのではないかという説があります。1124年に中尊寺金色堂(こんじきどう)が建てられ、砂金の産出と交易でにぎわっていた時期にあたるためです。もっとも中世の日本はむしろ金を輸入する側でもあり、黄金の国という評判と実情が完全に重なるわけではありません。
小文字の japan は「漆器」を指す
17世紀に生まれた japanning
英語には、頭を小文字で書く japan という別の語があります。意味は漆器、あるいは漆に似せた塗装のことです。東アジアの漆器に憧れたヨーロッパの職人が、樹脂系のニスで黒く艶のある仕上げを真似た技法を17世紀に確立し、これを japanning と呼びました。
china が磁器を指すのと同じ関係
同じ発想は隣にもあります。小文字の china が磁器を意味するのは、その土地の名産がそのまま品物の名になったからです。国名が製品名に転じる現象として、japan と china は英語の中で対になっています。
切手は「NIPPON」、パスポートは「JAPAN」——今の使い分け

読みも綴りも一本化されなかったぶん、国名の表記は場面ごとにばらばらです。手元にあるものを並べると、どれがどの経路から来た名前なのかが見えてきます。
| 使われる場面 | 表記 | そう決めているもの |
|---|---|---|
| 郵便切手 | NIPPON | ラテン文字で国名を示すよう求めた万国郵便連合の規則 |
| 日本銀行券の裏面 | NIPPON GINKO | 券面の表記に合わせた日本銀行自身の呼称 |
| 旅券の表紙・身分事項欄 | JAPAN | 国際的に通用する英語の国名 |
| 国コード(五輪・空港・統計) | JPN / JP | ISO 3166で割り当てられた記号 |
| ウェブサイトの住所 | .jp | 同じくISOの二文字コードを使う国別ドメイン |
ローマ字表記が場面で違う理由
切手の NIPPON は1966年から
日本の切手にラテン文字の国名が入るようになったのは1966年1月からです。ローマ字で国名を示すよう求めた万国郵便連合の決定に対応したもので、そのとき選ばれた綴りが NIPPON でした。同じ場面で JAPAN を選ぶ道もあったはずですが、自称のほうが採られています。
※ 万国郵便連合(UPU)とは、国際郵便のルールを定める国連の専門機関のことです。1874年に発足し、切手の表示や国をまたぐ郵便物の扱いを加盟国で取り決めています。
日本銀行が「ニッポンギンコウ」と読む理由
日本銀行は自らの呼称について、法律で読み方が決まっているわけではないと断ったうえで、こう説明しています。お札の裏に「NIPPON GINKO」と印刷してあることもあって「ニッポンギンコウ」と呼ぶようにしている、と。券面の印字が読み方を後から決めた、珍しい順序です。
国際的な記号としての JPN
ISOの三文字と二文字
国名を記号化する場面では、ISO 3166という国際規格が使われます。日本に割り当てられているのは三文字が JPN、二文字が JP、数字が392です。ウェブサイトの .jp も、この二文字をそのまま国別ドメインに使ったものになります。
五輪の JPN と、ISOの JPN が一致している理由
五輪の掲示板に出る三文字は、ISOとは別系統のIOCコードです。二つは食い違うことがあり、ドイツは英語由来の GER とドイツ語由来の DEU、スイスは仏語由来の SUI とラテン語由来の CHE に分かれます。ISOのほうは、その国自身の言語から綴りを取ることがあるためです。
ところが日本は、どちらも JPN で一致しています。自国語から取るなら NIP や NPN になっていてもおかしくないのに、国際規格の側も外から来た呼び名を採りました。応援の声が「ニッポン」でも、掲示板の三文字は Japan の側が担っているわけです。
名乗りと呼ばれ方がずれている国は、けっして少数派ではない

自分たちの呼び名と外から呼ばれる名前が違う国は、世界にいくつもあります。専門的には、前者が内名で後者が外名です。
| 国 | その国での呼び名(内名) | 英語での呼び名(外名) |
|---|---|---|
| ドイツ | ドイチュラント | Germany |
| ハンガリー | マジャルオルサーグ | Hungary |
| フィンランド | スオミ | Finland |
| ギリシャ | エラーザ | Greece |
| 日本 | にっぽん/にほん | Japan |
外名のほうを言い直させた国もある
近年では、外名を自分で修正した例が出ています。トルコは2022年6月1日、外相の書簡が国連事務総長に届いた時点をもって、あらゆる言語で Türkiye を使うよう求めました。国の印象を良くする戦略の一環で、英語で七面鳥を指す turkey と区別する狙いもあったと報じられています。
日本にも同じ道はありました。1934年の「ニッポン」統一案が採択されていれば、いま世界の教科書には Nippon と書かれていたかもしれません。採られなかったおかげで、中国南部の港で拾われた発音が、そのまま国際的な名として生き続けています。
一つの国名に、これだけの層が重なっています。自分たちで名乗り直した漢字二字。詰まった音とゆるんだ音。他人の口を経由して戻ってきたローマ字。どれか一つに揃えなかったからこそ、切手とパスポートの綴りの違いという形で、千三百年ぶんの経路が今も手元に残っているわけです。政府が「統一する必要はない」と答えたのは、投げやりな結論ではなく、全部が現役だという事実の確認でもあります。
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