「いの一番」の「い」は、いろは歌のいちばん最初の一字です。国語辞典はどれもそう説明し、大工の話は出てきません。ただ世の中では、家を建てるとき柱に書く「い一」という記号から生まれた、という説もよく語られます。根はどちらも同じ「いろは」で、分かれているのは言葉と現場の記号のどちらが先か、という順番のほうです。
辞書は「い」をどう説明している?

国語辞典はそろって「いろはの一番目」から来た言葉だと説明しています。語源の話は言い伝えが混ざりやすいので、判断の足場としていちばん堅いのはここです。手に入りやすい二つの辞典を並べてみます。
精選版 日本国語大辞典の語源説明
語義は「まっさき。一番最初」。その前に括弧書きで、「いろは」で順番をつけたものの内の第一番目の意から、と添えてあります。「いろはで順番をつけたもの」という言い方には含みがあります。歌そのものではなく、歌を番号として使った何か、を指しているとも読めるからです。
デジタル大辞泉の語源説明
こちらは「いろは」の一番目の意から、として「真っ先。一番目」と説明します。用例に置かれているのは「いの一番に会場に入る」という現代の文。版元も編集方針も違う二つの辞典ですが、語源の書き方はほとんど重なります。
語源欄に「大工」も「柱」も出てこない
二つを並べると、共通しているのは「いろは」の三字だけ。建築の話はどちらにも見当たりません。建築由来説を採るなら、辞典が書いていないことを足すことになります。
とはいえ、書いていないから間違いだとも言い切れません。語源欄はもともと短く、確からしい線を一本だけ示す場所だからです。辞書が示すのは「いろは順の一番目」という意味の筋道で、その順番がどこで使われていたかまでは語っていません。
いちばん古い用例は明治十九年の風刺雑誌

精選版 日本国語大辞典が挙げる最も古い実例は、1886年(明治19年)の雑誌です。辞書の記録からは、そこより前へはさかのぼれません。
『団団珍聞』五五七号に出てくる一文
引かれているのは、『団団珍聞(まるまるちんぶん)』五五七号の「喃だっていの一番に縹致が剛気で年若で」という一節です。縹致(きりょう)は顔立ちのこと。人物の見た目を並べ立てる、いかにも軽口らしい文脈です。語釈の堅さと比べると、ずいぶん砕けた場所から拾われています。
笑いの誌面で説明なしに通じた俗語
『団団珍聞』は1877年に野村文夫が創刊した週刊誌で、イギリスの『パンチ』に範をとった戯画入りの風刺雑誌です。確認できる最終号は1907年の第1654号で、三十年続きました。読者を笑わせるための誌面に、断りもなく出てくる。その時点で「いの一番」は世間に通じる言葉だったと読めます。言葉そのものは、1886年よりいくらか前からあったはずです。
大工の「番付」とはどんな記号?

番付(ばんづけ)は、組み立てる部材の一本ずつにつける位置の符号です。建築由来説の土台はこの実在の習慣で、建築史の事典にきちんと項目が立っています。
柱・梁・桁につける「部材の住所」
改訂新版 世界大百科事典の「番付」の項は、建築史家の西和夫が書いています。定義は、建物を組み立てるため柱・梁(はり)・桁(けた)などの部材につける符号と、そのシステム。木造の建物は一本ずつ形の違う部材の集まりなので、どれがどこに入るかを材そのものに書いておくわけです。
完成すると見えなくなる場所に書く
同じ事典によれば、新築のときは枘(ほぞ)や柱の床下部分など、完成時に見えなくなる部分に書かれます。解体するときは木札に書いて打ちつける。住む人の目に触れないことを前提にした文字なのです。番付を書き入れた大工の平面図も、やはり番付と呼ばれます。
符号がないと建前で材を探せない
番付が働くのは、墨付け(すみつけ)と刻みを終えたあとです。墨付けとは、切る位置やほぞ穴の形を木材に書き込む作業のこと。加工した材は後日まとめて現場へ運び、建前(たてまえ)で一気に組み上げます。
何十本もの材が並ぶ中で、どれがどこの柱かを言い当てられなければ作業は止まります。番付は覚え書きではなく、段取りそのものを支える記号です。
「い一」の柱はどこに立つ?

「い一」は、いろはの列と一二三の列が交わる場所に立つ柱です。建物の位置の始まりを示す印であって、建てる順番を示すものではありません。
いろはと一二三を掛け合わせる組合せ番付
世界大百科事典は、番付のうち「いろは」と「一二三」を二方向に組み合わせる方式を組合せ番付と呼んでいます。平面図を格子に見立て、一方の目盛りにいろは、もう一方に数字を振る。将棋盤の目を数えるのに近い発想です。
い通りと一通りが交わる柱が「い一」
柱の並びの線は「通り」と呼ばれ、いの通りと一の通りが交わる柱に「い一」と書きます。仕組みを表にすると次のとおりです。
| い通り | ろ通り | は通り | |
|---|---|---|---|
| 一通り | い一 | ろ一 | は一 |
| 二通り | い二 | ろ二 | は二 |
| 三通り | い三 | ろ三 | は三 |
実際の図面では、いろはをどちらの端から振るかは現場の流儀によります。上の表は読みやすさを優先して左から並べました。
「い一」は建物の位置の始まり
鳥取県産業人材育成センター倉吉校の木造建築科は、建前の記録で「い一」を建物の位置の始めを表す印と説明しています。ネット上では「最初に建てる柱」と説明されることもありますが、番付はあくまで位置の符号です。
ただ、原点は図面を読む出発点でもあります。「まずここから」という感覚と結びつき、説明が少しずれた形で広まったとしても無理のない道すじでしょう。
番付はいろはを使わない方式もある

世界大百科事典は、組合せ番付のほかに二つの方式を挙げています。どちらも座標ではなく通し番号の振り方の工夫で、材に「い」も「一」も書かれません。
渦巻き状に巻いていく回り番付
回り番付は、渦巻状に番号をつけていく方式です。建物の外周をぐるりと回り、そのまま内側へ入っていきます。格子の座標を持たないぶん、番号の並びを追えば自然に一周できるのが利点でしょう。
折り返しながら進む時香番付
時香(じこう)番付は、ジグザグ状に番号をつけていく方式です。名の由来まで事典は書いていません。確かなのは、この方式からは「いの一番」という言葉は生まれようがないということ。建築由来説が指しているのは、番付のうち組合せ番付だけです。
最古の番付はいろは歌より三百年古い

番付という習慣そのものは、いろは歌よりずっと前からありました。この年代のずれが、話をいちばん面白くしているところかもしれません。奈良時代の大工は、いろは以外の何かで材に印をつけていたことになります。
唐招提寺講堂の蟇股に残る墨書
奈良の唐招提寺講堂は、和銅(710年)ごろに造られた平城宮朝堂院の朝集殿(ちょうしゅうでん)を移して改造した建物です。文化遺産オンラインによれば、明治の修理で外した蟇股(かえるまた)の下面に墨書の番付が残り、それをもとに元は東朝集殿だったと推定されています。世界大百科事典は、この移築の番付を現存最古の例としています。
講堂は桁行九間・梁間四間の入母屋造(いりもやづくり)で、移築のときに切妻造から屋根の形を改めています。文化遺産オンラインの記録では、1898年に重要文化財、1952年に国宝の指定です。奈良の宮殿の姿を伝える建物が、番付のおかげで元の向きまで分かるわけです。
※ 蟇股(かえるまた)とは、梁の上などに置いて上からの荷重を受ける部材のことです。蛙が足を開いたような輪郭から、この名で呼ばれます。
いろは歌の最古の例は1079年
いろは歌の成立は平安中期以降とされ、文献に残る最古の例は1079年(承暦3年)写の『金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)』です。八世紀の大工が、まだ生まれていない歌を番号に使えるはずがありません。いろは式の番付は、番付の歴史の途中から始まった方式ということになります。
年代を並べても先後は決まらない
番付は八世紀にはあり、いろは歌は十一世紀に文献に現れます。「いの一番」の用例が出てくるのは十九世紀末。間がごっそり空いていて、いろは式の番付がいつ始まったのかは決められません。
辞書はいろは順とだけ書き、現場は自分たちが始まりだと語る。決めるための材料がそろっていない以上、両方を並べて眺めるのがいまのところ誠実な扱い方です。
いろは歌はなぜ番号の代わりになれた?

同じ字が二度出てこないこと、そして誰もが順番を諳(そら)んじていたこと。いろは歌には、番号として使うのにうってつけの条件がそろっていました。
四十七字を一度ずつ使い切る七五調の歌
日本大百科全書によれば、いろは歌は仮名四十七字を重複なく使った七五調の今様(いまよう)です。番号に必要なのは、重複しないことと並び順が決まっていること。いろは歌はその両方を満たし、しかも口ずさみやすい。数字の読み書きに不慣れな人でも、歌なら最後まで言えます。
作者を空海とする説は否定されている
いろは歌の作者を弘法大師空海とする言い伝えは有名ですが、辞典はこれを否定しています。根拠は歌そのものにあり、ア行のエとヤ行のヱを区別していない点や、今様という新しい形式をとっている点です。空海が世を去ったのは835年で、平安中期以降とされる成立には届きません。
音韻研究の歌が手習いの手本になった
古い例はどれも辞書や仏教書に記されています。そこから同じ事典は、僧侶が音韻を学問的に研究するために作った歌と考えられる、と述べます。手習いの手本として広く使われたのは後年のこと。手本になったおかげで、いろはの順は共有財産になりました。大工が図面に「ろ」と書けば、二番目だと相手に伝わる土台はここにあります。
法律の条文ではいまもイロハが現役

五十音順に押されて出番は減りましたが、いろは順はいまも硬い場所で働いています。その代表が法律の条文です。順番が決まっていて、数字とも混ざらない。番付で役に立った性質が、ここでも生きています。
条・項・号の下に並ぶイ・ロ・ハ
参議院法制局の解説によると、条文はまず条に分かれ、条は項に区分されます。条や項の中で事項を列記するときに「一、二、三」を振るのが号。その号をさらに細かく分けるときに使うのが「イ、ロ、ハ」です。税法の条文に並ぶカタカナのイやロは、いろは順の四十七枠が働いている姿なのです。
その下は(1)(2)(3)、政令には(i)も
イロハをさらに分けるときは、かつて「(一)(二)(三)」を使った例もありますが、現在は「(1)(2)(3)」を用います。政令にはその下に「(i)(ii)(iii)」を使った例まであるとのこと。漢数字・いろは・算用数字・ローマ数字が、一つの条文の中で四層に積み重なるわけです。
旧国土庁設置法は「ス」まで使い切った
同じ解説には、四十七枠を使い切りかけた実例が出てきます。平成10年に成立した被災者生活再建支援法の附則による改正で、旧国土庁設置法の列記が「ヱ・ヒ・モ・セ・ス」の「ス」まで到達しました。いろは歌は「ゑひもせす」で終わるので、正真正銘の最後の一字です。
次の一項目の心配は法律の廃止で消えた
次に項目を足すときはどうするのか。解説の筆者もそこに注目していました。心配は結局のところ杞憂に終わります。平成11年の中央省庁等改革のための国の行政組織関係法律の整備等に関する法律によって、国土庁設置法そのものが廃止されたからです。
日光のいろは坂はなぜ「いろは」?

日光のいろは坂は、急カーブの数をいろはの文字数にたとえて名づけられた道です。番号の代わりに歌を当てる感覚は、道路にも残っています。
第一と第二を合わせて48の急カーブ
日光市観光協会の案内によると、下り専用の第一いろは坂と上り専用の第二いろは坂を合わせると急カーブが48か所あります。これを「いろは48文字」にたとえたのが名の由来です。標高差はおよそ440メートル。カーブごとに「い」「ろ」「は」の看板が立っています。
四十七字の歌が48文字になるわけ
歌そのものは四十七字です。デジタル大辞泉は、鎌倉時代以降は末尾に「京」を添えることが多かったと書いています。四十八という数え方は、こうした一字を足した形と見てよいでしょう。カーブを一つ曲がるたびに一字ずつ進み、登りきると歌が終わる仕掛けです。
『日本書紀』の「いろは」は母のこと

辞書を引いていると、いろは歌より三百年以上古い「いろは」に出くわします。音は同じでも、意味はまったく別の言葉です。
雄略紀に出てくる「母(イロハ)」
精選版 日本国語大辞典には、血のつながっている母、すなわち実母を指す「いろは」という見出しがあります。実例は『日本書紀』(720年)雄略元年三月の一節です。対になる父の語は「かぞ」でした。
天皇、大連に命して、女子を以て皇女とし、母(イロハ)を以て妃とす
音が同じでも出どころは別
この「いろ」は血のつながりを表す古い語で、いろは歌とは関係がありません。奈良時代の「いろは」は母を指し、平安以降の「いろは」は文字の並びを指す。同じ三音が、三百年あまりをはさんで別の顔で現れているわけです。
「いの一番」と口にするとき、「い」が最初であることを疑う人はいません。けれど、その「い」が歌の「い」なのか柱の「い」なのかは、辞書と現場で答えが分かれたまま。今日もどこかの建築現場で、いずれ床下に隠れて二度と読まれない場所に、誰かが「い一」と書いています。
参考
関連記事





