奈良時代の人が打っていた双六は、紙の上を進むすごろくではありません。木の盤をはさんだ二人が二個のさいころを振り、十五個の駒を相手の陣地へ送り込む対戦ゲームでした。いまのバックギャモンとほぼ同じ遊びです。振り出しから上がりを目指す紙の「絵双六(えすごろく)」が庶民に広まったのは江戸時代のこと。同じ名前の二つの遊びのうち、片方は賭け事として禁じられ続け、もう片方は正月の遊びとして残りました。
古代の双六はどんな遊びだった?

細長い盤で十五個の駒を競わせる
古い記録に出てくる双六は、いまでは「盤双六(ばんすごろく)」と呼んで区別されています。長方形の盤の両端に十二ずつマスが刻まれ、最初は十五個の駒がそれぞれ反対側に並ぶ形です。二個のさいころを振り、出た目の数だけ駒を進める。全部を向こう側へ渡しきったほうの勝ちでした。将棋史を研究する三宅弘さんの論考が、この形をはっきり書き留めています。
相手の駒が二つあるマスには入れない
盤双六には、相手の駒が二つ以上かたまったマスへは進めないという決まりがありました。バックギャモンでいう「ブロック」と同じ考え方です。運だけでは勝てず、どの駒をどこへ動かすかで結果が変わります。
三宅さんはこの性質から、盤双六を将棋や囲碁とさいころ博打の「中間」に置きました。頭を使う面白さと、さいころの偶然が同居していたわけです。その両方があったからこそ、賭けの対象として長く生き延びたのでしょう。
宮内庁も「バックギャモンと同様」と書く
正倉院を管理する宮内庁は、中倉に伝わる紫檀木画双六局(したんもくがのすごろくきょく)について「今日の絵双六とは異なり、バックギャモンと同様の遊び方をしたとされる」と解説しています。似ている、という程度の話ではありません。
盤の上で駒を競走させる遊びの祖先は古代エジプトにあるとされ、紀元前2700年ごろのセネトという遊戯盤が出土しています。そこからイラクやギリシャ、ローマへ。中国の西の端にあたるトルファンでも七世紀前半には遊ばれていたとされ、日本はその東の終点にあたります。
正倉院には盤も駒もさいころも残っている

木画紫檀双六局は縦54.3センチ
北倉37番の「木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)」は、縦54.3センチ・横31.0センチ・高さ16.7センチ。紫檀を貼った天板に縁がつき、全体を床脚が支えています。飾りは象牙や緑に染めた鹿の角、黄楊・黒檀・竹を細かくはめ込んだ木画の技法です。
国家珍宝帳に載る献納宝物で、籐の網代編みを張った専用の容器まで残っています。宮内庁の解説は、双六が早く日本へ伝わり、古代には禁止令が出るほど流行したと添えました。
※ 国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)とは、756年に光明皇后が聖武天皇の遺愛の品を東大寺の大仏へ納めたときの目録です。正倉院宝物の出発点にあたります。
駒はもと169枚あった
駒にあたる「双六子(すごろくし)」は、素材ごとに分かれて伝わっています。水晶が12枚、琥珀が12枚。黄色・緑色・浅緑色のガラス製が15枚ずつで、藍色のガラスは1枚だけです。宮内庁によれば、もとは169枚ありました。
ガラスの駒が15枚ずつそろっている点は、片側十五個で遊ぶという盤双六の決まりとよく合います。千二百年以上前の対局の駒数が、残った枚数からも読み取れるわけです。
象牙のさいころと振り出し用の筒
さいころにあたる「双六頭(すごろくとう)」は象牙製で、6個が残っています。いちばん大きいもので一辺1.6センチ、小さいものは1.0センチほど。駒と一緒に漆の皮の箱へ入れられ、赤漆塗りの御厨子(みずし)に納められていました。
中倉には「双六筒」も伝わります。径3.2センチ・長さ8.5センチの紫檀の筒で、さいころを入れて振り出すための道具です。目をごまかさせないための工夫で、のちの丁半博打で「胴」と呼ばれる筒の先祖にあたります。
「双六局」四具のうち三具には別の見方がある
中倉172番には「双六局」と名づけられた盤が四具あります。ただ、この名前がついたのは明治時代のことです。宮内庁の解説は第1号と第4号について、盤面の縁に立ち上がりがなく、おはじき盤(弾棊盤)の可能性があると指摘しています。第2号にも、双六盤ではないという指摘が添えられました。
形も大きさも北倉の木画紫檀双六局とよく似ているのは、第3号だけ。千二百年前の道具であっても、名前のほうは案外新しいことがあります。
なぜ九百年も禁じられ続けたのか

最初の記録は689年の禁止令
『日本書紀』の持統天皇三年、西暦689年十二月の条に「雙六禁断(すごろくきんだん)」とあります。日本の文献に双六が出てくる、もっとも古い例とされる記事です。遊びの紹介ではなく、いきなり取り締まりの命令として現れました。
その四年前の天武天皇十四年(685年)には、大安殿に王や公卿を集めて博戯(はくぎ)をさせたという記事があり、研究者はこれも双六だったと見ています。宮中の催しが、数年のうちに禁じる対象へ変わったことになる。問題にされたのは遊びそのものより、賭けの過熱だったのでしょう。
754年の禁令は位が高いほど罰が重い
『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平勝宝六年(754年)十月十四日の条は嘆きます。役人も庶民も双六に興じ、子は父に従わず、ついには家業を滅ぼしている。そのうえで諸国に命じ、双六を固く禁じさせました。
罰の決め方が独特です。六位以下は杖で百回打たれる。五位以上は任を解かれ、禄や所領を取り上げられました。四位以上になると封戸を廃され、国司や郡司の職も失います。身分が上の者ほど失うものが大きい作りでした。
僧侶にも貴族にも戒めがあった
僧尼令は、僧や尼が音楽を奏でたり博打をしたりすれば百日の苦役に処すと定めています。ただし碁と琴は規制の外。同じ盤上の遊びでも、さいころを使うかどうかで扱いが分かれていたわけです。
平安時代の法令集『延喜式(えんぎしき)』には「凡双六者無論高下一切禁断」とあります。身分の上下を問わず一切禁止、という意味です。藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』にも、双六には決して手を出すなという趣旨の戒めが書き留められています。それほど身近な誘惑だったのでしょう。
鎌倉幕府から戦国大名まで続いた禁令
鎌倉幕府は1232年、田畑や所領を双六の賭けにすることを禁じました。将軍から与えられた土地が賭けで人手に渡れば、主従の関係が揺らぐからです。1244年には武士の双六は許し、庶民は永久に禁止するという線引きも現れました。ねらいは遊びの根絶より、身分の秩序と土地を守ることにあったと分かります。
戦国時代には『六角氏式目』が博打に死罪か流罪を定め、『結城氏新法度』は博打と双六を固く禁じます。1596年の長宗我部氏の掟書も「博奕は云うに及ばず、双六など賭けに打つことは一切止むべし」。古代と言っていることはほとんど変わりません。双六の名が出てくる主な禁令を並べると、こうなります。
| 年 | 出典 | 内容 |
|---|---|---|
| 689年 | 日本書紀 | 持統天皇三年十二月、雙六禁断の令 |
| 754年 | 続日本紀 | 諸国に双六の禁断を命じ、位に応じた罰を定める |
| 十世紀 | 延喜式 | 身分の上下を問わず一切禁断 |
| 1035年 | 九条家本延喜式紙背文書 | 京の中で徒党を組んで双六を好む者をやめさせる |
| 1232年 | 鎌倉幕府追加法 | 田地や所領を双六の賭けにすることを禁止 |
| 1244年 | 鎌倉幕府法 | 武士の双六は許可、庶民は永久に禁止 |
| 1596年 | 長宗我部氏の掟書 | 博打はもちろん、双六を賭けに打つことも一切やめよ |
平安の宮廷で双六を打ったのは誰?

源氏物語の近江の君は「小賽、小賽」と祈る
『源氏物語』の「常夏(とこなつ)」の巻に、近江の君が双六を打つ場面があります。相手は五節の君という若い女房。手をしきりにすり合わせ、「小賽(しょうさい)、小賽」と早口で唱える声が響きます。小さい目が出てくれ、という願かけです。
ただしこれは、双六の楽しさを描いた場面ではありません。近江の君は育ちのちぐはぐさが笑いの種にされる人物で、勝負にのめり込んで早口でまくし立てる姿は品のない振る舞いとされました。つい我を忘れる遊び、という共通の受け止め方があったからこそ成り立つ描写です。
枕草子では退屈しのぎの筆頭
清少納言は「つれづれなぐさむもの」の段に、碁・双六・物語と並べました。手持ちぶさたを慰めてくれるものの筆頭格です。同じ段には幼い子のかわいいおしゃべりや果物も挙がっていて、日々の楽しみのひとつとして扱われています。
賭けの道具として禁じられる顔と、退屈をまぎらわす友の顔。双六はその両方を、同じ時代に持っていました。
さいころ博打は双六から分かれた

攤は目の大きいほうが勝つだけの遊び
駒を動かす手間を省き、さいころを振る部分だけを取り出した遊びが「攤(だ)」です。二個のさいころを振り、目の大きいほうが勝ち。『西宮記』には、天長七年(830年)九月の庚申の夜に人が集まって攤を打っていたと記されています。のちの丁半博打は、この攤が変化したものと考えられる遊びです。
※ 丁半(ちょうはん)博打とは、筒に入れて振った二個のさいころの目の合計が、偶数(丁)か奇数(半)かを当てる博打です。
七半・四一半・目勝も同じ一族
合計が七なら親が掛け金の半分を取る「七半(しちはん)」は、平安から鎌倉にかけて流行したとされます。四と一の目で親が半分を取る「四一半(しいちはん)」も、目の大きいほうが勝つ「目勝(めまさり)」も、十三世紀以降の史料に繰り返し登場。どれも盤や駒が要らず、すぐに勝ち負けがつく遊びです。
三宅さんは、こうしたさいころ博打はどれも双六の振り出しの部分が独立したものだろうと述べています。双六は後の時代の博打の「原型」というわけです。取り締まる側から見れば、双六を見逃すことは、さいころ博打の一族すべてを認めることに近かったのでしょう。
絵双六はどこから生まれた?

始まりは僧が仏教語を覚える道具
紙のすごろくの出発点は、遊びではなくお寺の勉強道具でした。新纂浄土宗大辞典によれば、修行を始めたばかりの僧に仏教語を覚えさせるために考え出されたもの。仏教語を名目(みょうもく)と呼ぶことから、「名目双六」「仏法双六」とも呼ばれました。
生まれた時期には幅があります。この辞典は慶長年間(1596〜1615年)より後とし、三宅さんの論考は十五世紀後半に登場したとしています。室町時代の終わりから江戸時代の初めにかけて、形が整っていったと見るのが穏当なところです。
さいころの目は「南無分身諸仏」
使うさいころも変わっていました。六つの面に数を刻むかわりに、「南・無・分・身・諸・仏」の六文字を記したものなどが用いられたとされます。振るたびに仏の名を口にする仕掛けで、遊びと勤行の境目が溶けています。目に数字がない以上、どの字が出たらどこへ進むかは盤面のほうに書き込まれていました。
浄土双六は南閻浮州から極楽を目指す
名目双六から形を整えたのが「浄土双六(じょうどすごろく)」です。振り出しは「南閻浮州(なんえんぶしゅう)」、つまり人間が暮らすこの世界。六道や仏・菩薩のマスを渡り歩き、よい目が出れば極楽浄土へ上がります。悪い目が続けば地獄へ落ち、抜け出せない「永沈(ようちん)」で終わりです。
流行し始めたのは江戸前期の万治・寛文のころ(1658〜1673年)で、最盛期は宝永年間(1704〜1710年)ごろとされます。盤面の仏や菩薩はすべて絵で描かれていました。文字を追えない人でも道のりが目で分かるこの作りが、のちの絵双六の土台になります。
※ 六道(ろくどう)とは、仏教で生きものが生まれ変わりを繰り返すとされる六つの世界のことです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を指します。
なぜ絵双六のほうが生き残った?

紙一枚で何人でも遊べた
盤双六には、木の盤と三十個の駒と、駒を動かす腕前が要ります。絵双六なら刷った紙が一枚あれば足り、子どもも年寄りも同じ土俵に立てる。勝ち負けがほぼ運で決まるので、賭けにしても面白みが薄い遊びでした。同じ名前の二つを並べると、重なるのはさいころくらいです。
| 見るところ | 盤双六 | 絵双六 |
|---|---|---|
| 記録に出る時期 | 七世紀末から | 室町後期から江戸初期にかけて |
| 道具 | 木の盤・駒十五個ずつ・さいころ二個 | 紙一枚・人数分の駒・さいころ |
| 人数 | 二人で向かい合う | 何人でも参加できる |
| 勝ち方 | 駒を全部、相手側へ送り込む | いちばん早く上がりへ着く |
| 腕前の効き方 | どの駒を動かすかで差がつく | ほとんど運で決まる |
元禄のころには庶民に広がった
三宅さんの論考によれば、絵双六は元禄のころ(1688〜1704年)には庶民に広がり、盤双六はそれに押されて衰えていきました。国立国会図書館の解説も、絵双六は主に江戸時代に庶民の娯楽として普及したとしています。
賭けの世界でも、盤双六の居場所は狭まります。江戸時代の中ごろからは、筒と二個のさいころだけで済む丁半博打が広がりました。手間のかかる盤双六は、遊びとしても博打としても主役を降りていったわけです。
盤双六の終わりは明治以後とする見方も
盤双六が完全に姿を消した時期は、見方が分かれます。国立国会図書館の解説は江戸時代に廃れたとし、文化文政のころ(1804〜1830年)とする説明もある。一方で『世界大百科事典』は、明治以後しだいに衰え、第二次世界大戦の前にはほとんど遊ばれなくなったとしています。主役を降りたのは江戸時代でも、細々と打つ人は近代まで残っていたのでしょう。
江戸の絵双六は何を描いた?

道中双六は日本橋から京都へ
各地への旅を題材にした双六が「道中双六」と呼ばれるようになったのは、十七世紀末ごろです。安政四年(1857年)の「参宮上京道中一覧双六」は日本橋が振り出しで、京都が上がり。真ん中には富士山が描かれています。遠出がまだ憧れだった時代、紙の上でなら誰でも旅に出られました。
名所をめぐる双六には、ところどころのマスに「泊」と書かれたものがあります。止まると一回休み。宿に泊まる旅の感覚を、そのままルールにした工夫です。
出世双六の上がりは長者と隠居
「寿出世双六」は、手代奉公から大問屋を経て長者へ向かう商家の道と、儒者や医者といった学問の道を描きます。上がりは「長者」と「隠居」。隠居のマスには、ここに着けば長者から隠居料を取る、という一文まで添えられました。最下段には「勘当」や「遁世」のマスが並び、出世から外れる道筋も逃さず描かれています。
女性の出世を描いた「奥奉公出世双六」は、雑用を務める御末(おすえ)から老女を経て、側室の御部屋様まで昇っていきます。寺子屋が舞台の「春興手習出精双六」は「弟子入りいろは」が振り出しで、学問の神様の亀戸天神が上がりです。
役者の楽屋・妖怪・餅まで題材になった
文久三年(1863年)の「俳優楽屋双六」は、楽屋口から入って湯場・小道具部屋・立女形部屋・座頭部屋をめぐる作りです。安政五年(1858年)の「百種怪談妖物双六」は子どもたちの百物語が振り出しで、上がりは古御所の妖猫でした。
安政四年の「新版餅尽愛度双六」にいたっては、「もち」のつく言葉を集めた言葉遊び。振り出しは鑓餅(やりもち=槍持ち)、上がりは金餅(かねもち=金持ち)です。題材が尽きたら言葉そのもので遊ぶ、という発想でした。
明治の双六は上がりが大臣になった

上がりは長者から大臣・大学総長・洋行へ
明治に入ると、絵双六は新しい世の中を次々に取り込みます。文明開化を描いたもの、明治5年の学制発布の後に増えた教育双六、乗り物双六。「国会議員双六」のような国会ものや戦争双六も作られました。
出世双六の上がりも変わります。身分にかかわらず努力や才能で出世できる時代になり、江戸の「長者」に代わって大臣や大学総長、洋行(外国への留学)が上がりに置かれました。上がりのマスを並べれば、その時代が何をゴールと見ていたかがそのまま分かります。
活版印刷で雑誌の付録になった
印刷が木版から丈夫な活版印刷などへ移ると、双六は大量に刷れるようになりました。明治の末ごろから少年少女雑誌が次々に創刊され、双六はその付録として人気を集めます。教訓ものから外国や宇宙への冒険まで、題材の幅はさらに広がりました。
戦後はテレビやテレビゲームに押され、双六で遊ぶ機会は急に減っています。それでも子ども雑誌の付録などとして、いまも作られ続けているのです。
言葉と名前に残った双六

「振り出しに戻る」は絵双六の言葉
「振り出し」は、さいころを振り始める出発点のことです。せっかく進めた駒を出発点へ戻されると、それまでの歩みが一度で消える。あの悔しさが、計画が白紙に戻ったときの言い回しになりました。双六で遊んだことのない人にも通じるあたり、言葉のほうが遊びより長生きしています。
飛び双六と一回休みはあとから生まれた
絵双六には、マスを順番にたどる「廻り双六」と、出た目によって離れたマスへ飛ぶ「飛び双六」があります。国立国会図書館の解説によれば、はじめは廻り双六しかなく、飛び双六はあとから生まれました。一回休みのマスも、後から加わった工夫とされます。
江戸の出世双六や大奥の双六は、この飛び双六の形で作られています。一足飛びの昇進も転落も、さいころひとつ。私たちが当たり前に遊んでいる決まりの多くは、江戸の版元や絵師が工夫を重ねて作ったものでした。
古くは「すぐろく」と呼ばれた
平安時代の辞書『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には俗称として「須久呂久」とあり、「すぐろく」と読まれていたことが分かります。古くは「六采(ろくさい)」という呼び名もありました。
「雙六」の字の由来として知られるのは、二個のさいころがどちらも六になると形勢を大きく動かせたから、という説明です。二個を振る盤双六ならではの話で、絵双六から考えると見えてきません。ただ、確かな決め手のある説ではないようです。
盤双六は、駒を相手側へ送り込めば二度と戻ってこない遊びでした。禁じられ続けたその遊びは表舞台から消え、紙のほうの双六が「振り出しに戻る」という言葉を私たちの口に残しています。千三百年の勝負で上がりを取ったのは、賭けの強い遊びではなく、家族で囲めた一枚の紙だったのです。
参考
- 宮内庁正倉院「木画紫檀双六局」
- 国立国会図書館「本の万華鏡 第12回 紙の上の旅・人・風俗-江戸の双六-」
- 三宅弘「将棋史研究ノート10-1 日本における博打と将棋の関わり(1)」滋賀県文化財保護協会紀要 第32号
- 新纂浄土宗大辞典「浄土双六」
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