昔のすごろくはバックギャモン、絵双六は江戸で生まれた

歴史と変遷の話
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すごろくと呼ばれてきた遊びは、ひとつではありません。奈良時代の貴族が熱中した「盤双六(ばんすごろく)」は、二個のさいころを振って十五個の駒を相手の陣地へ送り込む対戦ゲームで、いま世界で遊ばれているバックギャモンとほぼ同じ形をしています。紙に絵を刷り、振り出しから上がりへ進んでいく「絵双六(えすごろく)」が広まったのは、それから千年ちかく後の江戸時代でした。

前の双六は賭け事として689年から繰り返し禁じられ、江戸時代のうちに姿を消します。後の双六は正月の遊びとして残り、「振り出しに戻る」という言い回しまで置いていきました。同じ名前をもつ二つの遊びが、入れ替わるように主役を交代していたわけです。

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昔の「双六」はどんな遊びだったのか

盤をはさんで向かい合い、駒を動かす二人のイラスト

古い記録に出てくる双六は、紙でも一本道でもありません。細長い木の盤を二人ではさみ、駒を相手側へ追い込んでいく、駆け引きの濃いゲームでした。

盤の上を十五個の駒が進む

将棋史を調べている三宅弘さんの論考には、盤双六の形がはっきり書かれています。長方形の盤の両側に十二のマスが作られ、最初は十五個の駒がそれぞれ反対側に置かれる。さいころの目の数だけ駒を進め、全部を向こう岸へ渡しきったほうが勝ちです。

十二のマスが二列並ぶ細長い盤

マスの総数は二十四。駒は十五個ずつ。振るさいころは二個。この三つの数字は、現代のバックギャモンとぴたりと一致します。碁盤のような正方形ではなく、横に長い箱形なのは、両端の陣地を向かい合わせに置く必要があるからです。

相手の駒がかたまっているマスには進めない、というルールも共通しています。つまり運だけの遊びではなく、どの駒をどこへ動かすかで結果が変わる。だからこそ、賭けの対象として長く生き延びました。

さいころは筒に入れて振った

目をごまかさせないために、さいころは長い筒に入れて振り出しました。のちの丁半博打で「胴」と呼ばれる道具の先祖です。公平さを保つための工夫が、そのまま賭博の作法として残ったことになります。

この「筒からさいころを振り出す」という動作だけを切り取った遊びが、のちに独立します。そこから生まれた言葉が、現代まで残ることになりました。

正倉院に道具がそのまま残っている

盤双六がどんな道具で遊ばれたかは、想像しなくても分かります。奈良の正倉院に、実物が伝わっているからです。

木画紫檀双六局は縦54.3センチ

北倉三十七番の「木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)」は縦54.3センチ・横31.0センチ・高さ16.7センチ。紫檀を貼った天板に、象牙・緑に染めた鹿の角・黄楊・黒檀・竹を細かくはめ込んだ木画の技法で飾られ、床脚が全体を支えています。

これは光明皇后が聖武天皇の遺愛品を東大寺へ納めたときの目録、国家珍宝帳に載る品です。宮内庁の解説はこの盤に、双六は早く日本にも伝わり古代には禁止令が出るほど流行した、と添えました。

国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)とは、756年に光明皇后が聖武天皇の遺品六百数十点を東大寺の大仏へ献納したときの目録です。正倉院宝物の出発点にあたります。

駒はもと169枚あった

盤だけではありません。駒にあたる「双六子(すごろくし)」は色ごとに分かれて残っています。水晶が十二枚・琥珀が十二枚。黄や緑のガラス製はそれぞれ十五枚前後です。宮内庁の解説によれば、もとは169枚ありました。ガラスの駒が十五枚一組で伝わっている点は、十五個ずつで遊んだという話とよく合います。

さいころにあたる「双六頭(すごろくとう)」も六個が現存します。素材は象牙で、大きいもので一辺1.6センチ、小さいものは1.0センチほど。駒と一緒に漆の皮の箱へ納められ、赤漆塗りの御厨子にしまわれていました。千二百年以上前の遊び道具が、箱ごと残っているわけです。

バックギャモンと同じ遊びとされる理由

「同じようなもの」という緩い言い方ではありません。中倉172番の紫檀木画双六局について、正倉院を管理する宮内庁自身が「今日の絵双六とは異なり、バックギャモンと同様の遊び方をしたとされる」と書いています。

伝わってきた道筋はどうか。盤上で駒を競走させるこの種の遊びは古代エジプトに起源をもつと言われ、紀元前2700年ごろのセネトという遊戯盤が出土しています。イラクやギリシャ、ローマへ伝わり、中国では七世紀前半のトルファンで遊ばれていた記録がある。その東の端に日本があったことになります。

同じ名前で呼ばれてきた二つの遊びは、道具から勝ち方までほとんど重なりません。

見るところ盤双六絵双六
広まった時期七世紀末から。貴族から庶民まで江戸時代から。正月の遊びとして
道具木の盤・駒十五個ずつ・さいころ二個紙一枚・人数分の駒・さいころ一個
人数二人で向かい合う何人でも参加できる
勝ち方駒を全部、相手の陣地へ送り込むいちばん早く上がりへ着く
腕前の効き方どの駒を動かすかで差がつくほぼ運まかせ
行く末禁令を浴び続け、江戸時代に消えた付録や玩具として今も残る

こうして並べると、二つに共通するのはさいころを振るという一点だけだと分かります。

なぜ千三百年も禁じられ続けたのか

地面に広げられた巻物のイラスト

双六の歴史をたどると、禁令の歴史をたどることになります。日本の記録に双六が初めて現れる文書からして、遊びの紹介ではなく取り締まりの命令でした。

最初の記録が禁止令だった

『日本書紀』の持統天皇三年、西暦689年の十二月の条に「雙六禁断(すごろくきんだん)」の四文字があります。国が編んだ正史に載るのは、宮廷が放っておけないほど広まっていたからでしょう。

持統三年の「雙六禁断」

この一行が、双六という言葉の日本における初出とされています。遊びが伝わり、流行し、賭けの道具になって禁じられる。その最後の段階になってようやく文字に残ったわけで、実際にはもっと前から遊ばれていたはずです。

その四年前、宮中で博戯が催されていた

禁令の四年前、天武天皇十四年(685年)には、大安殿に王や公卿を集めて博戯をさせたという記述があります。研究者はこれも双六だったのだろうと見ています。つまり宮中の催しとして楽しまれていたものが、数年のうちに禁じる対象へ変わった。遊びそのものではなく、賭けの過熱が問題だったことがうかがえます。

罰則つきの禁令が出た奈良時代

持統天皇の禁令は効きませんでした。六十五年後、今度は具体的な刑罰を並べた命令が出ます。

続日本紀 天平勝宝六年の文言

『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平勝宝六年(754年)十月十四日の条は、こう嘆きます。役人も庶民も双六に興じ、子は父に従わない。ついには家業を滅ぼしている、と。そのうえで諸国に命じ、双六を固く禁じさせました。家庭が壊れる、という言い方が出てくるあたりに、賭けの規模がうかがえます。

位が高いほど重かった罰

罰の中身が独特です。六位以下の者は杖で百回打たれる。五位以上は任を解かれ、俸禄や所領を取り上げられる。四位以上ともなると封戸を廃され、職も国司・郡司の地位も失いました。身分が上の者ほど失うものが大きい設計になっています。

僧侶にも網がかかりました。僧尼令は、僧や尼が音楽を奏でたり博打をしたりすれば百日の苦使に処すと定めています。ただし碁と琴は規制の外でした。同じ盤上の遊びでも、さいころを使うかどうかで扱いが割れていたわけです。

平安から戦国まで禁令は止まらない

その後も、禁令は数えきれないほど出されました。裏を返せば、何度禁じても遊ばれ続けたということです。

延喜式の「高下を論ぜず一切禁断」

平安時代の法令集『延喜式(えんぎしき)』巻第四十一の弾正台の項にも双六は出てきます。「凡双六者、無論高下、一切禁断」。身分の上下を問わず一切禁止、という文面です。藤原実資の日記『小右記』にも、囲碁や双六は好むべきではない、双六は決して手を出すなという戒めが書き留められています。

鎌倉幕府は武士にだけ許した

鎌倉幕府の追加法は、田畑や所領を双六の賭けにすることを禁じ、破れば賭けたものを没収すると定めました。一方で寛元四年(1244年)には、武士の打つ双六は今後許すが庶民は永久に禁止、という線引きも現れました。取り締まりの目的が、遊び自体の排除ではなく、身分秩序と土地の保全にあったことが見えてきます。

どれくらいの頻度で禁じられてきたのか、主なものを古い順に拾ってみます。

出典内容
689年日本書紀持統天皇三年十二月、雙六禁断の令
698年続日本紀博打を宿の主人も同罪として禁じる
754年続日本紀諸国に双六の禁断を命じ、位に応じた罰を定める
十世紀延喜式身分の上下を問わず一切禁断
1035年九条家本延喜式紙背文書京中で徒党を組んで双六を好む者の停止
1232年鎌倉幕府追加法田地・所領を双六の賭けにすることを禁止
1244年鎌倉幕府追加法武士の双六は許可、庶民は永久に禁止
1596年大名の禁制博奕はもちろん、双六など賭けに打つことは一切やめよ

九百年にわたって同じ遊びが禁じられ続けた例は、そう多くありません。

どんな人が双六を打っていたのか

十二単を着た平安時代の女性のイラスト

禁令の対象は役人や庶民だけではありませんでした。平安の物語や随筆をのぞくと、宮廷の女性たちが夢中になっている姿が書き留められています。

源氏物語で双六を打つ姫君

『源氏物語』の「常夏(とこなつ)」の巻に、近江の君が双六を打つ場面があります。物語のなかでも指折りに生き生きとした描写です。

「小賽、小賽」と手をすり合わせる

原文では、簾を高く張り上げて五節の君という若い女房と双六に興じています。手をしきりにすり合わせ「小賽(しょうさい)、小賽」と祈る声が早口で響く。小さい目が出てくれ、という願かけです。

相手の五節の君も負けじと筒をひねり、なかなかさいころを出そうとしない。やっていることは、いまの私たちと変わりません。自分の番には大きい目を、相手の番には小さい目を願う。

早口ではしゃぐ姿が示すもの

この場面は、双六が楽しいという話として書かれているわけではありません。早口でまくし立て、勝負にのめり込む振る舞いは、当時の貴族社会では品のないものとされていました。作者は近江の君のちぐはぐさを描くために、あえて双六を選んでいます。

言い換えれば、双六は「つい夢中になって我を忘れる遊び」という共通認識があったということです。禁令が繰り返された理由も、この一場面から透けて見えます。

枕草子の退屈しのぎ

清少納言は「つれづれなぐさむもの」という段に、碁・双六・物語と並べました。手持ちぶさたを慰めてくれるものの筆頭格に双六が入っているわけです。三つ四つの幼児のかわいい言い間違いや、果物と同じ列に置かれているあたりに、日常の遊びとしての位置づけが表れています。

賭けの道具として禁じられる顔と、退屈をまぎらわす友としての顔。双六はその両方を、同じ時代に持っていました。

さいころだけが抜け出して博打になった

駒を動かす手間を省き、さいころを振る部分だけを取り出した遊びが、平安時代には生まれていました。

攤から丁半博打へ

「攤(だ)」は、二個のさいころを振って出た目の大きいほうが勝ちという、それだけの遊びです。『西宮記』には天長七年(830年)の九月、庚申の夜に人が集まって攤を打っていたと記されています。これが変化して、のちの丁半博打になったと考えられています。

丁半(ちょうはん)博打とは、二個のさいころの出目の合計が偶数か奇数かに賭ける遊びです。時代劇でおなじみの「丁か半か」がこれにあたります。

七半・四一半・目増

派生はほかにもありました。二個のさいころの合計が七になれば親が掛け金の半分を取る「七半(しちはん)」。出た目の大きいほうが勝つ「目増(めまし)」や「目勝」。どれも十三世紀の史料に何度も顔を出します。どれも駒も盤もいりません。

盤双六は、これらの賭け事の親にあたる存在でした。取り締まる側から見れば、双六を野放しにすることは、さいころ博打の一族すべてを認めることに近かったのでしょう。

絵双六はどこから生まれたのか

両手を広げて説法をするお坊さんのイラスト

では、私たちが思い浮かべる紙のすごろくは、いつどこから来たのか。意外なことに、その出発点は遊びではなく、お寺の勉強道具でした。

始まりは僧侶の暗記道具

新纂浄土宗大辞典によれば、絵双六のもっとも古い形が作られたのは慶長年間より後です。修行を始めたばかりの僧へ、仏教の用語を覚えさせるための道具でした。

仏法双六・名目双六と呼ばれた

当初の呼び名は「仏法双六」あるいは「名目双六(みょうもくすごろく)」でした。名目とは仏教語のこと。僧が駒を進めながら、教えの言葉を後進へかみ砕いて教える道具だったと伝えられています。楽しませることより、覚えさせることが先にあったわけです。

さいころの目は数字ではなく「南無分身諸仏」

さいころも変わっています。六つの面に一から六の数を刻むかわりに、「南・無・分・身・諸・仏」の六文字を記したものが使われました。振るたびに仏の名を唱えることになる仕掛けで、遊びと勤行の境目が溶けています。

目に数字がないということは、進む数も面ごとに決められていたということです。紙の盤面には、どの字が出たらどこへ飛ぶかが書き込まれていました。

浄土双六の盤面

仏法双六から派生したのが「浄土双六(じょうどすごろく)」です。東京都立図書館は、絵双六のなかでもっとも古いといわれる、と紹介しています。

南閻浮洲を振り出しに極楽と地獄へ

振り出しは「南閻浮洲(なんえんぶしゅう)」、つまり私たちが暮らすこの世界です。そこから六道と諸仏のマスを渡り歩き、よい目が出れば極楽へ近づき、悪い目が続けば地獄へ落ちる。上がりに置かれたのは「仏」だとされます。

六道(ろくどう)とは、仏教で生きものが生まれ変わりを繰り返すとされる六つの世界のことです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つを指します。

万治・寛文に流行し宝永が最盛期

浄土双六が広まったのは万治・寛文のころ、1658年から1673年にかけてです。最盛期は宝永年間、1704年から1710年ごろ。後期のものになると七福神や妖怪、化け物が多く描かれるようになり、教えを伝える道具から正月の遊びへと重心が移っていきました。

盤双六と入れ替わった二つの理由

江戸時代に入ると、木版印刷が発達します。十九世紀に近づくころには、多色刷りの絵双六が安く出回るようになりました。買うのに財産がいらず、遊ぶのに相手の腕前もいらない。子どもと年長者が一緒に囲める遊びとして、絵双六は一気に広がります。

もう一方の盤双六は、禁令に追われ続けた末に江戸時代のうちに廃れました。技量が結果を左右するために賭けの対象になりやすく、そこを狙って取り締まられ、最後まで賭博の色を落とせなかったわけです。運まかせで、誰でも同じ土俵に立てる絵双六のほうが生き残った。皮肉といえば皮肉な入れ替わりでした。

江戸の絵双六は何を描いたのか

駕籠をかつぐ二人と、中に座る旅の女性のイラスト

仏教から離れた絵双六は、題材を選ばなくなります。国立国会図書館が公開している江戸の双六を眺めると、当時の関心がそのまま並んでいます。旅・出世・役者・妖怪・食べ物、といった具合です。

旅に出られない人のための道中双六

各地への旅を主題にした双六が「道中双六」と呼ばれるようになったのは、十七世紀末ごろのことです。街道と治安が整って旅がしやすくなった時代とはいえ、遠出はまだ多くの人にとって憧れでした。紙の上でなら、誰でも旅に出られます。

日本橋が振り出し、京都が上がり

安政四年(1857年)の「参宮上京道中一覧双六」は、日本橋を振り出しに、伊勢参りを経て京都を上がりとしています。安政二年(1855年)の「浮世道中膝栗毛滑稽双六」のように、人気の道中物を下敷きにしたものもありました。

「泊」のマスで一回休み

宿場を描いたマスには「泊」と書かれ、止まると一回休みになります。旅の実感をルールに翻訳した工夫です。順番にマスをたどる「廻り双六」でありながら、離れたマスへ飛ばす指示が書き込まれたものもあり、遊びの形は少しずつ複雑になっていきました。

出世を描いた双六

旅と並ぶ人気の題材が、身を立てる道のりでした。人生の上がりをどこに置くかは、時代の価値観がそのまま出ます。

手代奉公から長者へ、勘当のマスもある

「寿出世双六」では、手代奉公から大問屋を経て長者へ向かう商家の道と、儒者や医者といった学問の道が描かれます。上がりは「長者」と「隠居」。隠居料を取るなり、という一文まで添えられています。盤面には「勘当」「遁世」といった脱落のマスも並び、出世から外れる道筋も逃さず描かれました。

大奥の出世双六と寺子屋の手習双六

女性を主役にしたものもあります。「奥奉公出世双六」は大奥へ上がり、御末から老女、御部屋様へと昇っていく双六。「春興手習出精双六」は寺子屋が舞台で、振り出しは「弟子入りいろは」、上がりは学問の神様である亀戸天神でした。遊びながら、進むべき道の地図を覚えることにもなります。

役者も妖怪も餅も双六になった

題材はどこまでも広がりました。文久三年(1863年)の「俳優楽屋双六」は、劇場の楽屋裏をめぐる作りです。湯場・小道具部屋・立女形部屋・座頭部屋がマスになっています。ふだん入れない場所を紙の上で歩かせるあたり、現代の舞台裏特集と発想が変わりません。

妖怪を並べた百種怪談妖物双六

安政五年(1858年)の「百種怪談妖物双六」は、子どもたちが百物語をしている場面が振り出しです。お岩や海坊主、一本足が各マスに配され、上がりは古御所の妖猫。安政四年の「新版餅尽愛度双六」にいたっては、「もち」のつく言葉ばかりを集めた言葉遊び。振り出しは鑓餅、上がりは金餅です。題材が尽きたら言葉そのもので遊ぶ、というわけです。

いまの言葉に双六はどう残ったか

すごろくの盤を囲んで遊ぶ子どもたちのイラスト

盤双六は消え、絵双六も正月の定番の座を譲りました。それでも、双六が作った言い回しは日常語として残っています。

「振り出しに戻る」の振り出し

「振り出し」は、さいころを最初に振り始める場所のことです。盤面には、そこまで進んできた駒を出発点へ送り返すマスが仕込まれていました。積み上げた歩みが一手で無に帰る、あの悔しさが、そのまま慣用句になっています。

計画が白紙に戻ったときに使うこの言葉は、双六という遊びを知らない世代にも通じます。言葉だけが遊びより長生きした例です。

「上がり」の行き先は時代で変わった

上がりに何を置くかは、その時代が何をゴールと見なしていたかの記録でもあります。江戸の出世双六では「長者」や「隠居」でした。明治に入ると、同じ出世双六の上がりが大臣や留学へと移ります。

文明開化・教育・乗り物・国会、そして戦争。明治以降の絵双六は題材を次々に取り込み、印刷が木版から活版へ切り替わったことで大量生産もできるようになりました。上がりのマスを並べれば、そのまま近代日本の願望の年表になります。

廻り双六と飛び双六

絵双六には二つの形があります。マスを順番にたどっていく「廻り双六」と、出た目によって離れたマスへ一気に飛ぶ「飛び双六」です。出世双六には飛び双六が多く、一足飛びの昇進も転落も、さいころひとつで起きました。

一回休みのマスが作られたのも、この工夫の延長線上にあります。私たちが当たり前に遊んでいるルールの多くは、江戸の絵師たちが考え出したものでした。

「双六」という名前はどこから来たのか

文字がびっしり書かれた古い書物のイラスト

最後に、名前そのものの話をしておきます。六が二つ並ぶこの表記には、昔から説明が試みられてきました。

二つとも六が出れば勝つ、という説

江戸時代の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』は1712年に、二つのさいころがどちらも六の目を出せば必ず勝てるから、この字を当てたのだと説いています。ただし、これは千年後の人が振り返って書いた解釈です。平安時代の辞書『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には「須久呂久」という仮名書きが見え、音が先にあった可能性もうかがえます。

由来をたどると、インドの経典に出てくる遊戯の名にまでさかのぼる説もあります。どの説も決め手を欠いており、名前の出どころは今も定まっていません。

正倉院の「双六局」四具のうち三具には疑いがある

正倉院の中倉172番には、双六局と名づけられた盤が四具あります。ところが宮内庁の解説を読むと、そのうち第一号・第二号・第四号には指摘が添えられています。盤面の縁に立ち上がりがなく、おはじき盤ではないか、と。

これらに双六局の名がついたのは明治時代のこと。千二百年前の道具であっても、名前のほうは案外新しいことがあります。第三号だけは、北倉の木画紫檀双六局と形も大きさも作りもよく似ており、こちらは双六の盤と見てよさそうです。

雑誌の付録として生き延びた絵双六

明治の末から、絵双六は少年少女雑誌の新年号付録として定着します。明治37年から38年の日露戦争のころに手作りの錦絵が姿を消し、機械刷りの大量生産へ移ったことが、付録という配り方と噛み合いました。大正になって雑誌が急増すると、付録の双六も一緒に増えます。

戦後はテレビやゲームに押されて衰えましたが、いまも雑誌の付録や玩具として、細々と作られ続けています。禁じられ続けた側が消え、刷られ配られた側が残った。千三百年の勝負としては、なかなかの逆転劇です。

盤双六は、振り出しに戻ることのない遊びでした。相手陣へ送り込んだ駒は帰ってこないし、消えた遊びも帰ってきません。かわりに、紙のほうの双六が「振り出しに戻る」という言葉を私たちの口に残していきました。上がりを取ったのは、賭けの強い遊びではなく、家族で囲めた一枚の紙だったということになります。

参考

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