ギリシャやトルコでは、あごを上げながら「チッ」と舌を鳴らすと「いいえ」という返事になります。この使い方はモロッコから地中海と中東を通って南アジアまで帯のように続いています。日本の舌打ちは苛立ちや不満を表す音で、返事の代わりにはなりません。違いは、この音が「はい・いいえ」を伝える言葉として働くか、気持ちを漏らすだけの音にとどまるかにあります。
舌打ちが「いいえ」になるのはどこの国?

「いいえ」の舌打ちが使われるのは、特定の一国ではありません。地図の上で一本の帯になって広がっています。帯の上では言語の系統も宗教もばらばらで、国境とも重なりません。
モロッコから南アジアまで続く一本の帯
世界の言語の特徴を比べたデータベース「WALS」は、否定の舌打ちの分布をこう書いています。西はモロッコから始まり、地中海と南ヨーロッパを横切って中東とコーカサスの一部へ。さらに東へ延びて、南アジアの亜大陸で薄れていく、という帯です。
※ WALS(The World Atlas of Language Structures=世界言語構造地図)とは、世界中の言語の文法や音の特徴を項目ごとに比べ、地図の形で公開している言語学のデータベースです。
ギリシャとトルコでは頭をそらす動きとセット
この「いいえ」は音だけで終わらないことが多いようです。WALSは古い記録を引いて、頭を後ろへそらしながら舌を鳴らす動作が、現代のギリシャ人とトルコ人のあいだで否定として使われると紹介しています。英語版ウィキペディアの「クリック子音」の項目も、地中海から中東にかけて頭を上へ傾ける動きを伴う舌打ちを「ノー」の合図として挙げています。音と動きがひと組の返事というわけです。
ヘブライ語では感情の色がほとんどない
帯の上にあるヘブライ語についての記述は、とりわけ目を引きます。一回の舌打ちには感情の意味がほとんど無く、単純に「否定」という論理的な意味を表すというのです。
同じ帯の例として、アラビア語の各方言・トルコ語・ギリシャ語も挙がっています。系統のまったく違う言語どうしが、同じ音に同じ意味を持たせているわけです。
日本の舌打ちは、世界の中でどこに入る?

日本語は「気持ちを表すだけ」の側に入ります。WALSの同じ章が、世界の言語をこの音の使い方で三つに分けているからです。
143の言語を三つのグループに分けた比較
章を書いたのは言語学者のデイヴィッド・ギルです。143の言語を調べ、舌打ちなどのクリック音が言葉の外側でどう使われるかを次のように分類しました。
| グループ | 舌打ちの働き | 言語の数 | 例 |
|---|---|---|---|
| 返事に使う | 「はい」「いいえ」を伝える | 47 | ヘブライ語・ソマリ語 |
| 気持ちだけ | 苛立ちや感心などを表す | 71 | 日本語・英語・スワヒリ語 |
| どちらでもない | 決まった役割を持たない | 25 | ケット語・ラフ語 |
日本語は「気持ちだけ」の71言語の側
日本語は二つ目のグループに名前が挙がっています。「チッ」は返事の代わりにならず、話し手の気分を添えるだけの音です。英語やスワヒリ語も同じ側に入ります。
つまり、日本と「いいえ」の国の違いは音の出し方ではありません。同じ音を、言葉として使うか気分の表れとして聞くかの違いです。
アフリカから離れるほど役割が軽くなる
ギルはもっと大きな傾向も指摘しました。クリック音の役割の重さは、アフリカから北へ東へと離れるほど下がっていくというのです。役割を持たない三つ目のグループは北シベリアとビルマ(ミャンマー)で現れ始め、北東アジアと北米で多数派になる、という見取り図です。
ただしギル自身は、この模様が古い時代のものか最近の借用によるものかは、まだ判断できないと断っています。
「はい」の意味で舌を鳴らす言語もある?

答えは「ある」です。返事に使う47言語のなかには、舌打ちを「はい」に割り当てる言語も入っています。しかも「いいえ」の帯のすぐそばに。
ソマリ語は舌の横で鳴らして「はい」
WALSによると、ソマリ語では舌の横から鳴らす「側面のクリック」が肯定を表します。英語圏で馬を走らせる合図に使われるのと同じ種類の音で、日本の「チッ」とは鳴らす場所が違います。
ソマリ語が話されるアフリカの角は、アラビア半島と海を挟んですぐ向かいの土地です。中東に延びる「いいえ」の帯とは目と鼻の先なのに、鳴らす場所も意味も正反対です。
モーリタニアのフラ語は回数で「はい」と「いいえ」
もっと細かく使い分ける言語もあります。モーリタニアのフラ語では、歯の裏で一回鳴らせば「はい」、同じ音を二回続ければ「いいえ」になります。ここまでくると、舌打ちは気持ちの漏れではありません。回数で意味が変わる、立派な語彙の一部です。
旅先ではどんな行き違いが起きる?

同じ音に逆の意味がついている以上、行き違いはどちらの向きにも起こりえます。
「チッ」と鳴らされても怒っているとはかぎらない
たとえばトルコやギリシャの店で「これはありますか」と聞き、店の人があごを軽く上げて舌を鳴らしたとします。帯の上の地域なら、これは「ない」という短い返事にすぎません。日本の感覚で聞くと、質問したこと自体を不快がられたように感じてしまいます。
日本人の舌打ちが「ノー」に聞こえることも
逆向きの行き違いもありえます。話を聞きながら思わず「チッ」と鳴らせば、相手には苛立ちではなく「いいえ」という答えとして届くかもしれません。
英語圏の人に向けた場合も油断はできません。後で触れるように、英語の舌打ちには非難の響きもあるからです。
縦の首の動きは否定に見えにくい
動作の側にも落とし穴があります。日本では否定といえば首を横に振る動きです。あごを上げて頭をそらす縦の動きは、どちらかといえば「上を向いて考えている」ように見えます。
音も動作も、日本の感覚では否定のしるしに読めない組み合わせです。だからこそ、知らないと気づかないまま話が進んでしまいます。
英語の「tsk tsk」はどんな気持ちの音?

英語の舌打ちは日本語と同じく「気持ちだけ」の側です。ただ、込められる気持ちの幅は思ったより広く、会話の区切りとして鳴ることもわかってきました。
「tut tut」は歯の裏で鳴らす舌打ち
英語では舌打ちを「tut tut」や「tsk tsk」と書きます。WALSによると、これは舌先を歯の裏に当てて鳴らす「歯音のクリック」で、日本語の「チッ」と同じ種類の音です。
つづりはあくまで当て字です。英語版ウィキペディアは、こうした音が舌の前側しか使わず、普通の子音のように母音とつながらない音だと説明しています。だからアルファベットでは書き写しきれません。
苛立ちだけでなく感心にも使われる
WALSは英語の「tut tut」を、苛立ち・じれったさ・落胆を表すのに最もよく使われる音としています。一方で、このグループの言語が表す気持ちには驚きや感心といった明るい側も含まれる、という説明も添えられています。
同じ音が、たしなめにも感心にも使えるわけです。気持ちの向きまでは音が決めておらず、場面と表情が決めています。
会話の切れ目に鳴っている舌打ち
英国ヨーク大学のリチャード・オグデンは2013年、英米の実際の会話録音を調べた論文を国際音声学会の学術誌に発表しました。舌打ちは一般に否定的な気分の音と思われてきましたが、話の順番を区切ったり言葉を探したりする場面でも鳴っていたのです。オグデンは、この音の意味は前後の会話全体の中で考えなければならないと結論づけています。
舌打ちの音が子音になっている言語とは?

世界には、舌打ちに近い音を単語の中の子音としてそのまま使う言語があります。南部アフリカの言語がその代表です。
肺の息を使わずに鳴らす吸着音
クリック音は、口の中の前と後ろの二か所を舌で閉じてつくります。閉じ込めた空気を舌の吸い込む動きでうすめ、前の閉じ目を開いた瞬間に鳴る仕組みです。肺の空気を使わないので、普通の呼吸とは切り離して鳴らせるのが特徴です。
※ 吸着音(きゅうちゃくおん・クリック音)とは、肺から出す息ではなく、口の中の空気を舌で吸うことによって鳴らす子音のことです。
コサ語の c・x・q は三種類のクリック
南アフリカのコサ語では、三つの文字がクリックに割り当てられています。c は歯の裏・x は舌の横・q は上あごの奥寄りで鳴らす音です。息の出し方などの違いと組み合わさって、クリック子音は15種類(鼻音の前置きを含めれば18種類)にのぼります。
言語の名前「Xhosa」の X も、舌の横で鳴らすクリックです。カタカナの「コサ」では、いちばん大事な音が消えてしまうのです。
タア語は基本語の8割がクリックで始まる
ボツワナを中心に約2,500人(2011年時点)が話すタア語は、音の種類が世界で最も多い言語の一つとされます。クリック子音の数は分析の仕方で20とも43とも数えられ、基本的な語彙の82%がクリックで始まるという調査もあります。
日本語の「か行」くらいの身近さで、あの舌打ちの音が単語の頭に座っているわけです。
クリック子音はどこまで広がっている?

言葉の子音としてのクリックは、ごく限られた地域にしかありません。その散らばり方にも歴史がにじんでいます。
コサ語はコイサン系の言語から音を借りた
コサ語はバントゥー系の言語で、祖先の言葉にはクリックがありませんでした。隣り合って暮らしたコイサン系の言語から取り込んだと考えられています。コサ語の語彙の約15%がコイサン系に由来するという見積もりもあります。
タンザニアとケニアに残る飛び地
南部アフリカの外でクリックを子音として使うアフリカの言語は、三つしかありません。タンザニアのサンダウェ語とハヅァ語、ケニアのダハロ語です。WALSも、音の単位としてのクリックは南部アフリカとタンザニアにしかないと書いています。
オーストラリアの儀礼の言葉「ダミン」
アフリカの外で唯一の例が、オーストラリアのダミンです。日常の言葉ではなく、成人の儀礼にまつわる特別な話し方で、そこにクリックが音の単位として組み込まれていました。
ふだんの言葉とは違う音をわざわざ用意するとき、舌打ちの音が選ばれた。この音には「特別さ」を示す力もあるのでしょう。
日本語の舌打ちに「おいしい」の意味がある?

日本語の舌打ちも、実は一色ではありません。辞書を引くと、苛立ちとは逆向きの意味が並んでいます。
辞書の二つ目の意味は「舌鼓」
デジタル大辞泉は「舌打ち」の一つ目の意味を、舌を上あごに当てて鳴らす、いまいましさや苛立ちを表すしぐさと説明します。二つ目の意味は短く「したつづみ」です。
用例には国木田独歩の小説『非凡なる凡人』の「一膳めしに―鳴らすか」が引かれています。安い食事に舌を鳴らす場面で、苛立ちの音ではありません。
「舌鼓」の最古の用例は1540年の俳諧
精選版日本国語大辞典によると、「舌鼓を打つ」の一つ目の意味は、舌を鳴らして鼓のような音を出すことです。用例は1540年の俳諧『飛梅千句(とびうめせんく)』までさかのぼります。
二つ目の意味は、うまいものを食べたとき、または不愉快や不満を感じたときに舌を鳴らすこと。この意味の古い記録として、1603〜04年の『日葡辞書(にっぽじしょ)』が挙がっています。
1698年にはすでに「憎い奴」の舌鼓
同じ辞典は、1698年の浮世草子『新色五巻書』から「さりとは憎い奴と舌つづみ討つ」という一節を引いています。300年以上前の舌鼓が、もう不満の音として鳴っていたわけです。
「おいしい」と「憎らしい」は、日本語の中で昔から同じ音を分け合ってきました。今は苛立ちの側が前に出ているにすぎません。
中国語の「嘖嘖」は感心にも嫌悪にも
隣の中国語にも、舌を鳴らす音を写した「嘖嘖(zézé)」という言葉があります。驚き・感心・同情・嫌悪などを表す音とされ、使い道は日本語より広めです。「嘖嘖稱奇」なら舌を鳴らして不思議がること。「嘖嘖讚嘆」なら舌を鳴らして褒めたたえることを指します。
馬や赤ちゃんに向けて鳴らす舌打ちもある?

舌打ちの相手は人だけではありません。動物や赤ちゃんに向ける舌打ちも、言葉の外側の大事な使い道です。
馬を走らせる合図の「tchick」
WALSによると、英語の話し手の一部は赤ちゃんや家畜に話しかけるとき、舌の横や上あごで鳴らす別のクリックを使います。目的は注意を引くことや何かを促すことで、馬なら走らせる合図です。英語版ウィキペディアはこの音を「tchick」と書き表しています。
蹄の音をまねる「clip-clop」もクリック
子どもが馬の蹄の音をまねる「clip-clop」も、上あごの前寄りで鳴らすクリック音として説明されています。日本語なら「パカパカ」にあたる遊びの音です。苛立ち・返事・動物への合図・蹄のまね。どれも同じ舌の動きが引き受けてきた仕事です。
舌打ちは声を使わず、どの国の人でも同じように鳴らせます。それでも意味を決めるのは鳴らした側ではなく、聞いた側の耳です。モロッコでは「いいえ」、ソマリアでは「はい」、日本では不機嫌。たった一音の「チッ」ほど、通訳を必要とする音はないのかもしれません。
参考
- WALS Online Chapter 142 “Para-Linguistic Usages of Clicks”(David Gil)
- University of York「Clicks and percussives in English conversation」
- 精選版 日本国語大辞典「舌鼓を打つ」(コトバンク)
- デジタル大辞泉「舌打ち」(コトバンク)
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