「士農工商」が教科書から消えたのは、研究が進み、この言葉では江戸時代の身分社会を正しく表せないと分かったからです。武士が支配する側だったのは確かですが、百姓と町人のあいだに上下の決まりはありませんでした。公家や僧侶、医者のように四つに収まらない身分もあります。東京書籍の小学校教科書では、平成12年度版から使われていません。
士農工商が教科書から消えたのはなぜ?

東京書籍が挙げた二つの理由
教科書会社の東京書籍は、読者からの質問に答える形で理由を公開しています。一つは、江戸時代の身分が武士・百姓・町人だけではなかったことです。皇族や公家、僧侶や神官のほか、芸能者・絵師・学者・医者など多くの立場の人がいました。四つの文字で社会全体を言い表すのは無理がある、という判断です。もう一つは、上から順に並べたピラミッドの図が実態と合わないことでした。支配する側は武士でしたが、武士以外の身分のあいだに、基本的な上下の関係は無かったとされています。
小学校では平成12年度版から
東京書籍によると、小学校の社会科教科書では平成12年度版から「士農工商」を身分制度の用語として使っていません。見直しの根拠には、近世の歴史や部落の歴史の研究が挙げられています。1995年の論文をはじめとする研究で、それまでの理解が修正されたという説明です。大人の多くが太字で覚えた言葉ですが、今の小学生の教科書には出てきません。親子で歴史の話をすると、ここで話がかみ合わないことがあります。
「四民平等」も平成17年度版で姿を消した
明治の改革を表す「四民平等」も、同じ東京書籍の小学校教科書では平成17年度版から使われなくなりました。「四民」はもともと「天下のすべての民」という意味で、小学生に説明しにくいという声があったためです。「四民平等」は政府が付けた正式な名前ではなく、明治政府の身分政策をまとめて呼ぶ言い方でした。今の教科書は「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」と書いています。
もとは中国で「すべての民」を指す言葉

『管子』の「石民」は国の柱
この四つを並べる言い方は、日本で生まれたものではありません。古代中国の書物『管子(かんし)』に「士農工商の四民は石民なり」という一節があります。「石民」とは、国を支える礎石のように大切な民という意味です。ここで並んでいるのは偉さの順番ではなく、国を成り立たせる四つの仕事でした。四つを挙げることで、国じゅうの人々をまとめて言い表していたわけです。
※ 四民(しみん)とは、士・農・工・商の四つをまとめた呼び方です。本来は「天下万民」、つまり世の中のすべての人を指しました。
『漢書』が説明した四つの仕事
中国の歴史書『漢書(かんじょ)』は、四つの仕事をそれぞれ説明しています。士は学問を身につけて官職に就く人。農は土地を耕して穀物を育てる人。工は技で道具や品物を作り、商は財やものを行き渡らせる人です。つまり中国での「士」は、刀を差した戦士ではなく、学問で役所に仕える人でした。この意味の違いが、日本に入ってから大きく動いていきます。
「老若男女」と同じ並べ方
感覚としては「老若男女」に近い言葉です。老人と若者と男と女を並べて「みんな」を表すように、四つの仕事を並べて「あらゆる人」を表していました。「老若男女」を見て、老人がいちばん偉いと読む人はいません。並べる順が先だからといって、それが上下の順とは限らないのです。
日本で「士」が武士になったのはいつ?

『神皇正統記』の「士」は役人
南北朝時代の1339年ごろ、北畠親房(きたばたけちかふさ)が書いた『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』にも「四民」が出てきます。ここでの「士」は役人のことで、中国の『漢書』とほぼ同じ意味でした。この時代はまだ、武士と農民がはっきり分かれていません。中国の考え方を、そのまま日本語に移した使い方だったとみられています。
17世紀初めの辞書ではすでに「サブライ」
17世紀の初めにイエズス会が刊行した『日葡辞書(にっぽじしょ)』は、四民を「ヨツツノタミ」と説明しています。中身は「サブライ・ノウニン・タクミ・アキュウド」。サブライは侍のことで、ここでは「士」がもう武士を指しています。平凡社の『世界大百科事典』は、およそ2世紀のあいだに「士」が武士の意味へ変わったと述べています。豊臣秀吉の時代に武士と農民が分けられ、武士の身分が固まっていったことと重なる変化です。
※ 日葡辞書とは、日本語をポルトガル語で説明した辞書です。当時の話し言葉が数多く載っており、日本語の歴史を調べる手がかりになっています。
室町時代の謡曲にも出てくる
四文字そろった形も、江戸時代より前から使われていました。『日本国語大辞典』は、1465年ごろの謡曲「善知鳥(うとう)」にある「士農工商の家にも生まれず」を用例に挙げています。殺生を重ねた猟師の霊が嘆く場面の言葉で、「世の中のまっとうな仕事の家に生まれなかった」という意味合いです。ここでも順位ではなく、普通の暮らしを営む人々をまとめて指していました。
江戸の社会は四段のピラミッドではない

武士と、村の百姓と、町の町人
江戸時代の社会は、まず支配する側の武士と、それ以外の人々に分かれていました。武士以外の多くは、村に住む「百姓(ひゃくしょう)」と、城下町などに住む「町人(ちょうにん)」です。百姓と町人を分けたのは、仕事の中身より住んでいる場所でした。村に住めば百姓、町に住めば町人という区分です。役所が人々を把握する単位も、村と町で別々でした。
人口の8割以上は百姓
江戸時代には全国の正確な人口統計がありません。小学校の教科書(教育出版)では、総人口を約3,200万人と推定したうえで、次のような割合を示しています。
| 身分 | 割合のめやす |
|---|---|
| 百姓 | 約85% |
| 武士 | 約7% |
| 町人 | 約5% |
| 公家・神官・僧など | 約1.5% |
| 差別された人々 | 約1.5% |
支配する側の武士は、全体から見ればごく少数でした。どれも推定の数字なので、細かな値より「ほとんどが村の百姓」という形をつかむのがよさそうです。
四つに収まらない人々
表の「その他」にあたる人々も、社会の大事な一部でした。朝廷に仕える公家や、寺の僧侶・神社の神官がいました。芸能を生業にする人や学者・医者もここに入ります。有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』にも、医者は士農工商のどれにも属さないという趣旨の場面があります。四文字の枠から外れる人が、現実にはたくさんいたのです。
「百姓」は農民と同じ意味?

漁師も林業の人も村に住めば百姓
「百姓」と聞くと田畑を耕す農民を思い浮かべがちです。けれども実際の百姓には、海で魚をとる漁師や、山で木を扱う人々も含まれていました。『世界大百科事典』の「百姓」の項目も、農と百姓は同じ意味ではないと注意しています。「農民」と言い換えると、こうした海や山の暮らしがこぼれ落ちてしまいます。言葉のずれが、江戸の村のイメージを狭くしていたのです。
村の職人は百姓として年貢を納めた
職人が住んでいたのは町だけではありません。村で鍛冶や大工の仕事をする人も、土地の帳簿に名前が載り、百姓として年貢(ねんぐ)を納めていました。同じ「工」の仕事をしていても、村にいれば百姓、町にいれば町人として扱われたわけです。仕事で四段に分けたという通説では、この姿が説明できません。
役目を果たす人として分けられた
江戸の身分は、それぞれが社会に負う役目と結びついていました。百姓は年貢と百姓役、町の職人は職人役、土地を持つ町人は伝馬役(てんまやく)を負います。武士には戦に備える軍役がありました。
※ 伝馬役とは、街道を行き来する公用の荷物や人のために、馬や人足を用意する負担のことです。
職人と商人に上下はあった?

町人は町に住む人のまとまり
町人は、城下町などの町に住む人々のまとまりです。店をかまえる商人もいれば、ものを作る職人もいました。「工」と「商」は別々の段ではなく、同じ町人の中での仕事の違いにすぎません。町ごとの自治の組織は、そのまま行政の窓口にもなりました。17世紀の終わりごろからは、職人が労働で納めていた負担もお金で納める形へ変わっていきます。
「農は工商より上」は武士の側の見方
農を工や商より上に置く考え方の出どころは、年貢を納める農を重んじ、ものを作らない商を低く見る武士の価値観です。『旺文社日本史事典』は、この順は法律で決めたものではなく、三者のあいだに法的な差別は無かったと説明しています。『世界大百科事典』も、農工商の順位は実態としては存在しなかったと書いています。暮らしの差を生んだのは身分の段ではなく、貧しいか豊かかという個々の事情でした。
武士より豊かな商人もいた
江戸時代の後半には、大きな富を持つ商人が現れました。財政に苦しむ大名が、豪商からお金を借りることも珍しくありません。町人が養子に入って武士の家を継ぐような例もありました。商人が「いちばん下」という図とは、ずいぶん違う光景です。
差別がなかったわけではない

名字と帯刀は武士の特権
「上下が無かった」のは、武士以外の身分どうしの話です。武士と、それ以外の人々のあいだには、はっきりした違いがありました。名字を名乗り、刀を差すことは武士の特権とされ、政治を動かすのも武士でした。住む場所や仕事を自由に選べたわけでもありません。明治になって職業や移転の自由が認められたことは、裏を返せば江戸時代にはそれが無かったことを示しています。
社会の「外」に置かれた人々
武士・百姓・町人とは別に、「えた」「ひにん」などと呼ばれ、厳しい差別を受けた人々がいました。住む場所や服装、ほかの身分の人との交わりまで制限されています。東京書籍によれば、こうした人々はピラミッドの「底辺」ではなく社会の「外」に置かれ、武士の支配を受けていました。厳しい差別の中でも荒れ地を耕して年貢を納めたり、生活に欠かせない道具を作ったりして社会を支えていたのです。
図をやめるのは差別を見るため
「士農工商という序列は無かった」は、「江戸に差別は無かった」という意味ではありません。四段の図の下に被差別の人々を描き足す形では、差別がどこから来たのかが見えにくくなります。実在した差別を正しく知るためにも、事実と合わない図は手放したほうがよい。教科書の書き換えには、そうした考えも込められています。
明治の「四民平等」で何が変わった?

華族・士族・平民への組み替え
1869年(明治2年)の版籍奉還(はんせきほうかん)で、公家や大名は「華族」、上級の藩士は「士族」とされました。下級の武士はいったん「卒族」に分けられ、1872年に士族か平民へ振り分けられます。百姓と町人は、まとめて「平民」になりました。身分の区分そのものが消えたのではなく、新しい呼び名で組み替えられたという見方もできます。
平民の名字と1871年の布告
1870年には平民が名字を名乗ることが許され、この布告が「平民」という呼び方の始まりとされます。1871年には華族・士族と平民の結婚が認められ、翌年にかけて職業の自由も広がりました。同じ1871年、「えた」「ひにん」などの呼び名を廃止し、身分も職業も平民と同じにするという布告が出ます。ただ、呼び名を改めただけで、暮らしを変える手立ては伴いませんでした。
身分の意識は長く残った
1872年に作られた壬申戸籍(じんしんこせき)には族称が書き込まれ、差別的な呼び方も広まりました。士族の特権は、徴兵令や廃刀令(1876年)などで順に失われていきます。戸籍の上で身分を書く仕組みがなくなるのは、1914年の戸籍法の改正です。法の上で平等をうたっても、人々の意識はすぐには変わりませんでした。
序列の読み方は儒学者が広めた

国の仕組みを説明する言葉になった
江戸時代の儒学者たちは、中国の古典の言葉を借りて、幕府と藩の政治の仕組みを説明しました。「士農工商」はその中で、治める側の考えを表す大事な言葉になっていきます。町人に生き方を説いた石田梅岩(いしだばいがん)の『都鄙問答(とひもんどう)』にも、四民を治めるのは君主の役目で、君主を助けるのが四民の役目だという趣旨の言葉があります。人はそれぞれの役目で社会の役に立つ、という考え方です。
考え方の順が「制度」に見えた
儒学の考えでは、生産を担う農を重んじ、商を低く見る傾向がありました。多くの辞典が「武士を最上位、商人を最下位とした」と書くのは、この考え方の順を説明したものです。考え方としての順と、実際の決まりとしての序列は別物です。かつての教科書は前者を後者のように図にし、四段のピラミッドが「江戸の身分制度」として覚えられていきました。
士農工商は、もとをたどれば国を支えるすべての人を指す言葉でした。それが武士の時代に順のついた図として読まれ、研究によって再び描き直されています。教科書から消えたのは言葉だけで、江戸の人々の暮らしを見る目は、むしろ細やかになりました。
参考
- 東京書籍FAQ「『士農工商』や『四民平等』の用語が使われていないことについて」
- コトバンク「士農工商」(世界大百科事典・日本国語大辞典・旺文社日本史事典ほか)
- コトバンク「四民平等」(世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
- 小郡市 人権学習資料(江戸時代の身分別人口の割合)
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