1901年に発表された最初の論文に、O型という言葉は出てきません。そこに並んでいたのは、A型・B型・C型の三つでした。
いま私たちが当たり前に使っているA・B・AB・Oという四文字は、発見された瞬間に決まったものではありません。三番目の型が改名され、ローマ数字で呼ぶ流儀と争い、最後は国際会議で決着した呼び名です。四文字の出どころを一つずつたどっていくと、いまだに出所のはっきりしない一文字が残ります。
四つの文字のうち、出どころが決まっていないのは一つだけ

先に答え合わせをしておきましょう。A・B・ABの三つについては、なぜその文字なのかがはっきりしています。残るOだけが、二つの説のあいだで宙に浮いたままです。
| 文字 | 名前が付いた時期 | 何から来たか |
|---|---|---|
| A・B | 1900〜1901年 | 血液を固める物質に振った通し記号。アルファベット順という以上の意味は込められていないとされる |
| AB | 1902年に発見/のちにABと命名 | AとBを両方持っていることを、そのまま文字の足し算で表した |
| O | 1910年ごろ | ドイツ語の ohne(なし)の頭文字とする説と、数字のゼロとする説がある。決着していない |
| Rh | 1940年 | 実験に使ったアカゲザル(rhesus)。ただし後年、サルの抗原とヒトの抗原は別物だと判明した |
表の最後の行にあるRhは、由来そのものははっきりしています。困ったことに、由来が分かっているのに名前が的を外していた、という珍しい例です。こちらは記事の終わりで扱います。
AとBは、意味を持たない通し記号だった

AとBという文字に、深い意味はありません。二種類の物質が見つかったので、順にAとBと呼んだ。それだけのことです。
六人分の血液を、総当たりで混ぜてみた
始まりは1900年の短い注記
オーストリアの病理学者カール・ラントシュタイナー(1868〜1943)は、ウィーン大学の病理解剖学研究所で働いていました。1900年に発表した論文の注記で、健康な人どうしの血液を混ぜても固まることがある、と書き添えています。当時は病気のせいだと考えられていた現象でした。
翌1901年、彼はこの現象を正面から扱った論文を出します。血液型の発見と呼ばれているのは、この仕事です。
材料は、自分と同僚五人
実験の材料は、大がかりなものではありませんでした。自分と研究所の同僚五人、あわせて六人分の血液です。これを血清と血球に分け、誰の血清に誰の血球を入れると固まるかを総当たりで確かめました。
※ 血清(けっせい)とは、血液を固まらせたあとに残る上澄みの液体のことです。赤血球などの細胞成分(血球)を取り除いた部分で、相手の血球を攻撃する抗体はこちら側に含まれています。
結果は、でたらめではありませんでした。固まる組み合わせと固まらない組み合わせが、きれいな規則にしたがって並んだのです。
凝集を起こす物質に、AとBを振った
順番に付けた、それだけの記号
ラントシュタイナーは、赤血球の側にある「固められる物質」が二種類あると考えました。そして一方をA、もう一方をBと呼びます。AがなぜAなのかを説明する必要がないほど、素っ気ない命名でした。二つあるから、AとB。血液型の名前は、この最小限の記号から始まっています。
※ 抗原(こうげん)とは、体の免疫が「自分のものではない」と見分ける目印になる物質のことです。赤血球の表面にあるA抗原・B抗原が、ABO式血液型の正体にあたります。
AとBは、互いを固め合う
A型の人の血清は、B型の人の赤血球を凝集(ぎょうしゅう)させます。逆もまた同じです。自分が持っていない目印に対してだけ、体はあらかじめ攻撃の準備をしている。輸血で人が亡くなる事故が起きていた理由が、ここで初めて説明できるようになりました。
三番目の型は「C」だった
消去法で付いた名前
六人のうち何人かは、AにもBにも当てはまりませんでした。その血球はA型の血清でもB型の血清でも固まらず、逆に本人の血清は両方を固めます。この三番目のグループを、ラントシュタイナーはCと呼びました。A・B・Cと並べただけの、機械的な三番目です。
1902年、弟子二人が四番目を見つける
四つ目の型は、翌々年に見つかります。同じ研究所にいたアルフレート・フォン・デカステロとアドリアーノ・シュテュルリが1902年、AでもBでもCでもない例を報告しました。頻度が低いため、六人程度の実験では出てこなかったのです。日本人でいえば、AB型はおよそ十人に一人ほどにあたります。
「C」が「O」に変わった、1910年の改名

CをOに変えたのは、ラントシュタイナー本人ではありません。改名はドイツで、別の研究者たちの手によって起きました。
遺伝の研究の途中で、名前が入れ替わった
親から子へ受け継がれることを示した二人
1910年、エミール・フォン・デュンゲルンとルドヴィク・ヒルシュフェルトが、血液型は親から子へ受け継がれる形質だと示す研究を発表します。発見から十年、血液型はようやく「体質の分類」から「遺伝するもの」へと格上げされました。
この一連の論文の中で、二人はA・B・AB・Oという呼び方を使いました。現在の四文字がそろって世に出たのは、このときです。
四番目の型に「AB」という足し算の名を与えた
ABという表記も、この整理から生まれています。Aの目印とBの目印を両方持っているのだから、文字も両方書く。四つの型のうち、いちばん理屈がすっきりしているのがAB型の名前です。
ohne(なし)なのか、数字のゼロなのか
「AもBもない」の頭文字だとする説
広く知られているのは、ドイツ語の ohne(オーネ/〜なしで)の頭文字だとする説です。AもBも持たない型なので、ohne A und B の O だという説明になります。日本語の一般向け解説でも、この説明を採るものが多く見られます。
そもそも文字ではなく数字だった、とする説
もう一つが、あれは数字のゼロだったとする説です。ドイツ語圏では「何もない」をゼロで表す習慣があり、初期の論文でもゼロと読めるしるしが使われていた、という見方になります。2001年の論文「Also sprach Landsteiner」は、混乱の出どころがデュンゲルンとヒルシュフェルトの初期の論文にあると指摘したうえで、最終的に文字のOに落ち着いた経緯をたどっています。
百年以上使われてきた一文字の出所が、まだ確定していない。血液型の名前をめぐる話で、いちばん収まりの悪い部分です。
ドイツ語圏では、いまも「0」と書く
国によって表記が違ったまま残った
この決着のつかなさは、現在の書き方にそのまま残っています。英語圏や日本ではアルファベットのOを使いますが、ドイツをはじめとする一部のヨーロッパの国では数字のゼロを使います。同じ血液型を指しているのに、書かれる文字が国境で変わるわけです。
ゼロ表記の国では、献血カードにも「0 Rh+」のような並びが印字されるとされます。日本人の目には誤植に見えますが、あちらが本来の姿だったという可能性も残っています。
ローマ数字派との二十八年——「I型」が正反対を指した

A・B・AB・Oが世界の共通語になるまでには、さらに時間がかかりました。同じころ、血液型をローマ数字で呼ぶ流儀が二つ、別々に広まっていたからです。
チェコのヤンスキーが付けた I〜IV(1907年)
四つの型を最初に整理したのはこちら
チェコの医師ヤン・ヤンスキーは1907年、四つの血液型をI・II・III・IVというローマ数字で整理して発表しました。四つそろえて示した最初の分類として知られています。ただし発表の場が地元の学術誌だったため、国際的に知られるのが遅れました。
対応は、I型が現在のO型。以下II型がA型・III型がB型・IV型がAB型と続きます。
呼び名としては消えたヤンスキーですが、故郷での扱いは手厚いままです。チェコでは献血の回数に応じて「ヤンスキー章」が贈られていて、銅章が10回、銀章が20回の目安。名前は分類からではなく、献血の表彰台のほうに残りました。
アメリカのモスが付けた I〜IV(1910年)
両端がそっくり入れ替わっていた
問題は、アメリカの医師ウィリアム・L・モスが1910年、ヤンスキーの分類を知らないままほぼ同じ四分類を発表したことでした。中身は同じでも、番号の振り方が違います。モスのI型は現在のAB型、IV型はO型。ヤンスキーとは、両端がそっくり入れ替わっていました。
| いまの呼び方 | ヤンスキー式(1907年) | モス式(1910年) |
|---|---|---|
| O型 | I | IV |
| A型 | II | II |
| B型 | III | III |
| AB型 | IV | I |
どちらの流儀かで、輸血の意味が反転する
カルテに「I型」と書かれていても、書いた医師がどちらの流儀かで中身が正反対になります。しかもモス式はイギリス・フランス・アメリカで、ヤンスキー式はヨーロッパ大陸の多くの国で使われました。輸血の現場で、これ以上に危ない食い違いはそうありません。
1928年、国際連盟が文字の側に決めた
1921年の勧告は効かなかった
1921年、アメリカのいくつかの学会が「先に発表したヤンスキー式に統一しよう」と勧告を出します。それでも、すでにモス式が根づいた地域では切り替えが進みませんでした。番号で呼ぶかぎり、どちらかを捨てさせる決め手がなかったのです。
換算表を添えて採択された
そこで1927年、アメリカに移っていたラントシュタイナーが、数字をやめて文字にしようと提案します。翌1928年、国際連盟の生物学的標準化に関する常設委員会が、O・A・B・ABを国際的に用いる呼び名として採択しました。ヤンスキー式・モス式との換算表を添えた採択でした。
ラントシュタイナーが最初の三つを見つけた1900年から、数えて二十八年。ただし現場の呼び名がすっかり文字に置き換わったのは、1950年代に入ってからだとされています。
「O」は「なにもない」ではなかった

ここまでの話には、後の科学が付けた注釈があります。ohne(なし)にせよゼロにせよ、O型を「何も持たない型」と読むのは正確ではありません。O型の赤血球にも、ちゃんと目印は生えています。
赤血球の表面に生えた、糖のくさり
土台になるのはH物質
ABO式の目印は、赤血球の表面に生えた糖鎖(とうさ)です。フコースやガラクトースといった糖がつながった短いくさりで、その基本形をH物質と呼びます。まずこの土台が全員に生え、そこから先が枝分かれします。
※ 糖鎖(とうさ)とは、糖が数個つながってできた鎖状の分子のことです。細胞の表面にひげのように生えていて、細胞どうしが互いを見分ける目印としてはたらいています。
先端に何を足すかで型が決まる
H物質の先にN-アセチルガラクトサミンという糖を足せばA抗原、ガラクトースを足せばB抗原。足す役目を担うのが、それぞれ専用の酵素です。AB型の人は両方の酵素を持っているので、赤血球の表面にA型の枝とB型の枝が混ざって生えています。
| 型 | 赤血球の表面 | 先端に足される糖 |
|---|---|---|
| O型 | 土台のH物質のまま | 足されない |
| A型 | H物質+A抗原 | N-アセチルガラクトサミン |
| B型 | H物質+B抗原 | ガラクトース |
| AB型 | H物質+A抗原+B抗原 | 両方 |
O型は「足していない」型
設計図から一文字が抜けている
ABO式の血液型を決める遺伝子は、9番染色体にあります。A型やB型の遺伝子が持つのは354個分のアミノ酸の情報で、これが糖を足す酵素の設計図です。いっぽうO型の遺伝子では、途中の塩基が一つ欠けています。
一文字抜けると、そこから先の読み枠が全部ずれます。結果として作られるのは118個分ほどで打ち切られた不完全な産物で、糖を足す働きを持ちません。O型は目印を失ったのではなく、増築の指示書が途中で読めなくなった型なのです。
だから「万能」ではあっても「空」ではない
O型の赤血球はAともBとも衝突しないので、緊急時に他の型へ渡しやすい血液として知られています。それでも、表面はH物質でしっかり覆われています。何もない板ではなく、増築されなかった土台。これがO型の正確な姿です。
本当に「なし」の型は、1952年のボンベイで見つかった

では、土台のH物質すら生えていない人はいるのか。います。1952年、インドのボンベイ(現在のムンバイ)でY・M・ベンデらが報告した例で、発見地からボンベイ型と呼ばれています。
検査すると、O型に見える
土台がないので、枝も生えない
ボンベイ型の人は、H物質を組み立てる酵素が作れません。土台がないので、A型やB型の遺伝子を持っていてもA抗原・B抗原は生えてこない。ふつうの検査では赤血球にAもBも見えず、O型と判定されます。
親子の血液型がつじつま合わないという相談が、この型で説明のつくことがあります。見た目はO型でも、子に渡す遺伝子はA型やB型でありうるからです。
O型の血も輸血できない
誰もが持つ土台が、攻撃対象になる
危ないのはここからです。ボンベイ型の人の血清には、H物質そのものを攻撃する抗体があります。H物質は他のすべての型が持っているため、O型の血を輸血しても赤血球が壊されてしまう。輸血できるのは、同じボンベイ型の血液だけです。
百万人あたり数人という希少さ
頻度は世界全体で百万人あたり四人ほど、発見地のムンバイ周辺では一万人に一人ほどとされます。インド亜大陸とイランに偏って見つかるのが特徴です。日本では百万人に一人程度と紹介されることが多く、該当者は自分の型をあらかじめ把握し、いざというときに備えます。
「Rh」はアカゲザル——ただし、名前のほうが的を外していた

最後に、血液型のもう一つの文字を片づけておきます。Rh陽性・Rh陰性のRhは、アカゲザル(rhesus monkey)の頭二文字です。由来はそのとおりなのに、その由来が後に間違いだったと分かる、という妙な経過をたどりました。
1940年、サルの血球から作った抗体
この実験を手がけたのは、またしてもラントシュタイナーでした。弟子のアレクサンダー・ウィーナーとともに、アカゲザルの赤血球をウサギやモルモットに注射して抗体を作らせます。できあがった抗体は、サルの血球だけでなくヒトの血球も凝集させました。しかもヨーロッパ系の人でいえば、およそ85パーセントが反応する。ヒトとサルに共通の目印がある、と考えられたわけです。1940年、これがRh血液型として発表されました。
1963年、別物だと判明する
ところが後の研究で、思わぬ食い違いが見つかります。サル由来の抗体が見ていた目印と、ヒトの輸血や新生児の溶血で問題になる本当のRh(D)抗原は別のものでした。取り違えです。1963年、サル由来のほうは独立した血液型として整理し直され、発見者二人の頭文字からLW血液型と名づけられます。
本来アカゲザルの名を継ぐべきだったのはLWのほうでした。しかしRhの名はすでに世界中のカルテと輸血現場に染み込んでいて、いまさら引き剥がせない。名前だけが、間違ったまま居座り続けています。
日本人のRh陰性は0.5パーセント
日本人のRh陰性はおよそ0.5パーセント、二百人に一人ほどです。ヨーロッパ系では15パーセント前後とされ、地域差がかなり大きい目印でもあります。AB型かつRh陰性となると、二千人に一人ほど。日本でいちばん少ない組み合わせです。
ちなみに6月14日は、世界献血者デーです。この日付は、ラントシュタイナーの誕生日から採られています。
献血カードや母子手帳に印字された一文字を、私たちは生まれつきの体の性質だと思って見ています。半分は当たりです。ただしその一文字は、1928年に世界が「この呼び方でいきましょう」と決めた合意文書の引用でもあります。体は生まれつきでも、名前のほうは会議で決まった。しかもOの意味は、いまだに二説あるまま持ち越されている。血液型の欄は、体の情報と歴史の議事録が同じ一文字に同居している、めずらしい場所なのです。
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