江戸の両国では、旧暦五月二十八日の「川開き」から約三か月だけ、川での夕涼みと舟遊びが許されていました。花火はその客に向けた商品で、金一分を払えばその夜に上げてもらえたのです。買い手が川に出ているのが夏だったから、花火も夏に集まりました。飢饉とコレラの慰霊が起源という有名な話は、明治以降に組み立てられたものです。
川開きは涼み商売の開幕日

※ 川開き(かわびらき)とは、川での納涼や舟遊びを許す期間の始まりを告げる日のことです。期間の終わりは「川仕舞い」と呼ばれました。
五月二十八日から三か月が涼みの季節
江戸の名所案内『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』は、両国の納涼について「五月廿八日に始まり八月廿八日に終わる」と書いています。旧暦の話なので、いまの暦ならおおよそ七月から十月の初めまで。まるまる三か月が「涼みの季節」として区切られていました。
現在の隅田川花火大会も7月下旬の土曜日に開かれます。三か月の入口だった日付が、いまは一夜きりの本番として残っているわけです。
河岸に夜店、川に納涼船
この三か月のあいだ、両国橋のたもとの広小路と河岸には夜店が並び、見世物小屋が夜遅くまで客を呼びました。川面には納涼船や屋形船が浮かび、橋の上は人で埋まります。花火はこの賑わいの目玉でした。ただし賑わいの理由そのものではありません。人が先に川へ集まり、そこへ花火が売り込まれた、という順序です。
花火は注文して上げてもらうもの

※ 『守貞謾稿(もりさだまんこう)』とは、喜田川守貞(きたがわもりさだ)が天保年間から書き継いだ風俗の記録です。江戸・京・大坂の暮らしを細かく比べており、当時の値段や慣習を知る手がかりになっています。
大花火は三か月で数回だけ
『守貞謾稿』は川開きの夜について「今夜初めて、両国橋の南辺において花火を上ぐるなり」と記し、続けてこう書いています。
今夜大花火ありて、後、納涼中、両三回また大花火あり
大きな花火は初日と、あとは三か月のうち二、三回だけ。「江戸の夏は連夜の大花火」という像は、浮世絵の華やかさから逆算したものに近いようです。
金一分を払えばその夜に上がった
大花火のない夜はどうだったのか。同じ『守貞謾稿』に答えがあります。「大花火なき夜は、遊客の需(もとめ)に応じて、金一分以上これを焚く」。客が求めて代金を払えば、その晩に上げてもらえたのです。舟の上から花火を注文するのは、いわば川遊びのオプションでした。花火の夜が行事の暦ではなく、客の財布で決まっていたことになります。
金一分は蕎麦六十杯ほど
公定の相場では一両が四千文で、その四分の一が一分ですから千文ほど。かけ蕎麦が一杯十六文とされた時代なので、蕎麦にして六十杯ぶんの勘定です。幕末には実際の相場が一両八千文を超えることもあり、換算には幅があります。それでも、ふらりと来た客が思いつきで払える額ではありません。花火を注文したのは、舟を仕立てて料理を取るような懐の深い客でした。
なぜ客は夏の川に集まった?

買い手が川に出ている季節だけ商売になる
注文で焚く以上、注文する人がその場にいなければ商売になりません。納涼船を仕立て、料理を取り、そのうえ花火代まで出せる客。そういう客が河岸に集まるのは、涼みが許された三か月だけでした。
花火が夏に寄ったのは、季節の情緒より先に、客のいる時期がそこだったからです。蒸し暑い長屋を抜け出し、川風に当たりたい人が一番多い季節でもありました。
町なかで上げることは禁じられていた
江戸では花火が流行するたびに、火事の心配と鉄砲の音との紛らわしさから、幕府が町なかでの花火をくり返し禁じました。上げてよい場所として残ったのが、大川(隅田川)の川筋と海岸です。
つまり花火を楽しめる場所が、そもそも水辺に限られていました。水辺に人が集まる夏と、水辺でしか上げられない花火。二つの条件がちょうど重なったのが両国の川開きです。
花火師にとっては腕を見せる宣伝の場
売り手の事情も重なります。両国の花火は、鍵屋と玉屋という花火師が自分の店を宣伝するために大々的に打ち上げたのが始まり、という見方が研究者から出ています。
やがて両国橋をはさんで玉屋が上流、鍵屋が下流を受け持ち、交互に打ち上げる形になりました。「たまやー」「かぎやー」の掛け声は、この競演を客が囃したものです。
慰霊が起源という話はいつ生まれた?

多くの解説は、隅田川の花火を1733年(享保18年)の慰霊から説き起こします。前年の飢饉と疫病の死者を弔うため、八代将軍・徳川吉宗が水神祭と川施餓鬼(かわせがき)を営み、花火を上げた——という筋書きです。ところが江戸時代の文献には、この話が見当たりません。
コレラの日本初流行は1822年
まず年表と合いません。説明によっては死者の原因を「コレラ」としますが、コレラが日本で最初に流行したのは1822年(文政5年)です。中心は西日本でした。1732年の時点では、コレラはまだ国内に入っていません。「前年のコレラの死者を弔って翌年に花火を上げた」という話は、九十年ほど先の出来事を先取りしていることになります。
明治の新聞は始まりの年を百年ぶらした
明治の新聞が両国の花火の始まりに触れた記事を並べると、書くたびに年代が動いています。
- 1891年(明治24年):凡そ百六七十余年前
- 1892年(明治25年):凡そ二百年前
- 1893年(明治26年):百数十年前
- 1896年(明治29年):明暦(1655〜58年)以前
幅はおよそ百年。明治の東京っ子にとっても、始まりはもう分からなくなっていました。しかも明治20年代の記事は、花火屋が売り出しの広告として川開きの花火を始めたと書いていて、慰霊の話は出てきません。
1903年に「享保十八年」が現れる
具体的な年号が初めて紙面に載ったのは、1903年(明治36年)の新聞記事でした。ここで「享保十八年」という数字が出てきますが、根拠は示されていません。以後、この年だけが独り歩きしていきます。
1934年、慰霊と悪疫退散が加わる
決め手になったのは、1934年(昭和9年)の公式プログラム『両国川開大花火番組』に載った論考です。ここで「慰霊と悪疫退散のため」という目的が書き込まれ、話が固まりました。
1891年から1934年まで、およそ四十年。花火屋の宣伝だった始まりが、そのあいだに慰霊の行事へと置き換わっていきました。骨組みは明治に、意味づけは昭和に足された二段構えです。
訂正はどこまで届いた?

2018年の研究が成り立ちを追った
この「伝承」の成り立ちを細かく追ったのが、歴史研究者の福澤徹三による2018年の論文「享保一八年隅田川川開開始説の形成過程」です。すみだ郷土文化資料館が編んだ『隅田川花火の三九〇年』に収められました。
これを受けて、公益社団法人日本煙火協会は小冊子『花火入門』の令和元年版から伝承の記述を外したと伝えられています。業界の内側からの訂正です。
公式の案内には今も残っている
いっぽう隅田川花火大会の公式サイトは、享保18年の水神祭のあとに料理屋が花火を上げたことを由来として紹介しています。台東区の文化探訪ページは「享保17年(1732年)、飢饉と疫痢の流行による死者の慰霊」と書いていて、年も病名も少しずつ違うのです。
案内ごとに年号と病名が揺れているのは、それだけ根拠が固まっていない話だということでもあります。訂正が届く速さは、書き手の立場によってかなり違うのでしょう。
日本最古の花火の記録は1447年

京都の寺で唐人が見せた「風流事」
公家の万里小路時房(までのこうじときふさ)の日記『建内記(けんないき)』に、1447年(文安4年)の記録があります。浄華院(じょうけいん)での法事のあと、境内で「唐人」が火を使う「風流事」を見せたというものです。並んだ品目は次のとおり。
- 竹の枠で薄・桔梗・仙翁花・水車の形を表したもの
- 火をつけると走り回る「鼠」
- 流星のように飛ぶもの
時房は「希代の火術」とほめた
「鼠」は、今のねずみ花火とほぼ同じ発想でしょう。時房はこれを「希代之火術也」とほめ、褒美を与えたと書いています。一種類ではなく、数種類が同じ晩に披露されていました。家康が花火を見た夜より166年も前のことです。
宣教師が臼杵の聖堂で使った火
1582年(天正10年)には、現在の大分県臼杵市にあった聖堂で、ポルトガル人のイエズス会宣教師が復活祭の行事に花火を使いました。『イエズス会日本年報』や『フロイス日本史』に記録が残っています。大友宗麟(おおともそうりん)が聖週間の祭儀を公開の催しにしたもので、人を集める狙いがあったとされます。
家康が花火を見たのは1613年

駿府城で明の商人が見せた
1613年(慶長18年)8月、イギリス国王の使者ジョン・セーリスが駿府城で家康に会いました。そのとき同行した明の商人が花火を見せたと、『駿府政事録(すんぷせいじろく)』などが伝えています。
もっとも、夜空に大きく開く花火ではありません。筒に黒色火薬を詰め、火をつけると先から火の粉が噴き出す。今でいう手筒花火や噴出花火に近いものだったようです。
政宗説が定説になれない理由
これより24年早い1589年(天正17年)に、伊達政宗が米沢城で「大唐人」の花火を見たとする説もあります。ただし、もとになっているのは百年ほど後の元禄ごろにまとめられた資料で、問題が指摘されています。
三つの記録はどれも「見せる火」
1447年の寺、1582年の聖堂、1613年の城。担い手も目的も別々ですが、どれも「人に見せるため」に火を使っています。武器の火薬が先にあり、そこから見世物が生まれたと語られがちなところです。
ところが日本に残った初期の記録に限れば、火薬は最初から見世物の顔で現れていました。両国の注文花火も、この「見せて楽しませる火」の延長にあります。
今の花火大会が夏に多いのは別の理由

1961年を最後に途切れた川開き
両国の川開きは戦時中にも途切れました。戦後に復活したあと、1961年(昭和36年)を最後にまた止まります。理由は交通事情の悪化と、隅田川の水質汚濁による臭気でした。江戸の人が涼みに出た川が、花火どころではないほど汚れていたわけです。夏の川に人が集まるという江戸の前提は、ここでいったん崩れました。
1978年、名前を変えて戻ってきた
1978年(昭和53年)7月29日、会場を上流に移して「隅田川花火大会」の名で復活しました。2025年の打ち上げ数は約2万発、人出は約93万人。2026年の第49回は7月25日の土曜日です。江戸の川開きは三か月の涼みの開幕日でした。いまは一年に一夜だけの催しで、日付だけが受け継がれています。
熱海は年16回、2月にも上げる
夏でなくても花火は上げられます。熱海市が出している2026年度の熱海海上花火大会の日程は全16回。4月26日に始まり、7〜8月に6回。9月から12月にも続いて、最後は2027年2月21日です。夏はそのうちの一部にすぎません。
人が動く季節に合わせる点は江戸と同じ
冬の花火が技術的に難しいわけではないとすると、残るのは人の側の都合です。学校の夏休み、お盆の帰省、浴衣の季節。人がまとまって動く時期に大会を置いている、と考えるのが素直でしょう。
江戸では「客が川に出ている季節」、いまは「客が休みで動く季節」。理由の言葉は変わっても、客のいる時期に花火を合わせる点は変わっていません。
色がついたのは明治から

和火は橙一色だった
江戸の人が見上げていた花火は、いまとは色が違いました。明治より前の花火は「和火(わび)」と呼ばれ、炭火色といわれる橙色の強弱だけで表現されていたのです。赤も緑も青もありません。線香花火の色をそのまま夜空に大きくしたような光、と考えると近いでしょう。
1879〜87年、薬品が色を連れてきた
※ 炎色反応(えんしょくはんのう)とは、金属を炎で熱したときに、その金属ごとに決まった色の光が出る現象のことです。花火の色は、火薬に混ぜる金属の種類で決まります。
1879年から1887年(明治12〜20年)にかけて、西洋の薬品が段階的に輸入されました。色数が一気に増え、和火に対して「洋火」と呼ばれるようになります。日本の花火が色鮮やかになってから、まだ百五十年ほどです。
| 入ってきた薬品 | 担う役割 |
|---|---|
| 塩素酸カリウム | 強い酸化剤。ほかの薬品を高温で燃やし、鮮やかな発色を可能にした |
| 炭酸ストロンチウム | 赤系の色 |
| 硝酸バリウム | 緑系の色 |
| マグネシウム・アルミニウム | 白く強い光と、尾を引く火花 |
鍵屋と玉屋、残った名と消えた名

鍵屋は1659年から続く
鍵屋の始まりは1659年(万治2年)。大和国出身の初代弥兵衛が江戸で、葦の管に星(火薬の粒)を詰めた玩具花火を売り出したのが最初とされます。のちに両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号にしました。現在も「宗家花火鍵屋」として十五代目が継いでいます。三百六十年を超える商売です。
玉屋は一代で消えた
玉屋は1810年ごろ、六代目鍵屋の番頭だった清吉が暖簾分けを受けて興した店です。清吉は市兵衛と名を改め、両国広小路に店を構えました。ところが1843年(天保14年)、将軍の日光社参の前夜に玉屋から火が出て、町並みが焼けます。玉屋は家財を取り上げられ、市兵衛は江戸を追われました。暖簾分けから三十年あまり、たった一代の商売です。
「たまやー」が多く聞こえる理由の諸説
それでも花火の夜に響く掛け声は「たまやー」の方が多い、とよく言われます。理由として挙げられるのは次のようなところです。
- 追放された玉屋への同情が江戸っ子に残ったから
- 玉屋の腕の方が上だったから
- 母音が続く「たまや」の方が大声で叫びやすいから
どれも決め手には欠けます。ただ、消えた側の名前が残ったという結果だけは動きません。
江戸の花火が夏に上がったのは、涼みに出た客がそこにいたからでした。玉屋という店はとうに無く、慰霊の由来も史料の裏づけを失っています。それでも夏の夜には消えた店の名が呼ばれ、消えたはずの由来が語られる。花火は上がったそばから消えていきますが、その周りに残る話の方は、案外しぶといものです。
参考
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