こいのぼりが家族の姿になったのは、ここ百年ほどのことです。江戸後期の町に揚がっていたのは黒い真鯉が一匹だけ。赤い緋鯉が加わったのは明治の終わりから大正にかけてで、そのころの赤は母ではなく子どもの役でした。青い子鯉が仲間に入り、赤が母に読み替えられたのは昭和も後半に入ってからです。
最初に鯉を揚げたのは町人だった

武家の五月は家紋の幟と吹き流し
江戸時代の端午の節句は、菖蒲(しょうぶ)が「尚武」に通じることから武家の祝いとして重んじられました。武家は家紋を染めた旗指物(はたさしもの)や幟、吹き流しを門の前に並べ立てます。男の子が生まれた家だと通りに知らせ、家の格を示す飾りでもありました。
町人は鯉の幟で張り合った
武具を持たない町人は、江戸中期以後になって戸外に鯉の幟を立てるようになります。百科事典はこれを「武家の飾りに対抗して」と説明しています。家紋の旗をそのまま真似るのではなく、出世の魚とされた鯉で別の飾りをこしらえた。こいのぼりは、町人の張り合いから生まれた飾りだったわけです。
竿の先の小さな鯉が独立した
はじめから大きな鯉が泳いでいたわけではありません。最初は小さな紙の鯉が幟の竿の先の「まねき」に使われ、やがて吹き流しの形で独立したとされます。民俗学では、竿の先の飾りを神を招く招代(おぎしろ)の名残とみる考え方もあります。
※ 招代(おぎしろ)とは、神を招き寄せる目印としてかかげるもののことです。榊などの枝や布が使われました。
江戸の町のこいのぼりはどんな姿?

1838年の絵では、まだ脇役
天保九年(1838年)に出た『東都歳事記(とうとさいじき)』は、江戸の年中行事を月の順に書き並べた案内書です。その端午の町の様子を描いた絵では、目立つのは鍾馗(しょうき)などを描いた絵幟のほう。こいのぼりは行商人が担いで売り歩く姿で描かれていますが、まだ小さく、存在感はありません。
19年後の広重は、画面いっぱいに描いた
ところが安政四年(1857年)の歌川広重『名所江戸百景』の「水道橋駿河台」では、手前に巨大な真鯉が一匹、画面をはみ出すように泳いでいます。奥の武家屋敷には幟と吹き流しが小さく見えるだけ。二十年足らずのあいだに、町のこいのぼりは主役の座へ上がっていました。
紙製で、長さは40〜50センチほど
初期のこいのぼりは紙製で、40〜50センチほどの大きさだったとされます。明治期までは大半が紙でつくられていました。雨に当たれば破れてしまう飾りです。10メートルを超える大きな鯉が出てくるのは明治以後で、紙製でも1メートルから5.5メートル、布製では9メートルから14メートルあまりのものまで現れました。
なぜ鯉?竜門を登った魚の言い伝え

急流を登り切った鯉は竜になる
鯉が選ばれたのは、中国に伝わる竜門の話があるからです。黄河には竜門と呼ばれる急流があり、そこを登り切った鯉は竜に変わるとされました。多くの魚が挑んでは押し戻されるなか、登り切れるのはごくわずか。この話から鯉は立身出世のしるしになり、日本でも男の子の出世を願う飾りに使われるようになります。
「登竜門」は『後漢書』から広まった
「登竜門」という言葉の出どころとされるのは、中国の歴史書『後漢書』の李膺(りよう)伝です。李膺は乱れた政治のなかで筋を通した人物で、彼に認められた人は「竜門に登った」と言われました。のちに科挙の合格などにも使われ、出世の関門という意味が定着します。
竜門の場所は、辞典でも書き方が違う
竜門がどこにあるのかは、辞典を引き比べると意外に一致しません。『日本大百科全書』と『デジタル大辞泉』は黄河の中流とし、山西省と陝西省の境あたりに置いています。一方で「上流」と書く百科事典もあります。伝説の舞台らしく、場所は少しぼやけたまま語り継がれてきました。
本物のコイは急流の魚ではない
もっとも、現実のコイが好むのは池や沼、流れのゆるやかな川です。底の泥をあさって餌を探す魚で、滝をさかのぼる暮らしとは縁がありません。言い伝えのなかの鯉は、生き物としてのコイとは別の「物語の魚」だと考えたほうがよさそうです。
緋鯉が加わったのは明治の終わりから

真鯉と緋鯉を一対で揚げるように
幕末から明治にかけて、こいのぼりは幟旗に代わって各地に広まりました。この時期もまだ真鯉一匹が基本です。明治の後期から大正にかけて、黒い真鯉と赤い緋鯉を二匹一対で揚げる形が現れます。並べる順番にも決まりがあり、上から吹き流し・真鯉・緋鯉と立てるのが正式とされました。
そのころの赤は、母でなく子
この二匹が表していたのは父と子です。大きな黒が父、小さな赤が男の子。武家の跡取りを祝う発想をそのまま受け継いだ組み合わせで、母の居場所はまだありませんでした。赤い鯉を見て「お母さん」と思うのは、ずっとあとの読み方です。
「昭和までは真鯉一匹」とする博物館も
ただし二匹が一気に広まったわけではなさそうです。日本玩具博物館(兵庫県姫路市)は、昭和に入るまで「鯉のぼりといえば真鯉一匹」だったと説明しています。勤勉と忍耐を重んじた明治の気風のもと、真鯉が大切にされたという見方です。
明治後期に二匹の形が生まれても、家々の空に行き渡るまでにはかなりの年月がかかったと考えると、二つの説明は無理なくつながります。
お母さんの鯉はいつ生まれた?

青い子鯉が来て、赤が母になった
三匹目として加わったのは、小ぶりな青い鯉でした。真鯉が父、緋鯉が母、青が子ども。真鯉・緋鯉・青の三匹そろいが一般的になったのは、1970年代ごろとされます。青い子鯉は1964年の東京オリンピックのころに考えられたという話も伝わりますが、はっきりした記録が示されているわけではありません。
母は増えたのでなく、呼び名が変わった
面白いのは、母の鯉が新しく足されたわけではない点です。子どもの役を青い鯉に譲った結果、もとからいた赤い緋鯉が母に読み替えられました。竿に揚がる顔ぶれは同じ赤なのに、昭和の前半と後半では役が入れ替わっています。
家族観の変化と売り場の工夫
三匹の形が定着した背景には、家族の捉え方の変化とメーカーの販売戦略があったと説明されます。いまはきょうだいの数だけ子鯉を足すセットも珍しくありません。緑やピンク、紫の子鯉が並び、女の子の分の鯉を揚げる家もあります。
布は木綿から化学繊維へ
素材の移り変わりも、大きく色とりどりの鯉を後押ししました。紙から木綿へ、さらにナイロンやポリエステルなどの化学繊維へ。軽くて雨に強い布になったことで、何匹も連ねて一日じゅう泳がせる飾り方が無理なくできるようになりました。
鯉より上の吹き流しと矢車は何のため?

五色の吹き流しは魔よけ
こいのぼりの一番上の鯉より、さらに上に付いているのが吹き流しです。青・赤・黄・白・黒の五色は、古代中国の陰陽五行説で世界をつくる五つの要素を表すとされます。五色をそろえることに災いを遠ざける力があると考えられ、子どもを守る役目を担う飾りだと説明されています。
武家の吹き流しの名残
吹き流しは、もともと武家が家紋の旗とともに門口に並べていた飾りの一つでした。町人が始めた鯉の飾りのいちばん上に、武家の飾りがそのまま残っているわけです。張り合って生まれた二つの飾りが、一本の竿の上で同居していると見ることもできます。
矢車と、てっぺんの球
竿の先で回る矢車(やぐるま)は、矢羽根を車輪のように並べた飾りです。風を受けるとカラカラと音を立て、その音が邪気をはらうとされます。いちばん上の丸い球は天球や回転球と呼ばれ、男の子が生まれたことを神に知らせる目印だという説明が一般的です。
鯉より幟が主役の土地もある

山梨の甲州武者のぼり
山梨県には、武者絵を染めた甲州武者のぼりが伝わります。戦国時代の旗指物や吹き流しが、江戸時代の後半に端午の祝いの幟として立てられるようになったのが始まりとされます。込められているのは、武田信玄のように強く大きく育ってほしいという願いです。
高知のフラフ
高知では、こいのぼりと一緒にフラフと呼ばれる大きな旗を揚げます。大漁旗をもとにした手描き染めの旗で、ふつうは幅5メートルを超える大きさ。金太郎や桃太郎、騎馬武者や龍が描かれ、家紋や子どもの名前を入れて注文するのが習わしです。
熊本のがつせっのぼり
熊本県八代市の鏡町や熊本市の川尻では、長さ8メートルほどの「がつせっのぼり(五月節句幟)」がつくられてきました。武将の姿や川をさかのぼる鯉を手描きで染めたもので、端午の節句にはこいのぼりと並べて飾ります。江戸の武家の飾りに近い姿が、地方ではいまも鯉と肩を並べています。
百メートルの鯉と、ベランダの鯉

加須は明治から続く産地
埼玉県加須(かぞ)市は「こいのぼりのまち」として知られる町です。明治時代、提灯や傘の職人が副業としてこいのぼりをつくり始めたのが出発点でした。関東大震災のあとに専業化が進み、戦前には生産量日本一の産地になっています。
ジャンボこいのぼりは四代目
その加須の名物が、全長100メートルのジャンボこいのぼりです。初代は1988年の「さいたま博」に合わせてつくられました。代を重ねるごとに、軽くする工夫が続いています。
| 代 | 完成 | 全長 | 重さ |
|---|---|---|---|
| 初代 | 1988年 | 100メートル | 約600キロ |
| 2世 | 1996年 | 111メートル | 730キロ |
| 3世 | 2003年 | 100メートル | 約350キロ |
| 4世 | 2014年 | 100メートル | 約330キロ |
3世で生地を綿からポリエステルに替え、初代のおよそ半分の重さまで軽くなりました。紙から布、布から化学繊維へという家庭用の流れを、一匹の巨大な鯉がなぞっているようにも見えます。
家庭のこいのぼりは小さくなった
一方で、家庭用は逆に小さくなりました。庭に長い竿を立てられる家が減り、ベランダの手すりに付けるタイプや、室内に置く飾りが売り場の中心です。代わりに、観光地や川の上に何百匹も渡して泳がせる催しが各地で開かれるようになっています。
「屋根より高い」の歌に母がいないのはなぜ?

歌が描くのは1931年の空
童謡「こいのぼり」の一番に出てくるのは、大きな真鯉のお父さんと、小さな緋鯉の子どもたちだけです。この歌が初めて載ったのは、昭和六年(1931年)12月25日発行の『ヱホンシヤウカ ハルノマキ』。当時のこいのぼりは真鯉と緋鯉の二匹で、赤はまだ子どもの役でした。母がいないのは、その時代の空をそのまま写しているからです。
原案は「青空高い」だったという証言
歌い出しの「屋根より高い」は、最初からこの言葉だったわけではないようです。のちの裁判の判決文には、当初の原案は「青空高い」だったと関係者が新聞で語ったことが記されています。作詞者だと名乗り出た側も、歌詞の一部が編集の段階で改められたこと自体は同じように話していました。
作詞者をめぐる裁判
『ヱホンシヤウカ』の歌は、作詞者も作曲者も名前を出さずに発表されました。1982年になって作詞者として別の人物の名が届け出られ、近藤宮子が「チューリップ」「コイノボリ」など6編は自分の作だと訴えます。1993年3月16日の東京高等裁判所の判決は近藤を作詞者と認め、名前を表示する権利を侵したとして賠償を命じました。
祝日法には「母に感謝する」
5月5日が「こどもの日」になったのは1948年です。国民の祝日に関する法律が定めたその趣旨は「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」というものでした。法律が母への感謝を書き込んだそのころ、空を泳いでいたのはまだ父と子の二匹でした。
歌の家族は1931年のまま、法律は1948年に母を書き加え、空の鯉が母を迎えたのはさらにあと。同じ五月の空でも、三つの時計はばらばらに進んできました。竿の上の鯉の数は、その時代が家族を何人まで数えていたかを映す目盛りなのかもしれません。
参考
- 日本玩具博物館「端午の節句飾り」
- nippon.com「こいのぼり : 時代とともに1匹から群れで泳ぐスタイルに」
- 加須市「ジャンボこいのぼり」
- 裁判所 裁判例検索「平成5年3月16日 東京高等裁判所判決」
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