「学ラン」の「ラン」はオランダのことです。ただし国語辞典をたどると、出どころは学問の「蘭」ではありません。舶来の反物や服を指した盗人と的屋(てきや)の隠語「ランダ」を縮めたもの、と説明されています。学生が着る「ラン」だから学ラン。いちばん型どおりの服の名前は、型を外れた側の言葉から来ていました。
辞典は「ラン」をどう説明している?

岡山県立図書館が四冊の辞典を調べた
手がかりになるのは、岡山県立図書館が2016年にまとめたレファレンス事例です。「学ランの語源を知りたい」という問い合わせに、四冊の辞典の記述を拾い出して答えています。国立国会図書館のレファレンス協同データベースで、誰でも読める事例です。版元も刊行年もばらばらな四冊が、そろって同じ語を挙げているのが目を引くところ。
『日本国語大辞典』は「ともいう」と留保つき
『日本国語大辞典 第3巻』(小学館・2001年)は、学ランを「詰め襟の学生服の俗称」としています。補注には、「らん」はもともと舶来の反物をいう隠語「ランダ」(オランダの意)から「ともいう」とあります。言い切ってはいません。それでも、学生でも学校でもなく反物の名前から説き起こしている点は、ほかの三冊と同じです。
語源辞典三冊の書きぶり
『暮らしのことば新語源辞典』(講談社・2008年)は一歩ふみこみ、「ラン」は盗人やてきやの隠語で、舶来の衣服を意味する「ランダ」の略だとします。『身近なことばの語源辞典』(小学館・2009年)は「香具師(やし)の隠語で、服のこと」。『日本語語源辞典』(学研教育出版・2014年)も、舶来の織物をいう隠語「ランダ」から、と書いています。細部は違っても、隠語という一点は動きません。
辞典の説明に漢字の「蘭」は出てこない
四冊が示すのは、いずれもカタカナの「ランダ」です。「学蘭」と漢字を当てる書き方もよく見かけますが、辞典の語源説明のなかに「蘭」の字は登場しません。漢字の表記は、あとで見る「蘭服」の説と結びついて広まったものとみられます。
「ランダ」は盗人と香具師の言葉だった

祭りや縁日で店を張る人たちの符丁
辞典が名指ししているのは、盗人と香具師です。学問の場から出た言葉ではなく、人出の多い場所で商売をする人たちが仲間内で使った言葉でした。
※ 香具師(やし)とは、祭礼や縁日など人出の多い場所で商品を売ったり見世物を出したりする人のことです。的屋(てきや)とも呼ばれます。
客の前で品物の名を伏せるための隠語
隠語は、外の人に中身を悟らせないために使われます。「ランダ」は品物の種類を指す語なので、客の前で値づけや仕入れの話をするときに役立ったのでしょう。舶来品は高く売れる看板です。盗人にとっては、名指しを避けたい品でもあったのかもしれません。
「学」が足されたのは後
順番でいえば、まず服を指す「ラン」があり、そこへ「学」がくっつきました。学生が着る「ラン」だから学ラン。学問の「学」というより、着る人の身分を示す一字です。辞典の説明どおりなら、学ランは「学生の服」をそのまま隠語で言った呼び名ということになります。
よく聞く「蘭服」説とはどこが違う?

江戸時代は洋服を「蘭服」と呼んだ
世間でよく語られるのは、別の道すじです。江戸時代には西洋風の服を蘭服(らんぷく)と呼んだ。その「蘭」を学生の服に付けて学ラン、という説明で、ウェブの解説ではこちらが主役になっていることが多いようです。出発点はやはりオランダなので、答えだけ見れば辞典とぶつかりません。
蘭服を着たのはごく一部の人
江戸時代に西洋風の服へ袖を通したのは、蘭癖(らんぺき)と呼ばれた西洋好みの大名や学者が中心だったとされます。庶民が日常で目にする服ではありませんでした。普通の人が使わない言葉は、俗称の材料になりにくいもの。ここが蘭服説の弱いところです。
分かれ目は「誰の言葉か」
二つの説の違いは、語の出どころを学者の側に置くか、商売の側に置くかにあります。蘭服説なら、学ランは蘭学の流れをくむ由緒ある呼び名です。ランダ説なら、盗人と的屋の符丁が学生服へ流れ込んだ言葉になります。同じオランダでも、通ってきた場所がまるで違います。
答えが同じなので決着がつきにくい
どちらをとっても「ラン=オランダ」は変わりません。答え合わせで差が出ないため、道すじのほうは確かめられないまま並んで語られてきました。この記事では、複数の辞典がそろって挙げる「ランダ」を軸にしています。蘭服説を誤りと切り捨てる材料があるわけではありません。
なぜオランダが西洋の代名詞になった?

出島がヨーロッパへの唯一の窓だった
舶来品を「ランダ」と呼べたのは、西洋=オランダという等式が通じていたからです。長崎市の出島の資料によると、オランダは慶長14年(1609年)に平戸へ商館を開き、寛永18年(1641年)に商館を出島へ移しました。鎖国のあいだ、ヨーロッパの品物も知識も、この小さな人工島を通って入ってきます。
シーボルトもオランダから来た人だった
窓が一つなら、入ってきたものに窓の名がつくのは自然な成り行きです。1823年に来日したシーボルトはドイツ生まれの医師でしたが、出島のオランダ商館医として来たため、日本側から見れば「オランダの人」でした。物でも人でも、出島を通ればオランダになったわけです。
「蘭」の付く言葉が次々にできた
蘭学・蘭方医・蘭書・蘭癖と、この字を頭に載せた言葉が並びました。中身はどれも「西洋の」ですが、看板はオランダです。ガラス(glas)・コーヒー(koffie)・ゴム(gom)のように、外来語という自覚もなく使われているオランダ語も少なくありません。
ズックとランドセルもオランダ語から
運動靴のズックは、布を意味するオランダ語 doek から来た言葉。舶来の反物を指した「ランダ」と並べると、布そのものが憧れの輸入品だった様子が見えてきます。ランドセルも、背負いかばんを指す ransel が変化した語とされます。学ランとランドセル。学校を代表する二つの持ち物が、どちらもオランダ由来の名前を背負っています。
詰襟の学生服はどこから来た?

服の形はオランダではなく明治の官服
名前がオランダなら服もオランダかというと、そうではありません。詰襟(つめえり)の学生服は明治の日本で、軍服や官服を手本に形づくられたものです。最初期の例としては、1873年ごろに工部省工学寮と札幌農学校で定められた制服がよく挙がります。
学習院と帝国大学が広めた
学生服メーカーのカンコーの資料館は、皇族や華族の子弟の学校だった学習院が1879年に詰襟の制服を取り入れたと紹介しています。いまの学生服の直接の起点とされるのは、1886年(明治19年)に帝国大学が定めた金ボタンの詰襟です。手本は陸軍の制服だったと説明されることが多く、同じ年には高等師範学校も詰襟を採り入れました。
戦争をはさんで一度消え、戻ってきた
詰襟はその後、ずっと続いてきたわけではありません。戦時中には男子が国民服を着るよう定められ、学生服は表舞台から外れます。主な節目を並べると次のとおりです。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1879年 | 学習院が詰襟の制服を取り入れる |
| 1886年 | 帝国大学が金ボタンの詰襟を定める |
| 1920年 | 京都の平安高等女学校がセーラー服を採用 |
| 1940年 | 男子は国民服を着るよう定められる |
| 戦後 | 男子は詰襟、女子はセーラー服が学生服として復活 |
名前と服は別々の道を来た
服の形はヨーロッパの軍装から日本の官服をへて、学校へ渡りました。呼び名のほうは、舶来品を指す江戸の隠語を引き継いでいます。できあがった服に、別の場所で生き延びていた古い名前が後から貼りついた。学ランという語のねじれは、そう考えると腑に落ちます。
「学ラン」はもともと着崩した制服の呼び名

辞典にある「特に丈が長いもの」
『暮らしのことば新語源辞典』は、学ランを「特に丈が長いものに限定していう場合がある」とも書いています。丈の長い学生服は、校則どおりの標準型ではなく改造された姿です。学ランは、まじめな制服よりも不良っぽい制服を指す語として使われた時期がありました。隠語から来た言葉らしいふるまいです。
昭和50年代の漫画で広まったとされる
「ガクラン」の呼び名は隠語として細々と生き延び、昭和50年代(1975〜1984年ごろ)の漫画で使われたことで広く知られるようになった、とする説明があります。不良学生を描く作品が多く出た時期です。いまは標準型も含めた詰襟学生服全般を学ランと呼び、学校案内にも普通に載る言葉になりました。
長ラン・短ラン・中ランの寸法
着崩した学生服には、着丈による細かい呼び分けがありました。目安はおおよそ次のとおりで、メーカーや販売店によって線の引き方は少しずつ違います。
- 短ラン … 着丈およそ60cm未満
- セミ短 … およそ60〜70cm
- 中ラン … およそ70〜80cm
- 長ラン … およそ80cm以上
ボンタンとドカン
ズボンにも名前があります。股の付け根のワタリが広く、スソが細いものがボンタン。土管のような極太のストレートがドカンです。上着の丈とズボンの形の組み合わせで、遠目にも着る人の気分が読み取れる仕組みになっていました。
ボタンと白いカラーにも理由がある?

前に五つ、袖に二つ
標準型の学生服は、前身ごろのボタンが5個というのが一般的です。袖のボタンは2個が基本ですが、1個や3個、ボタンなしを標準にしている学校もあります。数がきっちりそろっているように見えて、袖には意外と幅があるのです。
白いカラーはシャツの代わりだった
詰襟の内側にはめる白いプラスチックの輪を、カラーと呼びます。首まわりの汚れよけとして知られますが、成り立ちにはもう一つの説明があります。詰襟の下には本来、立襟のシャツを着ていました。ところが経済的な事情でシャツを買えない生徒もいたため、シャツを着ているように見せる工夫として生まれた、というものです。
2021年にカラーの作り手がいなくなった
神戸新聞の2022年の記事によると、大阪の大手プラスチックカラーメーカーが2021年に製造をやめました。倉敷の学生服メーカーは、いまは全国でほぼ100%が襟に芯を縫い込んだラウンドカラーだと説明しています。あの硬い輪をはめた記憶は、世代を分ける目印になりつつあるようです。
第二ボタンを渡す風習はいつから?

1960年の映画と監督の言葉
映画『予科練物語 紺碧の空遠く』(1960年)には、出撃を控えた予科練生が胸の第二ボタンをちぎって少女に渡す場面があります。京都新聞によると、原作にも脚本にもない井上和男監督の演出でした。監督は2008年のテレビ番組で理由を問われ、「だって一番心臓に近いボタンでしょ」と答えています。
※ 予科練(よかれん)とは、旧海軍飛行予科練習生の略称です。少年のうちに採用され、搭乗員になるための教育を受けました。
校長たちが語り継いだという逸話
ユニホーム研究家の佐野勝彦さんは、映画とは別の起源を挙げています。物資不足で軍服ではなく学生服のまま出征した弟が、兄の帰りを待つ義理の姉に第二ボタンを渡し、「自分の分身として大切にしてほしい」と頼んだ。戦後、北関東の校長がこの話を校長の集まりで披露しました。各校で語られるうちに別れの季節の恒例行事になった、という説明です。
学ランの7割は岡山で縫われていた

足袋のまちが学生服のまちになった
名前はオランダ、形は明治の官服。では実物はどこで縫われているのかというと、岡山県倉敷市の児島(こじま)地区です。倉敷市によると、児島ではもともと足袋を作っていましたが、大正時代の終わりごろから足袋に代わって学生服が盛んに作られるようになりました。
昭和30年に全国の7割
昭和30年には、全国の学生服の7割を児島産が占めました。出荷額のシェアは平成28年で約44%、平成29年で約32%です。数字は下がりましたが、市区町村の単位ではいずれも全国1位でした。
事業所の数が桁違い
ほかの市区町村では学生服の事業所が1〜2社なのに対し、倉敷市は2桁あります。産地というより、一つの地域に産業が丸ごと集まっている状態です。教室に並ぶ学ランの多くが、瀬戸内の同じ一角から届いていることになります。
的屋の符丁だった「ラン」、着崩した学生服を指した「学ラン」、そして校則どおりの詰襟を指すいまの「学ラン」。三文字のなかに、堅い側と外れた側の記憶が並んで残っています。いちばん型どおりの服は、袖を通す前から、少しだけ型破りな名前を着ていたのです。
参考
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「学ランの語源」(岡山県立図書館)
- 神戸新聞「学生服の白いプラスチックカラー、製造中止で絶滅寸前らしい」
- 京都新聞「卒業式『第二ボタンください』の起源とは」
- 倉敷市「学生服生産日本一のまち」
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