名札を右胸につけるか左胸につけるかを決めているのは、体の左右ではなく服の胸ポケットです。陸上自衛隊の通達は「右胸ポケット」を起点に位置をミリ単位で決め、ある中学校の配布資料は「左胸ポケットの場所に」と書きます。左胸の人は、基準のポケットが左にある服を着ているわけです。ポケットの無いスーツには決まりが無く、マナーの説明も右と左に割れています。
名札の位置は何を基準に決まっている?

名札の位置を定めた規定は、どれも胸ではなく服の部品を起点にしています。右か左かは、その部品が服のどちら側に付いているかで決まるのです。
起点は胸ポケットの上端
陸上自衛隊の通達は、名札の下端を「右胸ポケットの中央上端部」から5ミリ上に合わせると定めています。体格を基準にすると人ごとに高さがずれますが、ポケットは服に縫い付けられた部品。誰が着ても同じ場所に来るので、一つの指定だけで隊列の名札がそろいます。
右胸と左胸が同じ通達に並ぶ
同じ通達の中で、自衛官の制服は右胸、事務官等と女性冬服の上衣は左胸のポケットが基準になっています。名札の左右を分けているのは、役職の上下ではありません。どの服を着ているか、そこに尽きます。
千葉県警察の細則も、警笛や所属長章の位置を「右胸ポケット」で書いています。制服の規定では、体の部位でなく服の部品で場所を指すのが普通の書き方なのでした。
ポケットの無い服には決まりも無い
会社の名札や催しのネームプレートには、こうした規定が見当たりません。スーツの右胸には、基準にできるポケットも縫い目もないためです。「名札は右胸」という話の多くは、このポケットの無い場面のマナーとして語られています。
陸上自衛隊の名札は右胸のどこにつける?

陸上自衛隊の名札は、右胸ポケットの真上に5ミリのすき間をあけて着けます。2020年3月に陸上幕僚長が出した通達が、その位置と名札の作りを細かく決めました。
「中央上端部から5ミリメートル」という一文
常装(じょうそう、基本の制服)の名札について、通達はこう書いています。
右胸ポケットの中央上端部から5ミリメートルのところに、名札の中央下端部が位置するように着用するものとする。
合わせるのは、ポケットの真ん中の上端と名札の真ん中の下端です。2つの点を縦にそろえるだけで、左右のずれも高さのずれも起きにくくなる。短いながら、よく考えられた指定といえます。
作業服にも同じ一文を使い回す
作業服装(戦闘服装を含む)の名札にも、通達はまったく同じ言い回しを使っています。生地も形も違う服なのに、位置の書き方は一つで足りました。営内班長き章(えいないはんちょうきしょう)などを着ける人は名札の上に、という添え書きも両方に付いています。
常装は樹脂、作業服は布の名札
常装の名札は樹脂製です。黒い面に帽章を金色で刷り、「陸上自衛隊」の文字は11ポイントが基準。姓は28ポイント、ローマ字は18ポイントで、ローマ字は姓だけを入れます。作業服の名札は布製で、色は階級章の略章と同じダークグリーンです。その色まで「色相5.5±1.2GY」のようにマンセル値で書かれ、姓は常装より大きい32ポイントで刷られます。
※ マンセル値とは、色を「色相・明度・彩度」の三つの数値で表す方式のことです。離れた工場でも同じ色を再現できるよう、日本産業規格(JIS)にも取り入れられています。
2年の試行を経て2020年に統一
通達の趣旨は「服装の斉一(せいいつ)を図るため」、つまり見た目をそろえることです。2018年1月に試行の通達が出され、2020年3月16日から正式な制式に切り替わりました。試行のときに作ったローマ字のイニシャル入りの名札も、当分のあいだは使ってよいとされています。
ポケットの無い服では何を基準にする?

ポケットが無い服では、通達は別の縫製の目印に基準を乗り換えました。体の部位に戻らないところに、この規定の考え方がよく出ています。
妊婦服はファスナー上端から5センチ
妊婦服の名札は「ファスナー上端部から5センチメートルの右胸部分」を基準にした図の位置に着けます。ポケットの代わりに選ばれたのは、前を閉じるファスナーでした。単位もミリからセンチへ変わり、図で位置を示す書き方になっています。
簡易服は「相当する位置」とだけ書く
簡易服については、常装の規定に「相当する位置」に着けるとしか書かれていません。数値を出していないのは、服の形が一定しないためと考えられます。防寒戦闘服2型(01改)では、右胸ポケットの上端部を基準にした図で位置が示されました。
アメリカ陸軍もボタンを目印にする
アメリカ陸軍の服装規定の解説によると、男性の礼装では名札(ネームプレート)を右胸ポケットのふたの中央に着けます。女性の上着ではポケットではなく、いちばん上のボタンから1〜2インチ上の右側が定位置です。ポケットが無ければボタンへ。目印を乗り換える発想は、日本の通達とよく似ています。
左胸に名札をつけるのはどんな人?

陸上自衛隊でも、事務官等と女性冬服の上衣を着た自衛官は左胸に名札を着ける決まりです。通達は理由を書いていませんが、どちらも基準のポケットを左胸へ移す形で定められています。
事務官等は「左胸ポケット」と読み替える
部隊や機関に所属する事務官等について、通達が置いたのは次の読み替えの一文です。
前号アの規定中「右胸ポケット」とあるのは、「左胸ポケット」と(中略)読み替えるものとする。
5ミリという数字も、名札の下端を合わせる指定もそのまま残ります。差し替えたのは「右」と「左」の一字だけ。位置を服の部品の名前で書いてあるから、この読み替えで済むのでしょう。
防災服やポケットの無い服の読み替え
読み替えはもう一つあります。自衛官向けの「簡易服に着用する場合」は、事務官等では「ポケットがない場合」と「防災服上衣に着用する場合」に置き換わるのです。事務官等がポケットの無い服を着る場面も、はじめから想定されていたことになります。
女性冬服の上衣は左胸ポケットが基準
女性冬服(女性1種夏服)の上衣では、名札を「左胸ポケットを基準とした」図の位置に着けます。通達には男性自衛官と女性自衛官の図が並べて載っていて、どちらかを例外として扱う書き方ではありません。仕立てが違えば、基準のポケットも移る。ここでも原則は変わらないのです。
警察官の制服では胸に何をつける?

千葉県警察の細則でも、胸に着ける物の位置は右胸ポケットを起点に書かれています。名札には、別の記章の代わりを務めるという意外な役目もありました。
警笛は右胸ポケットに収める
細則は、制服を着るときの警笛をひもに付けて右胸ポケットに収めると定めています。つりひもに付ける場合の表もあり、男性の制服上衣や活動服は右胸ポケット。女性警察官の制服上衣とベストは右腰ポケットで、服の形ごとに置き場が振り分けられています。
所属長章は右胸、課長代理章は左襟
同じ細則は、本部長章や所属長章などを制服や活動服の「右胸ポケットの上部」に着けると定めます。一方で課長代理章や交通機動隊員章は左襟、職務質問技能指導員の記章は右襟です。右と左の使い分けは、役職の格だけで一筋に決まっているわけではありません。
名札をつけていれば識別章を省ける
細則は、識別章(しきべつしょう)を着けなくてよい場合の第一に「名札を着用しているとき」を挙げています。留置業務や治安警備がその後に続きます。名札と識別章は、職務にあたった人を見分けるという同じ役目を、別の形で果たしているわけです。識別章の番号の表示が職務の妨げになると所属長が認めたときは、番号標を裏返して着けることもできます。名前を出すか、番号を出すか、どちらも伏せるか。胸の上の情報は場面ごとに調整されています。
※ 識別章とは、制服の警察官が着ける番号入りの記章のことです。氏名を出さずに、職務にあたった警察官を後から見分けられるようにするためのものです。
勲章や記章はなぜ左胸に集まる?

勲章や記章の世界では、左胸が先に場所を取っています。国の規程は、左胸に着けることを説明抜きの前提として書いているほどです。
規程は「左胸に着用する勲章」から書き出す
昭和39年の総理府告示第16号「勲章等着用規程」の第六条は、いくつも並べて着けるときの順序を定めた条文です。
左胸に着用する勲章、褒章及び記章をあわせて着用する場合には、勲章、褒章、記章の順序に着用する。
左胸であること自体は、どの条文も説明していません。前置きなしに書き出せるほど、当たり前の前提だったのでしょう。
明治22年の佩用心得を引き継いだ規程
この規程の附則は、明治22年の賞勲局告示第1号「勲章記章佩用心得(くんしょうきしょうはいようこころえ)」などを廃止すると定めています。勲章の着け方の決まりは明治から続いており、昭和39年の規程はその後継です。左胸という前提も、この長い流れの中で受け継がれてきたと考えられます。
自衛官のき章は左胸から右胸へあふれる
防衛省の「防衛記念章の制式等に関する訓令」には、記念章とき章を多く着けてき章が襟に隠れるときの備考があります。そのときは「順次き章を左胸部から右胸部に移動して着用することができる」とされました。記章の本来の居場所は左胸で、右胸は空きを借りる側。名札が右胸にある制服では、左右の役目がこう分かれています。
アメリカ陸軍は名前が右、所属が左
アメリカ陸軍の戦闘服では、姓を書いたネームテープを右胸ポケットのすぐ上に着けます。「U.S. ARMY」のテープは左胸ポケットのすぐ上です。個人を示す情報が右、所属を示す情報が左という分担で、陸上自衛隊の右胸の名札とよく似た配置になっています。
学校の名札はなぜ左胸が多い?

学校の名札に左胸が多いのも、制服の胸ポケットが左に付いていることが多いためと考えられます。北海道教育大学附属札幌中学校の配布資料「名札の付け方」は、その形がよく分かる一枚です。
名札は「左胸ポケットの場所に」糸でくくる
男子の冬服について、資料は名札を「左胸ポケットの場所に」糸でくくり付けると書いています。糸の長さには少し余裕をもたせるとよい、という添え書きもありました。自衛隊の通達と同じく、位置の起点はポケットです。
ポケットの無い服は「左胸あたり」に台布で
女子の制服と男子の夏服では、名札や章を付けた台布を安全ピンなどで「制服の左胸あたり」に留めます。基準のポケットが無い服になると、指定も「あたり」という大づかみな言い方に変わりました。目印が無いと細かい位置は書けないという点で、妊婦服の規定と通じるところがあります。
学年章と学級章は襟の左側
同じ資料で、男子の冬服の学年章と学級章は襟の左側に付けると決めています。名前はポケットの場所に、所属を示す章は襟に。小さな配布資料の中にも、名前と所属の置き場を分ける考え方が入っていました。
登下校中に名札を外すのはなぜ?

登下校中の名札は、知らない人に名前を読まれる心配があるため、隠したり外したりする学校が増えています。先の資料も「登下校中は、名前が見えないようにポケットの中に入れることができます」と書いています。
佐賀県警が2021年に見直しを要請
佐賀県警は2021年3月末、防犯のため登下校中の名札を外すなどの対応を県教育委員会に求めました。佐賀新聞によると、きっかけは県西部の小学校の近くで起きた児童の盗撮被害です。鹿島市の女性からは、娘の友達が下校中に知らない男に名前を呼ばれて話しかけられた、という声も寄せられました。
小学校は17市町、中学校は12市町が見直し
同紙の2021年4月22日の記事では、小学生について17市町がすでに着用の見直しを決めていました。中学生は12市町が決定し、7市町が検討中です。中学校は制服に縫い付けるタイプが多く、名札ごと替える必要があって対応に時間がかかったと伝えられています。
身元が分かる利点を惜しむ声
同紙が読者の声を集めた記事では、防犯の面から賛成する意見が目立ちました。それでも「体調が悪くなった子どもの保護者に連絡できた」という経験も寄せられています。ランドセルの内側など見えない場所に連絡先を書いておく、という折衷案も出ていました。
スーツに名札をつけるなら右と左のどっち?

スーツには名札の規定が無く、マナーの説明は右胸派と左胸派に分かれています。おもしろいのは、どちらも握手の場面を理由に挙げていることです。
左襟は社章の定位置
スーツの左襟にはフラワーホールという穴があり、社章はふつうここに通して裏から留めます。記章メーカーの山脇マーク製作所によると、もとは第一ボタンを留めるための穴でした。結婚式で男性が花を挿したことから、この名が付いたようです。スーツの左胸は、所属を示す社章にすでに使われている場所なのです。
アメリカのマナーは右胸を勧める
米国商工会議所のサイトに載ったマナー記事は、名札をシャツや上着の右側のポケットの上に着けるよう勧めています。握手をしながら相手の目を見て、そのまま名前も読めるから、という理由です。同じ記事は、国旗のピンなら米国の国旗法にならって「心臓に近い左の襟」に着けるとしています。
同じ握手を理由に左胸を勧める説明もある
日本では反対に、名札は左胸が基本とする説明もよく見かけるもの。セントウェル印刷のブログは、左胸は心臓の側で、あいさつや握手のときに相手の目線から自然に見える位置だと説明しています。握手という同じ場面から、右と左の正反対の結論が出ているのです。
職場の決まりが無ければ服に合わせる
決まりが無い以上、どちらに着けても誤りではありません。左胸にポケットのある作業服なら、ポケットに合わせて左に着けるのがいちばん自然でしょう。職場に決まりがあればそれが優先で、無ければ服の部品に合わせる。制服の規定がたどり着いた答えも、結局はそこでした。
名札は胸に着いているように見えて、規定の上ではポケットに着いています。右胸の人は右に、左胸の人は左に、基準の部品がある服を着ているだけ。名札の右と左は、体ではなく服が決めていたのです。
参考
- 陸上幕僚監部「名札の制式及び着用要領について(通達)」
- 千葉県警察「警察官の服制に関する規則施行細則」
- 内閣府「勲章等着用規程」(昭和39年総理府告示第16号)
- 北海道教育大学附属札幌中学校「名札の付け方」
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