破魔矢の「はま」は、もともと魔のことではありません。藁(わら)や蔓(つる)を丸く編んだ正月の的が「はま」で、それを射る弓矢だから「はま弓」「はま矢」と呼ばれました。「破魔」の字はあとから当てられたもので、字が付いてから「魔を破る矢」という意味が広まったとされています。的の名前が縁起物の名前に変わるまでを辞典と江戸の記録でたどると、思いのほか長い道のりでした。
「はま」は正月の的の名前

藁や蔓を円座の形に編んだ輪
『デジタル大辞泉』は「はま」の二つめの意味を、破魔弓の的として藁やカズラを円座の形に編んだもの、と説明しています。円座は藁で丸く編んだ敷物のことです。『精選版 日本国語大辞典』も同じく、藁や樹枝で円座のように丸く組んだ的としています。呼び名には「はまころ」「はんま」もありました。
室町の辞書にはもう的の意味で載っている
的としての「はま」の用例に、日本国語大辞典は室町時代中期の『文明本節用集(ぶんめいぼんせつようしゅう)』を挙げています。節用集は当時の国語辞書です。魔よけの縁起物として神社に並ぶよりずっと前から、「はま」は子どもの遊び道具の名前として通じていたことになります。
輪のことか、輪の穴のことか
『世界大百科事典』は、江戸時代の有職故実書『貞丈雑記(ていじょうざっき)』を引いて少し違う説明をしています。大和国吉野郡(奈良県)や土佐国(高知県)では、縄を巻いて直径1尺(約30センチ)ほどの輪を作りました。その中にあけた2〜3寸(約6〜9センチ)の鍋敷きのような穴を「はま」と呼んだ、というのです。
辞典は輪そのものを「はま」とし、貞丈雑記は真ん中の穴を「はま」とする。狙う先が30センチの輪か、10センチに満たない穴かで、遊びの難しさはまるで違います。貞丈雑記が挙げる土地は吉野と土佐だけで、全国の呼び方を示すものではない点も踏まえておきたいところです。
「破魔」の字はあとから当てられた

「破魔」はもとは仏教の言葉
「破魔」の一つめの意味は仏教語で、悪魔を打ち破ること、煩悩(ぼんのう)を打ち払うことです。的の「はま」と音が同じだったため、この字が当てられました。『日本大百科全書』は「破魔」を当て字だとはっきり書いています。字が先にあったのではなく、音に合う縁起のよい字を選んだ順番です。
「浜弓」と書かれることもあった
日本国語大辞典は見出しを「破魔弓・浜弓」と併記し、ブリタニカ国際大百科事典も「浜弓」とも書くとしています。海辺の浜とは関係のない、音だけを写した書き方です。表記がひとつに決まっていなかったこと自体、「はま」が意味より先に音で伝わっていた言葉だったことをうかがわせます。
魔よけの意味が付いたのは字のおかげ
『百科事典マイペディア』の説明では、「はま」に「破魔」の字を当てて魔を破る弓の意味を込め、縁起物にしたとのこと。ただ、年の初めに弓を射る行事には、もともと悪いものを祓う気分も伴っていたとされます。字が意味を連れてきたのか、すでにあった気分に字がぴたりと合ったのか。両方が重なったと見るのが自然かもしれません。
宮中の射礼はどんな儀式だった?

正月17日に天皇の前で競う弓
破魔弓の由来には、宮中の年中行事「射礼(じゃらい)」がよく挙げられます。毎年正月17日、親王以下五位以上の官人が弓の腕を披露する儀式でした。天皇は豊楽院(ぶらくいん)で見物し、のちには建礼門の前の庭が会場になります。成績のよい者は禄(ろく)を賜り、宴にも招かれました。
板の的を36歩先から射る
的は三重の輪を描いた2尺5寸(約75センチ)の板で、南北の2か所に据えられたといいます。射手は的から東へ36歩離れた場所から矢を放ちました。民間の「はま」が藁の輪だったのとは、素材も大きさもまったく違います。
2日前に兵部省で予行があった
本番の2日前、15日には兵部省(ひょうぶしょう)で「手結(てつがい)」と呼ばれる予行が行われ、射手が選ばれました。本番で日没までに射終わらなかった者は翌日に回され、これを射遺(いのこし)と呼びます。正月の儀式にしては、かなり本格的な競技でした。
始まりは670年説と675年説
始まりの年は、事典によって食い違いがあります。世界大百科事典は天智9年(670年)から恒例になったとし、日本大百科全書は天武天皇4年(675年)正月17日に儀式として整ったという立場です。終わりについては、応安年間(1368〜75年)以後に廃絶したという点で一致しています。700年ほど続いた行事でした。
村の破魔打ちは年を占う勝負

転がる輪を枝でさえぎる遊び
宮中とは別に、村には「破魔打ち」という正月の遊びがありました。日本国語大辞典によると、二組に分かれ、一方が藁や樹枝で丸く作った的を投げ転がします。もう一方は木の枝を投げてそれをさえぎり、輪が境界線を越えれば転がした側の勝ちです。「破魔投げ」という別名もありました。
投げ上げた輪を弓で射落とす形も
『デジタル大辞泉』の説明はまた違い、空中に投げた「はま」を弓矢で打ち落とす遊びとしています。マイペディアは、江戸時代には男の子が「はま」を転がして破魔弓で射抜く遊びだったと書きます。枝で止めるのか、矢で射るのか。土地や時代によって遊び方にはかなり幅があったようです。
勝ち負けがその年の占いだった
破魔打ちは、もとは年占(としうら)の一つでした。年占とは、年の初めにその年の豊作や吉凶を占う行事です。組の勝ち負けが、そのまま一年の見通しとして受け取られました。矢は魔を退ける道具である前に、年の行方を尋ねる道具だったわけです。
「破魔射場」という地名が残る
デジタル大辞泉によれば、破魔打ちをした場所は「破魔射場(はまいば)」と呼ばれ、各地に地名として残っています。正月に子どもや若者が集まって輪を転がした広場の記憶が、地図の上に今も刻まれているということです。
男の子の正月飾りになったのはいつ?

板に弓矢と押し絵を飾った贈り物
江戸時代になると、破魔弓は遊ぶ道具から飾る品へ変わります。細長い板に弓矢を飾り付け、その下に武者人形の押し絵を貼ったものです。日本大百科全書は、これを男児の初正月に祝い品として贈ったと説明しています。押し絵は布で綿をくるんで立体的に見せる細工です。
初節供の贈り物にもなった
世界大百科事典の旧版は、破魔弓が正月に男の子へ贈る玩具となり、のちに初節供の贈り物にもなったと書きます。いまも男の子が生まれた家に、親戚から破魔弓や破魔矢の飾りが届く習わしが残っています。射るための弓矢が、子の前途を祝う飾りに役目を変えたのです。
宮中と村の流れはどこで合わさったか
事典は、射礼と民間の遊びの両方を由来として並べます。ただ、宮中の的は板で、村の的は藁の輪でした。片方がもう片方から生まれたと書く事典は見当たりません。宮中の儀式は絶え、村の遊びは男児の飾りとして残った。正月に弓を射るという一点で、二つの流れがひとまとめに語られるようになったと読むのが穏当です。
神社で授かるようになった始まりは?

『武江年表』が書きとめた宝暦の末
参詣者が神社で矢を求めて持ち帰る習慣は、江戸時代の中ごろに記録が出てきます。手がかりは、江戸の出来事を年ごとに記した『武江年表(ぶこうねんぴょう)』です。宝暦の末から矢口の新田社に参詣が多くなり、社地で矢を売り始めた。詣でた人はそれを求めて守りにした。そんな趣旨の記述が残っています。宝暦の末は1760年代の前半です。
新田神社と矢口の渡
矢口の新田社は、いまの東京都大田区にある新田神社(にったじんじゃ)です。祀られているのは新田義貞の次男・新田義興(にったよしおき)。正平13年(1358年)10月10日、多摩川の「矢口の渡」へ誘い出され、船頭に舟底へ穴をあけられて最期を遂げました。『太平記』巻第三十三が伝える事件で、神社の例祭もこの10月10日です。
平賀源内が考えたと伝わる矢守
門前の茶店では、義興の矢と称するものが売られていたといいます。これをヒントに平賀源内が魔よけの「矢守」を考えた、と伝えられています。使ったのは御塚の外には生えないとされる篠竹(しのだけ)で、五色の紙で矢に仕立てて新田家の旗印を付けました。この矢守が広まって、破魔矢の元祖になったとされます。
買うのは2本、置いていくのは1本
参拝客は矢を2本求め、1本を神殿に供えて、もう1本を持ち帰り魔よけにしたと伝わります。新田家に伝わった「水破・兵破(すいは・ひょうは)」という二筋の矢にちなむものだそうです。いまの破魔矢はたいてい1本で授かるので、数からして始まりとは違っていました。
源内の考案はどこまで確か?

矢を売ったのは記録、考案者は伝承
社地で矢が売られていたことは、武江年表という江戸の記録に残っています。一方で「源内が考えた」という部分は、神社に伝わる話として語られるもので、同時代の証文が示されているわけではありません。源内には土用の丑の日のうなぎを広めたという有名な逸話もありますが、こちらも確かな一次資料は見つかっていないとされます。
※ 社伝(しゃでん)とは、神社に代々伝えられてきた由緒や言い伝えのことです。同時代に書かれた記録とは区別して扱われます。
浄瑠璃『神霊矢口渡』が人を呼んだ
源内がこの神社と関わりが深いのは確かです。福内鬼外(ふくちきがい)の筆名で、義興の物語をもとに浄瑠璃『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』を書きました。明和7年(1770年)に江戸の外記座で初演され、寛政6年(1794年)には歌舞伎にもなっています。芝居の評判が参詣の人出を後押ししたことは、時期を見るかぎり無理のない見方でしょう。
上棟式の破魔矢は上下を向く2本組

鬼門に向けて屋根の上に立てる
破魔矢にはもう一つ、家を建てるときの顔があります。新築の上棟式で、破魔弓とともに鬼門の方角へ向けて屋根の上に立てるものです。デジタル大辞泉も世界大百科事典も、この屋上の弓矢を破魔弓・破魔矢と呼んでいます。正月の縁起物とは別の場面で、同じ名前が使われてきました。
檜の鏑矢を上に、雁股矢を下に
日本国語大辞典によれば、上棟式の破魔矢は檜(ひのき)で作った2本の矢の形をしたものです。鏑矢(かぶらや)を上に、雁股矢(かりまたや)を下に向けます。用例には、享和3年(1803年)の『匠家故実録(しょうかこじつろく)』に見える「破魔弓・破魔矢之作格」が挙げられています。新田社の矢守と同じく、こちらも2本で一組でした。
※ 鏑矢(かぶらや)とは、先に穴のあいた中空の鏑を付け、射ると音が鳴る矢です。雁股矢(かりまたや)は、先が二股に開いた鏃(やじり)を付けた矢をいいます。
家の破魔矢はどう扱う?

授与品・飾り・棟上げの3種類
ここまで見てきたとおり、破魔矢と呼ばれるものには出どころの違う3種類があります。授かった場面によって扱いも変わるので、並べておきましょう。
| 種類 | 手に入る場面 | 扱いの目安 |
|---|---|---|
| 初詣の授与品 | 年末から正月にかけて社寺で | 1年ほどで新しくし、古いものは社寺へ納める |
| 初正月・初節供の飾り | 男の子の誕生後に親戚などから | 飾り物として毎年出す |
| 上棟式の破魔矢 | 家を新築する棟上げで | 棟に納めたままにする |
置き場所は神棚や高い棚が目安
神棚や床の間、目線より高い棚。授与品の破魔矢は、そうした清らかで高い場所に置くのがよいとされます。向きには決まりがないとする説明が多く、矢先を年ごとの凶の方角へ向けるという言い方は民間の習わしにとどまるようです。社寺によって案内は一様ではないので、授かった場所で尋ねるのがいちばん確かでしょう。
返すのは授かった社寺か左義長で
古くなった破魔矢は、授かった社寺の納札所へお返しするのが基本です。遠くて戻れないときは、小正月の火祭り「左義長(さぎちょう)」に託す方法もあります。どんど焼き・さいと焼きとも呼ばれ、多くの地域で1月14日の夜か15日の朝に、門松や注連縄(しめなわ)などの正月飾りと一緒に焚き上げる行事です。
「破魔矢」が商標だった時期がある

ニュースでは「魔よけの矢」と言い換えた
縁起物の名前としての「破魔矢」は、かつて「破魔矢奉製所」という会社が商標登録していたと紹介されています。その時期には、NHKのニュースなどが「魔よけの矢」と言い換えていたそうです。言葉が広く使われるようになり、のちに一般の名前へ戻ったとされます。
言葉は戦国時代の書状に出てくる
ただし、これは語源の話ではありません。日本国語大辞典が「はま矢」の用例に挙げるのは、毛利家文書に残る1565年ごろの書状です。そこでは「御はま矢共、何方へも御遣候はば」と、贈り物として扱われています。名前の由来を会社に結びつけるのは誤りで、語源の解説もその点をはっきり否定しています。
破魔矢の歴史は、引き算の歴史でもありました。まず藁の輪という的が消え、次に競う相手が消えます。やがて弓も手を離れ、勝ち負けで年を占う勝負もいつしか姿を消しました。最後に残ったのは、道具のうちいちばん細くて軽い一本です。狙う的を失った矢は、それでも毎年の正月に、新しい年のほうへまっすぐ向けられています。
参考
- コトバンク「破魔矢」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・世界大百科事典)
- コトバンク「破魔打ち」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典)
- コトバンク「射礼」(世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
- ウィキペディア「新田神社 (大田区)」
関連記事








